夜明けは、思っていたより静かに来た。
王宮の宿舎へ差し込む光はまだ薄く、窓枠の形を床へ淡く描いている。夜の青さが部屋の隅に残り、朝の金色とゆっくり押し合っていた。
机の上には、女王から渡された波の予測地点を示す地図が広げられている。王都から北東へ伸びる街道、その先にある村、森、河川。赤い印で囲まれた場所が、次の波の発生候補地だった。
俺は銃を分解する必要もないのに、布で何度も銃身を拭いていた。
汚れているわけではない。
ただ、手を動かしていないと、口にしようとしている言葉が先に逃げてしまいそうだった。
向かいでは、ベルベットが旅装を整えていた。
革紐を引き、荷物を固定し、外套の留め具を確かめる。動作に迷いはない。けれど、ひとつの紐だけを必要以上に強く引いている。
革が軋んだ。
「それ以上引いたら切れるぞ」
「切れたら替えるわ」
「荷造りって、敵を倒す作業じゃないからな」
「分かってる」
「分かってる人の力加減じゃない」
ベルベットは返事の代わりに、さらに紐を引いた。
指の皮膚へ赤い線が浮かぶ。
窓から差し込む光は、彼女の足元まで届いていなかった。俺の側には朝が来ているのに、彼女の立つ場所だけはまだ夜の続きを残している。
昨夜、俺は一人で行くなと伝えた。
それだけでは足りなかった。
一人にしないと約束するだけなら、簡単だ。
追いかけると言うこともできる。隣に立つと口にすることもできる。
けれど、彼女が何を見て前へ進むのかを知らないままでは、同じ方向へ歩いているふりをするだけになる。
俺は銃を拭く手を止めた。
「ベルベット」
「何」
「もう一度だけ、聞かせてほしい」
彼女の手は動いたままだった。
「君は、何のために波と戦う?」
革紐の軋みが止まった。
部屋の外では、王都が目を覚まし始めている。荷車の車輪が石畳を転がり、遠くで店の扉が開く音がした。誰かが水を汲み、誰かが朝食の火を起こし、昨日と似た一日を始めている。
ベルベットは顔を上げなかった。
「復讐よ」
答えは迷いなく落ちた。
「最初にあんたと会った時から、何一つ変わってない」
奴隷商人の檻の中で出会った日のことを思い出す。
鉄格子の向こうにいた彼女は、誰も近づけない刃物みたいだった。鎖に繋がれていても目だけは死んでいなくて、世界そのものへ噛みつくようにこちらを睨んでいた。
弟を奪った波。
故郷を壊した波。
彼女の中で、それは敵の名前である前に、時間を止めた傷口だった。
「今さら、私が誰かを守るために戦うとでも思った?」
ベルベットが結び終えた紐から手を離す。
「教皇を倒したのも、あいつらが気に食わなかったから。三勇教を潰したのも、私たちを利用しようとしたから。波へ行くのも、奪われた分を返させるためよ」
「うん」
「うん、じゃないでしょ」
彼女がようやく顔を上げた。
鋭い目だった。
昨夜よりも明るい部屋で見ると、その目の奥にある熱が余計にはっきり見える。
「復讐をやめろって言いに来たんじゃないの」
「違う」
「なら、私が何のために戦うかなんて、聞く必要ないじゃない」
「あるよ」
ベルベットの眉が寄った。
俺は腰の銃へ手を伸ばさなかった。
空いた両手をそのまま身体の横へ下ろす。
「君の復讐を変えたいわけじゃない」
「だったら何」
「その怒りを、次に奪われる人を減らすためにも使ってほしい」
部屋に短い沈黙が落ちた。
外を走る荷車の音が、窓の向こうを通り過ぎる。車輪が石の継ぎ目を越えるたび、小さく跳ねる音が聞こえた。
ベルベットは鼻で笑う。
「私に英雄になれっていうの?」
「違う」
「じゃあ、善人にでもなれって?」
「それも違う」
「随分と注文が多いわね」
「君に言われたくない」
「何ですって?」
「ごめん。今のは余計だった」
反射的に謝ると、ベルベットは呆れたように息を吐いた。
その呼吸で、張りつめていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
「英雄になる必要なんてない」
俺は続ける。
「君が波を許せなくてもいい。弟のことを忘れなくてもいい。むしろ、忘れろなんて俺には言えない」
ベルベットの人間のまま残った手が、ゆっくり握られる。
「俺は君の弟に会ったことがない。最後にどんな顔をしていたのかも、どんな声だったのかも知らない」
「……そうね」
「だから、分かるとは言わない」
