森の空気は、昼へ近づくにつれて少しずつ温度を増していた。
それでも、昨夜を野外で明かした身体には十分に冷たく、朝霧誠司は歩きながら何度か肩を回して血を巡らせる。
魔物との初戦闘と、初めてのレベルアップ。
そして、その直後にベルベットから聞かされた波の話。
ここ数日の出来事はどれも密度が濃すぎて、頭の中でまだ綺麗には整理しきれていなかった。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
自分たちは、いつまでも壊れた村の周辺で足踏みしてはいられないということだ。
ベルベットは誠司の少し前を歩いていた。
草を踏む音は驚くほど小さく、周囲を警戒する視線も相変わらず鋭い。
彼女は戦闘の時だけでなく、移動中ですら隙を見せない。
復讐に取り憑かれた女という印象が先に立ちやすいが、その実、彼女はかなり冷静に現実を見ている。
だからこそ、誠司もまた彼女の背を追いながら、自然と次の問いを口にした。
「なあ、ベルベット」
「何だ」
「このまま、どこへ向かうつもりなんだ」
問いそのものは素朴だった。
だが、答えによっては今後の行動すべてが決まる。
食料の確保も、追手からの逃走も、武器のことを探る余地も、どこへ向かうかで難易度がまるで違ってくる。
しかも今は、単に安全な場所を探せばいい段階ではない。
波という災厄を知ってしまった以上、いずれそこへ向かうための道筋を考えねばならなかった。
ベルベットは足を止めずに答える。
「まだ決めてなかったのか」
その声音には予想通り、露骨な呆れが混じっていた。
だが、完全に見放した響きではない。
誠司が何も分からないことを、もはや前提として扱い始めているだけだろう。
「決めてないというか、候補を知らない」
誠司は素直に返す。
「この世界の地理も政治も、俺はほとんど何も知らないからな」
そう言うと、ベルベットは小さく鼻を鳴らした。
その仕草は相変わらず辛辣だが、いまさらそこへ本気で腹を立てる気もないらしい。
「だったら答えは簡単だ」
彼女はそこでようやく歩調を緩め、振り返る。
「四聖勇者が召喚された国へ行く」
言葉は短い。
しかし、その短さゆえに迷いがない。
誠司は一瞬だけ、その意味を頭の中でなぞった。
「……勇者が召喚された国」
「そうだ。波に備える場所でもあり、勇者に関する情報が一番集まる場所でもある」
ベルベットは続ける。
「お前が本当に勇者なら、そこで何か分かる可能性がある。波がどこで起きるか、いつ近いか、どう動くべきかもな」
その理屈はもっともだった。
勇者のことを知りたいなら、勇者が呼ばれた場所へ行く。
波の情報を得たいなら、波へ備えている国へ向かう。
極めて単純で、だからこそ見落としていた考え方だった。
誠司は少しだけ苦笑する。
こういう時、自分はつい目の前のことへ追われすぎて、目的地という大きな枠組みの設定を後回しにしてしまう。
ベルベットの思考はその点、実務的ですっきりしていた。
「その国って、名前は」
「メルロマルク」
彼女は即答する。
その発音には、好意も敬意も感じられなかった。
ただ、目的地としての必要性だけを認めた響きだった。
「四聖勇者が呼ばれた国で、波への対処もそこが中心になる。少なくとも、ここらの田舎よりは情報がある」
メルロマルク。
初めてはっきりと口にされたその国名は、誠司にとって、ようやくこの世界が“舞台”として輪郭を持ち始めた瞬間でもあった。
今までの彼は、壊れた村、奴隷舎、無人の民家、森といった断片の中を流されるように移動してきただけだ。
だが、国の名前が出た途端、そこに政治も宗教も権力もあり、四聖勇者という存在が実際に運用されている世界なのだと急に実感が湧く。
