戦いが終わった後の静けさには、奇妙な重さがあった。
それは安堵のようでもあり、まだ自分の心臓が早鐘を打っていることを遅れて自覚するための猶予のようでもある。
朝霧誠司は草を踏みしめながら、倒れた魔物たちの死骸から少し離れた場所へ移動し、ようやく深く息を吐いた。
火薬の匂いと血の臭いが鼻腔に残っている。
それでも、さきほどまでの切迫した緊張に比べれば、その不快さすらどこか現実感を持って受け止められた。
「座れ」
ベルベットが短く言う。
その口調は相変わらず命令形に近いが、いまはそれが妙にありがたかった。
誠司は近くの平たい岩へ腰を下ろし、銃を膝の上へ置く。
それから、自分の手を何度か開いて閉じた。
やはり変だ。
変だというより、明らかにさっきまでと違う。
指の動きが軽い。
呼吸が深い。
視界の輪郭が、ほんの僅かだが鮮明だ。
「……本当に、何か変わってる」
無意識に漏れた言葉へ、ベルベットは魔物の死骸を検分しながら答える。
「だから言っただろう。レベルが上がれば、少しは変わる」
彼女は地面へ片膝をつき、魔物の牙や爪の状態をざっと確認していた。
戦いが終わっても気を抜かず、使えそうなものを見定めているあたり、この世界で生きてきた人間の手つきだと分かる。
誠司は自分の脇腹へそっと触れる。
傷が消えたわけではない。
痛みもちゃんと残っている。
だが、昨夜や今朝より、身体の芯にある不安定さが薄い。
一歩踏み出す時の頼りなさが減り、立つという行為そのものが少しだけ自然になっている。
それは劇的な変化ではない。
けれど、明確な差として確かに存在していた。
「これが……レベルアップの恩恵ってやつか」
誠司が呟くと、ベルベットは立ち上がり、包帯の巻かれた左腕を軽く払う。
「たぶんな。少なくとも、お前はさっきよりましな顔をしてる」
「顔で判断するのか」
「動きと顔色を見れば大体分かる」
そう言って彼女は誠司の前まで歩いてきた。
距離を詰めると、その視線はやけに真剣だ。
「立ってみろ」
言われるまま立ち上がると、ベルベットは顎で少し離れた木を示した。
「そこまで走って戻れ」
「急だな」
「確認したいんだろ」
もっともだった。
誠司は小さく頷き、言われた通り木まで走って戻る。
全力ではない。
だが、以前の自分と比較するには十分だった。
足が地面を蹴る感覚が軽い。
呼吸の乱れも想像ほど大きくない。
戻ってきた時には脇腹の傷が少しだけ痛んだものの、それ以上に、自分の身体が命令へ素直に従う感覚の方が強かった。
「……確かに違う」
誠司は肩で息をしながら言う。
「前より動きやすい。疲れ方も少し軽い」
ベルベットは頷いた。
「それがこの世界の成長だ」
その一言には、感動も誇張もなかった。
当たり前の事実を置いただけの声音だった。
だが、その当たり前が自分に適用されること自体、誠司にとってはまだ十分に驚きだった。
「レベルが上がると、みんなこうなるのか」
「大雑把にはな」
ベルベットは近くの倒木へ腰を下ろす。
「身体が少し強くなる。動きがよくなる。戦えばそのぶん生き残りやすくなる。でも、全員が同じ伸び方をするわけじゃない」
そこで彼女は誠司の手元の銃へ視線を落とした。
「勇者はたぶん、普通の人間よりもっと違う」
誠司も自然と銃を見る。
黒い武器は、戦闘前と見た目こそ変わっていない。
だが、握った時の感覚は微かに違っていた。
前よりもさらに手へ馴染み、単なる異物ではなく、自分の延長のように感じられる。
それは気のせいではないだろう。
第六話で感じた“武器がイメージへ反応する”感覚と、さきほどの戦闘で得た経験が、何かしら内側で噛み合い始めている気配がある。
