## 第八話 最初の実戦
朝は冷たかった。
夜のあいだに草へ降りた露が、まだ陽の熱を受けきれず、足元で小さく光っている。
朝霧誠司が目を覚ました時、隣にあったはずのベルベットの体温はもう離れていたが、昨夜の名残は肩へ微かに残っていた。
それが現実だったのか、疲労で見た都合のいい夢だったのか、一瞬だけ判断に迷う程度には、彼の頭はまだ寝起きの鈍さを引きずっていた。
「起きたなら顔を上げろ」
低い声がして、誠司は反射的に背筋を伸ばす。
ベルベットは少し離れた岩の上に立ち、森の浅い茂みの先を見ていた。
朝の光に照らされた横顔は、昨夜の静かな寝顔を知ってしまった後では少し眩しいほど鋭く見える。
同じ人物のはずなのに、眠っている時と起きている時とで、まるで別の生き物のようだった。
「何かいるのか」
誠司が声を潜めて問うと、ベルベットは頷く。
「いる。小型だが数が多い」
その言葉には、緊張よりも確認の色が濃い。
敵襲というより、避けるか、試すか、判断を迫られている状況なのだろう。
誠司は脇腹の傷を押さえながら立ち上がる。
痛みはまだ残る。
だが、立てないほどではない。
昨夜のうちに考えたこと――この世界で何を出来るのか、自分は何のために戦うのか――そうした曖昧な問いの数々が、現実の足音を聞いた瞬間に、一度脇へ追いやられていく。
いま必要なのは思索ではなく、判断だった。
「どんな魔物だ」
「犬に似てるが、牙が大きい。群れで囲んでくる」
ベルベットは短く答え、そのまま足元の草を軽く踏む。
「たぶん、この辺で餌を探してるだけの雑魚だ。でも、数が集まれば怪我人には十分危険だ」
雑魚、と彼女は言った。
だが、その雑魚という表現に安心するほど、誠司はこの世界の戦闘へ慣れていない。
相手が魔物である以上、こちらの常識がそのまま通じる保証はないし、群れという単語がつく時点で厄介さは十分にある。
それでも、ベルベットの口調に不自然な強張りがないことだけは救いだった。
彼女が本気で危険だと判断していれば、こんな風に冷静に説明する余裕すら持たないだろう。
「やるのか」
誠司の問いに、ベルベットは振り返る。
その眼差しは、まるでこちらを値踏みするようだった。
「お前が武器を試したいなら、ちょうどいい」
そこで一拍置き、口元をわずかに歪める。
「それとも、まだ机の上で考えるだけにしておくか」
言い方がいちいち挑発的だった。
だが、その棘の奥に、わざと逃げ道を与えていない意図があるのも分かる。
誠司は小さく息を吐き、銃を握り直した。
冷たい金属の感触が掌へ収まると、頭の中の迷いが少しだけ整理される。
この武器は考えるためのものでもあるが、結局のところ撃って初めて意味を持つ。
ならば、実戦を避ける理由はなかった。
「やる」
短く言うと、ベルベットは満足げでも不満げでもない、奇妙に無感情な顔で頷いた。
「なら、私が前に出る。お前は後ろから撃て」
それは当然の役割分担だった。
近接戦において、ベルベットは圧倒的に頼もしい。
対して誠司の銃は、まだ未知が多いとはいえ、少なくとも距離を取って撃つ武器であることだけは確かだ。
前衛と後衛。
単純だが、いまの二人にはそれが最も自然だった。
二人は茂みの陰へ身を屈めながら、ゆっくりと魔物の気配へ近づいていく。
やがて、低い唸り声と、土を掻く爪の音がはっきり聞こえた。
誠司が草の隙間から覗き込むと、そこには灰褐色の毛並みを持つ獣が五、六匹、崩れた柵の周辺をうろついている姿があった。
大きさは中型犬ほど。
だが、口元から突き出た牙は不自然に長く、背骨に沿って逆立った毛は、ただの野生動物ではない異質さを十分に物語っていた。
目の色もおかしい。
どれも濁った黄色をしていて、生き物というより、飢えそのものへ形を与えたような不気味さがある。
「……確かに、犬みたいだな」
誠司が呟くと、ベルベットは鼻で笑うように息を吐く。
「噛まれた後で、同じ感想を言えたら褒めてやる」
言うなり、彼女は身を低くした。
合図も何もない。
ただ次の瞬間には、弾かれた矢のように前へ飛び出していた。
速い。
昨夜の奴隷舎で見た時も凄まじかったが、こうして視界の開けた場所で見ると、その身体能力はなおさら常識外れだった。
ベルベットは一番手前の魔物へ真正面から突っ込み、相手が飛びかかるより早く右足で地面を蹴る。