窓から入った風が、机の地図を揺らした。
赤い印のある波の予測地点と、そこから王都へ戻る街道が、同じ紙の上でかすかに動く。行く道と帰る道は、最初から別々に描かれているわけじゃない。一本の線を、どちらへ進むかで名前が変わるだけだ。
「それでも、今度の波で誰かが家族を失いそうなら、君の力を貸してほしい」
「私の復讐を、人助けに使いたいってこと?」
「利用するみたいに聞こえるな」
「実際そうでしょ」
「否定はできない」
俺は苦く笑った。
「でも、俺も銃を使う。シノンも弓を使う。ヒッポリュテも槍を使う。君の怒りだけを綺麗なものに変えようとは思ってない」
ベルベットは黙っている。
「波を壊したいなら、一緒に壊そう」
「……随分と物騒な言い方ね」
「君に伝えるなら、その方が早いと思って」
「少しは分かってきたじゃない」
「少しだけ?」
「調子に乗らないで」
彼女の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑顔と呼ぶには短すぎる変化だったが、それで十分だった。
俺は机の地図へ目を落とす。
「ただ、ひとつだけ頼みがある」
「まだあるの」
「これが一番大事」
ベルベットは荷物から手を離した。
今度は作業を続けず、身体ごとこちらへ向ける。
俺も椅子から立ち上がった。
朝日が床を進み、二人の間に置かれていた荷物へ届く。外套の留め具や革袋の金具が光を返し、暗かった部屋の半分がゆっくり色を取り戻していく。
「俺たちと一緒に戦ってほしい」
「もう、その話は昨日したでしょ」
「最後まで聞いてくれ」
「命令しないで」
「お願いしてる」
ベルベットが腕を組む。
「言ってみなさい」
「一緒に戦って、一緒に帰ってきてほしい」
彼女の表情から、わずかな動きが消えた。
遠くで鐘が鳴った。
三勇教の儀式の鐘ではない。王都の朝を知らせる、穏やかな鐘だった。
「帰る?」
「うん」
「どこへ」
その問いに、すぐ答えられなかった。
俺たちには、まだ故郷と呼べる場所がない。
王宮の宿舎は借り物で、旅の宿も、野営地も、次の日には離れてきた。
それでも、戻る場所は建物だけではない。
「俺たちがいる場所へ」
ベルベットの目が細くなる。
「随分と曖昧ね」
「まだ決まってないから」
「そんな場所を帰る場所って呼ぶの?」
「呼べるようにしたい」
自分でも、頼りない言い方だと思った。
けれど、立派な言葉で飾れば嘘になる。
「シノンが弓を置ける場所。ヒッポリュテが馬を休ませられる場所。君が眠る気になった時に、見張りを代われる場所」
「最後だけ随分と具体的じゃない」
「昨日、寝てなかったから」
「余計なお世話よ」
「それでいい」
ベルベットの拳が、もう一度固くなる。
「私は復讐を捨てない」
「捨てなくていい」
「波を前にしたら、あんたたちの声が聞こえなくなるかもしれない」
「その時は大声で呼ぶ」
「無視するわよ」
「追いついて肩を叩く」
「殴るわよ」
「できれば軽めにしてほしい」
「約束はしない」
会話はいつもの調子だった。
けれど、彼女の拳は開かない。
「私が死んでも、波を壊せるなら構わない」
その一言だけが、刃のように低く落ちた。
俺は一歩だけ前へ出た。
ベルベットは動かない。
もう一歩進めば触れられる距離で止まる。
「俺は構う」
「勝手ね」
「知ってる」
「私の命よ」
「それも分かってる」
「分かってないから、そんなことが言えるのよ」
「分かってなくても言う」
ベルベットの目が、まっすぐ俺を射抜く。
それでも、視線を逸らさなかった。
「君が復讐を果たして、その先で死んでもいいと思ってるなら、俺はそれを受け入れられない」
「受け入れなくても、結果は変わらないかもしれない」
「だったら、変えるために戦う」
「波と? それとも私と?」
「両方になるかもしれない」
「正直ね」
「誤魔化したら、君にはすぐばれるから」
ベルベットは短く息を吐いた。
その拳へ、俺は触れなかった。
代わりに、自分の手を差し出した。
握手を求めるには、不格好な距離だった。
それでも、今の俺にできるのは、そこまでだった。
「復讐を捨てなくていい」
言葉をひとつずつ置く。
「でも、それだけを持って一人で行かないでくれ」
ベルベットの視線が、差し出した手へ落ちる。
「俺たちと一緒に戦ってほしい。波の脅威から、人を守るために」