「勇者だと、何が違うんだ」
誠司が問うと、ベルベットは少しだけ目を細める。
「そこまで詳しい仕組みは知らない。でも、お前の武器は普通じゃない。奪われないし、考えに反応するし、ただの剣や槍みたいに鍛冶屋で打ち直せるものでもない」
彼女はそこで一度言葉を切る。
「だから、レベルが上がったことで、お前自身だけじゃなく武器の方にも何か変化が出る可能性はある」
誠司の胸へ、ひとつの予感が落ちた。
第六話で意識した、銃の種類と弾種の派生。
その時は“候補”と“条件未達成”という曖昧な反応しか返ってこなかった。
だが、いまはどうだろう。
初めての実戦を終え、実際に魔物を撃ち、そして確かにレベルアップした。
もし武器が使用者の理解と経験へ反応するのなら、この一戦は決して小さくないはずだった。
「試してみるか」
誠司は銃を持ち直し、静かに意識を向ける。
形を増やせるのか。
弾を変えられるのか。
先ほどまでと同じ問いを、今度は戦闘経験と成長の実感を伴った状態で投げかける。
すると、銃身の奥でごく僅かに脈打つような感覚があった。
はっきりとした開示ではない。
だが、以前より反応が近い。
遠くにあった扉が、一歩だけこちらへ寄ってきたような、そんな感覚だった。
「……前より反応が強い」
誠司が呟くと、ベルベットが片眉を上げる。
「条件が少しは満たされたんじゃないか」
「まだ開くところまでは行ってない。でも、近づいた感じはある」
「なら、やることは決まってる」
ベルベットの言葉は簡潔だった。
「生き残って、戦って、もっと理解する。それだけだ」
その結論はあまりにも実務的で、逆に笑えてくるほどだった。
だが、間違ってはいない。
この世界は優しく整理された説明書などくれない。
強くなる理由も、武器の使い方も、結局は自分で掴み取るしかないのだ。
「レベルが上がると、勇者以外も同じように強くなるのか」
誠司が改めて尋ねると、ベルベットは頷く。
「程度の差はあるだろうけどな。兵士も、冒険者も、村人だって、戦えば少しずつ強くなる」
そこで彼女は淡々と続ける。
「ただ、強くなれるからって生き残れるわけじゃない。戦う場所を間違えれば死ぬし、囲まれれば終わる。レベルは免罪符じゃない」
その言葉には、きっと実感があった。
波で村が壊された時、そこには彼女より強かった者も、弱かった者もいただろう。
それでも等しく奪われた。
だからこそベルベットは、レベルや成長を万能の救済として語らない。
それはあくまで、生き残る可能性を少しだけ押し上げる仕組みに過ぎないのだ。
誠司は少し黙っていた。
それから、視線を地面へ落としたまま口を開く。
「ベルベット」
「何だ」
「波のこと、もう少し詳しく教えてくれないか」
その言葉に、彼女の空気が僅かに変わった。
張り詰めるというほどではない。
だが、温度が一段だけ下がる。
誠司はそれを感じ取りながらも、視線を逸らさなかった。
知っておきたかった。
この世界で生きるなら。
この銃が本当に波へ向けられる武器なら。
そして、ベルベットがそこまで憎む相手なのなら、なおさら。
ベルベットはすぐには答えない。
少しだけ空を見上げ、それからゆっくりと息を吐いた。
怒りを抑えるというより、記憶の底へ沈んだものを掬い上げるための呼吸に見えた。
「波は、前触れなく全部を壊す」
彼女は低く言う。
「空間が裂けて、そこから魔物が溢れる。群れとか、一匹二匹とか、そういう話じゃない。村一つを呑み込む数が来る。家を壊して、人を裂いて、逃げる暇も与えない」
その言葉には飾りがなかった。
誇張する必要すらないのだろう。
現実そのものが十分に惨いからだ。
誠司は黙って聞く。
口を挟める空気ではなかった。