そのまま体を捻り、包帯の巻かれた左腕ではなく、まずは右手で魔物の首筋を掴んだ。
次の瞬間、獣の体が地面へ叩きつけられ、短い悲鳴とともに土埃が舞う。
そこへ間髪入れず、異形の左腕が赤黒い軌跡を描き、喉元を横に裂いた。
血が飛ぶ。
他の個体が一斉に唸り声を上げ、群れとしての殺意がこちらへ向いた。
その瞬間、誠司も銃を構える。
人へ向けた時とは違った。
あの時は、引き金の先に人間がいるという事実そのものが、ためらいを極限まで重くしていた。
だが、いま目の前にいるのは、明らかにこちらを喰い殺す気で牙を剥く異形の獣だ。
相手が人ではないというだけで、抵抗感が完全に消えるわけではない。
命を奪うかもしれないという現実は、やはりどこかで心へ引っかかる。
それでも、その引っかかりはわずかなものだった。
少なくとも、躊躇っているうちにベルベットを死なせるほど大きくはない。
(撃てる)
その確信と同時に、誠司は呼吸を整えた。
視線は前へ。
狙うのは、ベルベットの死角から回り込もうとする個体。
距離。
動き。
着地のタイミング。
そうした要素が不思議なほど自然に頭へ収まり、彼の人差し指は迷いなく引き金を絞る。
銃声が乾いた朝の空気を裂いた。
弾丸は真っ直ぐ飛び、走り込んでいた魔物の肩口を正確に撃ち抜く。
体勢を崩した個体が地面を転がる。
その隙へベルベットが踏み込み、鋭い蹴りで顎を跳ね上げた。
骨の鳴る音がして、獣はそのまま動かなくなる。
「悪くない!」
ベルベットが短く叫ぶ。
その声には余裕があった。
だが、余裕があるからこそ、誠司はなおさら気を抜けない。
一匹を倒した程度で終わる相手ではない。
むしろ群れは仲間がやられたことで完全に興奮し、二匹が同時にベルベットへ飛びかかった。
彼女は右へ半歩ずれて一匹を躱し、もう一匹の牙を左腕で受け止める。
包帯の下で異形の肉が蠢き、魔物の顎へ食い込むように固定される。
普通なら噛みつかれた側が不利になるはずなのに、ベルベットは逆にそれを利用して相手の動きを止め、そのまま体ごと引き寄せた。
至近距離でぶつかる獣臭と血の匂いが、ここまで離れていても届く。
彼女はそのまま相手を捻り倒し、もう一匹の頭を蹴り抜いた。
だが、後方から別の二匹が誠司へ向きを変える。
前衛を抑えられないと見て、群れとしての狙いを切り替えたのだろう。
その判断の早さが、ただの獣ではない気味の悪さを際立たせる。
誠司は一歩下がり、銃口を上げる。
怖くないわけではない。
牙を剥いた獣がこちらへ一直線に迫ってくる光景には、本能の奥を冷やす種類の恐怖がある。
だが、その恐怖は視界を曇らせなかった。
むしろ、すべてを鮮明にした。
二度目の引き金。
反動。
着弾。
次弾。
それらが以前よりずっと滑らかにつながっている。
一匹目の前脚を撃つ。
体勢が崩れる。
すぐさま二発目。
眉間。
血飛沫。
もう一匹が飛び込む。
反射的に半身をずらし、銃口を下から跳ね上げるように撃ち込む。
口内へ入った弾が頭蓋を貫き、魔物はほとんど勢いのまま誠司の足元へ転がった。
自分でも驚くほど、弾は正確だった。
昨夜、人へ向けて撃った時も外しはしなかった。
だが、あの時は切迫した極限の中で、とにかく当たったという印象が強い。
いまは違う。
狙った場所へ、意識した通りに弾が吸い込まれていく。
それは偶然ではなく、技量と呼ぶにはまだ粗削りでも、少なくとも“武器に選ばれた者”としての適性があるのだと、自分自身へ突きつけてくる精度だった。
「まだいる!」
ベルベットの声が飛ぶ。
誠司は顔を上げ、最後の一匹が彼女の背後へ回ろうとしているのを見つける。
距離はややある。
だが、十分に狙える。
彼は呼吸を半分だけ止め、銃口をわずかに先へ置いた。
相手の走る速度。
地面の傾き。
風はほとんどない。
条件が、不思議なほど自然に整理されていく。
引き金を引く。
弾丸は魔物の横腹を貫いた。
致命傷には少し足りなかったが、それで十分だった。
ベルベットが振り返りざまに踏み込み、異形の左腕でその首を斜めに断つ。
血が草を濡らし、群れの動きが完全に止まる。
朝の空気へ残るのは、火薬の匂いと、温かい血の鉄臭さだけだった。
しばし、静寂が落ちた。
誠司は銃を構えたまま、次の気配がないか耳を澄ませる。