「……人を守る」
「君が守りたいと思えなくてもいい」
「何それ」
「最初は俺たちだけでもいい」
彼女の指が、わずかに動く。
「俺たちが倒れそうなら助けてくれ。そのついでに、後ろにいる誰かも助かるかもしれない」
「ずいぶん回りくどい正義ね」
「正義を名乗るつもりはないよ」
朝の光が、俺たちの足元で重なる。
「ただ、君の復讐の隣に、今いる人を失いたくないって理由も置いてほしい」
長い沈黙が続いた。
窓の外では、王都の朝が動いている。
市場へ向かう荷車の音、遠くで呼び合う店員の声、パンを焼く匂い。波の予測地点から遠く離れたこの街には、まだ何も起きていない。
その何も起きていない時間を守るために、誰かが戦場へ行く。
ベルベットは俺の手を見たまま、口を開かない。
やがて、魔物化していない方の手が上がった。
握手をするのかと思った瞬間、手首を乱暴に掴まれる。
「痛い!」
「うるさい」
彼女は俺の手首を強く引き、自分の方へ一歩近づけた。
「復讐は捨てない」
「うん」
「弟を奪ったものを許すつもりもない」
「うん」
「波を見たら、頭に血が上るかもしれない」
「その時は止める」
「止められると思ってるの?」
「全員でなら、たぶん」
「たぶんを付けるなって言われなかった?」
「尚文さんに言われた」
「学習しなさいよ」
「善処します」
ベルベットの指が、俺の手首へ食い込む。
振り払うための力ではなかった。
「それでも、あんたたちと行く」
朝の鐘が、もう一度鳴った。
「波を壊す。その途中で、守れるものがあるなら守る」
彼女は目を逸らさない。
「でも、私を英雄みたいに扱ったら殴るわよ」
「そこは絶対にしない」
「即答なのが腹立つわね」
「じゃあ少し迷えばよかった?」
「もっと腹立つ」
「難しいな」
ベルベットの手が、ようやく俺の手首から離れた。
赤い指の跡が残っている。
けれど、その痛みは昨夜まで感じていた距離より、ずっとましだった。
「話は終わった?」
扉の方から声がした。
振り向くと、シノンが旅装を整えて立っていた。背には弓があり、俺とベルベットの荷物まで一部まとめて持っている。
「いつからいたの?」
「英雄の話をしたあたり」
「かなり前からじゃないか!」
「入るタイミングを逃した」
「聞く気はあったんだな」
「扉が薄いから」
シノンは平然と答え、俺の荷物を押しつけてくる。
「出発時刻を過ぎる。装備を確認して」
「感動的な場面の余韻とかないの?」
「弾薬の確認不足で死ぬ方が嫌」
「正論だけど!」
ベルベットが肩をすくめる。
「この男に余韻なんて与えると、変なことを言い始めるわよ」
「それもそう」
「二人とも扱いが雑じゃない?」
廊下の向こうから、蹄の音が近づいてきた。
ヒッポリュテが愛馬を連れ、開いた扉の前へ姿を見せる。
「準備は整ったか」
「もう少しです」
「時刻は待たぬ。波も同様だ」
ヒッポリュテはベルベットの手と、俺の手首に残る跡を一度だけ見た。
何も尋ねず、静かに頷く。
「復讐を抱く者も、守る者も、戦場では同じ背を預ける」
朝日に照らされた槍を持ち直す。
「共に進むと決めたなら、帰還までが戦いだ」
「分かってるわ」
ベルベットが答えた。
その声に迷いはなかった。
復讐が消えたからではない。むしろ、最初に会った時と同じ熱がそこにある。
ただ、その熱が向く先に、俺たちの背中も加わった。
俺たちは宿舎を出た。
王都の門は、朝日に向かって開かれていた。
街道は遠くまで続き、両側の草原には風が走っている。
草が大きくうねる。
一瞬、波という言葉が頭をよぎる。
けれど、その揺れは何も壊さない。朝露を光らせ、俺たちの進む方向を示すだけだった。
シノンが少し前を歩き、街道の先を見ている。
ヒッポリュテは馬の歩幅を俺たちへ合わせている。
ベルベットは俺の横を歩いていた。
「誠司」
「何?」
「さっきの話」
「うん」
「甘すぎる」
「自覚はある」
「でも」
ベルベットは前を向いたまま、少しだけ歩幅を緩めた。
「少しくらいなら、付き合ってあげる」
「それ、褒めてる?」
「少しだけね」
俺は笑った。
腰の銃は、何も言わない。
次の波で何が待っているのかも、この先で誰と戦うのかも、まだ分からない。
それでも、もう一人ではない。
復讐を抱えたままでも、傷が消えなくても、同じ道を歩くことはできる。