ベルベットの目は、いまここではなく、あの日の光景を見ていた。
「私の村もそうだった」
彼女は続ける。
「最初はただの悲鳴だった。次には、家が壊れる音がした。外へ出た時には、もう遅かった」
その声音は平坦だった。
だが、その平坦さの奥へ沈められた感情の量は、たぶん想像するだけ無駄なほど重い。
「弟を守ろうとした。でも守れなかった。波から来た魔物に喰われた。私はその後、自分も喰われかけて……あの腕になった」
包帯の巻かれた左腕へ、誠司の視線が自然と向く。
そこには今も異形が眠っている。
復讐と呪いの証拠。
波がただの災害ではなく、ベルベットにとって人生そのものを引き裂いた仇敵であることが、その腕ひとつで分かる。
「勇者は、その波と戦うためにいるんだよな」
誠司の問いに、ベルベットは頷いた。
「少なくとも、みんなそう信じてる」
そして、視線を誠司へ戻す。
「だから私は、お前に価値を見てる。お前が本当に勇者なら、波へ届くかもしれない」
その言葉は重かった。
期待とも、利用とも、祈りともつかない。
ただ、彼女にとって波を殺す手段がどれほど切実なのかだけは、嫌でも伝わってくる。
誠司は銃を握りしめた。
まだ勇者としての自覚は薄い。
この武器が何処まで応えてくれるのかも分からない。
けれど、少なくとも今や、波という言葉は抽象的な災厄ではなくなっていた。
ベルベットから弟を奪い、村を壊し、自分をもこの世界へ引き込んだ、巨大で個人的な敵になりつつある。
「……そっか」
それしか言えなかった。
安っぽい慰めは違う。
軽々しい共感もまた違う。
ただ、ベルベットがなぜそこまで前へ進めるのか、その理由だけは前よりはっきり分かった。
ベルベットはそんな誠司を見て、少しだけ目を細める。
「何だ、その顔は」
「いや」
誠司は小さく息を吐く。
「生き残るためだけじゃ、たぶん足りないんだろうなって思った」
自分でもまだ整理しきれていない言葉だった。
だが、口にした瞬間、それが今の本音に近いことだけは分かった。
生きるために戦うのは当然だ。
けれど、それだけでは波のような巨大な理不尽へ向き合い続けるには弱い。
何か別の理由が要る。
守りたいとか、止めたいとか、奪わせたくないとか。
そういう、生存より一歩先の理由が。
ベルベットはしばらく黙っていたが、やがてそっぽを向くようにして立ち上がった。
「難しい顔をする暇があるなら、動け」
声音はいつものぶっきらぼうな調子へ戻っている。
「お前が強くなれば、そのぶん波へ近づける。話はそれだけだ」
その切り替え方は相変わらず乱暴だった。
だが、彼女なりにこれ以上踏み込ませない線を引いたのだろうと、誠司には分かった。
それでも、先ほどより距離が遠くなった気はしなかった。
むしろ逆だ。
彼女が何を失い、何を憎み、何を求めているのかを少しだけ知ったことで、契約の輪郭が前より鮮明になった気がする。
そして、その輪郭の内側で、自分もまた何かを探し始めている。
初めてのレベルアップで得たのは、身体能力の微かな上昇だけではなかった。
この世界がどういう法則で成り立ち、何が人を戦わせ、何が人を壊すのか。
その一端へ、自分の足で触れたという実感もまた、確かにそこにあった。
誠司は最後にもう一度だけ、黒い銃身を見下ろす。
レベルアップで変わること。
勇者の武器が持つ可能性。
そして、波という災厄の輪郭。
そのすべてがまだ断片でしかない。
けれど、断片が増えるたび、進むべき方向だけは少しずつ見え始めていた。
ベルベットが先へ歩き出す。
誠司も銃を持ち直し、その後へ続いた。
生き残るために強くなる。
その先に何を求めるかは、まだはっきりしない。