だが、もう唸り声は聞こえない。
ベルベットも周囲へ鋭く視線を走らせていたが、やがて小さく息を吐いた。
「終わりだ」
その一言とともに、誠司の全身からようやく力が抜ける。
膝が笑うほどではない。
だが、張り詰めていた神経が緩んだ瞬間、自分がどれだけ緊張していたのかを嫌でも思い知らされた。
「……勝ったのか」
「見れば分かる」
ベルベットは相変わらず素っ気なかったが、その声にはかすかに満足が混じっていた。
「初めてにしては、よく撃てた方だ」
その評価を聞いて、誠司はようやく浅く笑う。
褒められた、というほど甘い言い方ではない。
けれど、ベルベットが結果を認めたことだけは確かだった。
それが妙に嬉しい自分に気づき、少しだけ可笑しくなる。
だが、次の瞬間だった。
視界の端へ、見慣れない光が走る。
いや、光というより、頭の中へ直接差し込まれる表示に近い。
数字。
感覚。
自分の内側で何かが一段階だけ引き上げられるような、微細だが確かな変化。
「……何だ、これ」
誠司は思わず呟いた。
筋肉の張りがほんの少し軽くなり、呼吸がわずかに深くなる。
傷が治るわけではない。
それでも、身体の基礎がじわりと底上げされたような奇妙な実感があった。
ベルベットが首を傾げる。
「どうした」
「いや、なんか……変な感じがして」
誠司は自分の手を見下ろした。
銃を握る感覚が、さっきよりほんの少しだけ馴染んでいる。
そして何より、脳裏の奥で“上がった”という認識だけが、不自然なほど鮮明だった。
言葉として誰かに教えられたわけではない。
なのに、自分の中で確信がある。
「もしかして」
ベルベットが言葉を継ぐ。
「レベルが上がったんじゃないか」
その瞬間、誠司は目を見開く。
彼女に説明されたばかりの概念。
魔物を倒し、戦い、生き残ることで強くなる。
あれが、いま自分の中で起きたのだ。
「これが……レベルアップ?」
間の抜けた確認だった。
だが、ベルベットは珍しく笑わなかった。
代わりに、少しだけ興味深そうな顔で誠司を見る。
「たぶんな」
彼女は近寄ってきて、じっと誠司の顔色と立ち方を観察する。
「ふらつきが減ってる。さっきより体の軸が安定してるな」
それは彼女なりの確かめ方なのだろう。
ステータスを数字として見ているわけではない。
けれど、この世界の住人として、成長の気配を体で察する程度には慣れている。
誠司は自分の掌を開き、閉じる。
変化は劇的ではない。
だが、確かにある。
初めて異世界へ放り込まれてから、ここまでずっと受け身で、振り回されるだけだった。
だがいま、自分が確かにこの世界の法則の中で一歩進んだのだと、その手応えがある。
安堵が胸へ広がる。
撃てた。
生き残れた。
ベルベットも無事だ。
そして、自分は少しだけ強くなった。
その一つ一つが、いまはひどく重く、そして同時に救いだった。
「すごい、な……」
誠司はほとんど独り言のように呟く。
「これが、この世界の当たり前なのか」
ベルベットは倒れた魔物の死骸を一瞥し、淡々と答える。
「当たり前というより、生き残った奴だけが知る実感だ」
その返しは厳しい。
だが、厳しいからこそ本物だった。
この世界では、強くなるという事実そのものが、生存者の証明なのだ。
彼女は包帯の巻かれた左腕を軽く振り、誠司へ視線を戻す。
「驚くのは後でも出来る。使えそうな素材があれば拾うぞ」
言いながらも、その目には僅かな満足があった。
初めての実戦で足を引っ張るどころか、後衛としてきちんと役割を果たした。
その結果に対する、彼女なりの評価なのだろう。
誠司は頷き、倒れた魔物たちへ視線を向けた。
血と火薬の匂いの中で、ようやく実感が追いついてくる。
ここがゲームではなく、命のやり取りを通じて確かに成長する世界なのだという実感。
そして、自分の銃がこの世界で通用するのだという、ささやかな確信。
その小さな勝利と、初めてのレベルアップへの驚きは、たぶん後から思えば些細な通過点なのだろう。
けれど、朝霧誠司にとってこの戦いは、ただの一勝ではなかった。
それは、異世界へ落とされた大学生が、初めてこの世界の法則へ自分の足で触れた瞬間だった。
そして、その一歩が確かに前進であったことを、脳裏へ灯る奇妙な実感が静かに証明していた。