誰かを変えられなくても、その人が戻る場所のひとつにはなれる。
俺たちの影が、朝の街道へ伸びていく。
四つの影は完全には重ならない。
形も長さも違い、それぞれ別の過去を引きずっている。
けれど、向かう先は同じだった。
銃声はまだ鳴らない。
代わりに、四人分の足音が、朝の道へ重なっていった。
ここまで本作を読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
本作は『盾の勇者の成り上がり』を原作とした二次創作作品として、原作世界へ新たに「銃の勇者」という存在を加えた物語です。
四聖勇者として正式に選ばれたわけでもなく、王国から歓迎されたわけでもなく、召喚された直後から奴隷として扱われた朝霧誠司は、物語の始まりから世界の枠組みへ入れない異物でした。
彼が持つ銃もまた、剣や槍や弓や盾のように、誰もが勇者の武器として理解できるものではありません。
だからこそ誠司は、自分が勇者であることを証明するのではなく、自分の弾丸を何のために使うのかを選び続けました。
誰かを倒すために撃つのか。
誰かを守るために撃つのか。
撃たずに守れるものはあるのか。
そして、自分一人では届かない場所へ、仲間が作った道を通して弾丸を届けられるのか。
誠司の銃は、物語が進むほど強力な武器へ成長しましたが、彼自身の成長は、撃てる敵が増えたことだけではありません。
相手へ自分の正しさを押しつけず、信用されていなくても守るべきものを選び、言葉や証拠や誰かの帰る道まで守ろうとしたことが、彼の本当の成長だったと考えています。
ベルベット、シノン、ヒッポリュテの三人も、それぞれ異なる形で波に大切なものを奪われています。
彼女たちは誠司に救われるだけの存在ではなく、何度も誠司の迷いを支え、時には止め、時には前へ押し出してくれる仲間として描きました。
特にベルベットの復讐心については、最後まで消さない物語にしたいと考えていました。
大切な人を奪われた痛みは、誰かの優しい言葉だけで簡単に癒えるものではありません。
復讐を捨てれば正しくなれるという結末ではなく、復讐を抱えたままでも、今そばにいる人を守る理由を持つことはできる。
失った人を忘れなくても、生き残った人と同じ道を歩くことはできる。
その答えとして、最終話では誠司がベルベットを変えようとするのではなく、「一緒に戦い、一緒に帰ってきてほしい」と願う形を選びました。
尚文との関係についても、すぐに信頼し合う仲間へ変わるのではなく、互いの傷や立場を残したまま、戦場で背後を任せられる距離を意識しています。
尚文にとって簡単な信頼や和解は、これまで受けてきた仕打ちを軽くしてしまいます。
そのため誠司は、信じてほしいと求めるのではなく、信用されなくても役割を果たすことで、少しずつ尚文の盾の後ろへ立てるようになりました。
また、三勇教との戦いでは、剣、槍、弓、盾、そして銃という異なる武器が、それぞれの役割を果たす構成を大切にしました。
誰か一人だけが圧倒的な力で勝利するのではなく、盾が攻撃を受け、剣と槍と弓が道を開き、最後に銃弾がその隙間を通り抜ける。
それぞれが完全に理解し合っていなくても、同じ脅威へ向けて矛先を揃えることはできるという場面は、本作を象徴する戦闘になったと思います。
原作である『盾の勇者の成り上がり』が持つ、理不尽な世界で傷つきながらも立ち上がり、自分を信じてくれる仲間と居場所を作っていく魅力へ敬意を払いながら、本作では「枠に選ばれなかった者が、自分の役割を選び直す物語」を目指しました。
誠司たちの旅は、次の波へ向かうところで終わります。
彼らの前には、これからも簡単には越えられない戦いが待っているでしょう。
それでも、物語の始まりに一人で鎖へ繋がれていた誠司は、最後には三人の仲間と足音を重ねながら、自分の意思で戦場へ向かう道を選びました。
銃声ではなく、四人分の足音で物語を閉じたのは、この作品が敵を倒す物語である以上に、共に歩く相手を見つける物語だったからです。
最後まで朝霧誠司たちの旅を見届けてくださり、心より感謝いたします。
本作を通して、原作の世界と登場人物たちの魅力を改めて感じていただけたなら、作者としてこれ以上に嬉しいことはありません。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。