「そこに行けば、波が起きる場所も分かるのか」
誠司の問いに、ベルベットは少し考えるように目を細める。
「確実とは言わない。でも、波へ備える連中が集まる場所なら、それを知る手段も集まるはずだ」
彼女はそこで少しだけ声を低くした。
「波はどこでも起きる。だからこそ、対処する側は情報を集めるしかない。勇者も、そのために使われる」
その最後の表現が妙に引っかかった。
使われる。
守るでもなく、選ばれるでもなく、使われる。
ベルベットにとって勇者とは、神聖な救済者ではなく、あくまで波へ対抗するための実用品に近いのだろう。
そして彼女が誠司へ向ける視線にも、どこかその冷たい現実感覚が宿っている。
期待はある。
だが、それは理想化された英雄への期待ではなく、現実に波へ届きうる戦力への期待なのだ。
「メルロマルク、か」
誠司はその名を口の中で転がす。
自分がそこへ行けば、何が待っているのだろう。
四聖勇者。
波への備え。
勇者召喚の真相。
そして、自分の銃が何者であるかを確かめる手掛かり。
良いものばかりではないはずだ。
むしろ厄介事の中心地である可能性の方が高い。
けれど、だからこそ避けて通れない。
「お前の顔、少しだけましになったな」
不意にベルベットが言う。
誠司はきょとんとする。
「何の話だ」
「さっきまでのお前は、どう動くか決まってない顔だった」
彼女は前を向き直りながら続ける。
「でも今は、少なくとも行く場所は見えた顔をしてる」
それは思いも寄らぬ評価だった。
褒め言葉としてはかなり分かりにくい。
だが、ベルベットなりに、目的地が定まることの重要さを認めているのだろう。
誠司は少しだけ口元を緩める。
自分でも気づいていた。
行き先の名前が決まっただけで、心の中にあった漠然とした不安が、ほんの少しだけ整理されている。
どこへ向かうか分からないまま歩くのと、目指す場所がある状態では、同じ移動でも意味が違う。
「でも、問題はそこへどうやって入るかだよな」
誠司が現実的な疑問を口にすると、ベルベットは小さく頷く。
「当然だ。お前の格好と武器は目立つし、私はこの腕がある。何より、奴隷商の連中がまだ諦めてない可能性もある」
彼女は包帯の巻かれた左腕へ一瞬だけ視線を落とした。
その仕草は短いが、警戒の重さは十分に伝わる。
メルロマルクへ向かうことが決まったとしても、それは歓迎される旅ではない。
むしろ、問題の中心へ自分から近づいていく行為だ。
「じゃあ、まずは近くの町に寄るより、外れを通って情報を拾いながら進む感じか」
誠司が考えながら言うと、ベルベットは少しだけ意外そうな顔をした。
「その通りだ」
言ってから、彼女はほんの僅かに眉を上げる。
「少しは自分で考えるようになったな」
「最初から考えてはいた」
「考えが遅いんだよ」
そのやり取りは、妙にいつも通りだった。
厳しい。
だが、それが今は不快ではない。
むしろ、こうして軽く返せる程度には、二人の間に会話の型が出来始めているのだと分かる。
しばらく歩みを進めた後、誠司は再び口を開いた。
「ベルベットは、最初からメルロマルクへ向かうつもりだったのか」
問いかけると、彼女は少しだけ沈黙した。
それから、前を見たまま答える。
「波へ近づくなら、いずれそこへ行くしかないとは思ってた」
声音は静かだった。
「勇者がいる場所なら、波へ対抗する手段もある。逆に言えば、そこ以外をうろついていても、私はただ怒っているだけで終わる」
その言葉は、彼女らしいほど真っ直ぐだった。
復讐心で動いているようでいて、実際にはかなり現実的に手段を選んでいる。
怒りだけでは波に届かない。
だからこそ、波へ届くために勇者を使う。
その構図は、冷徹ですらあった。
「だから、お前に手を貸してる」
ベルベットは続ける。
「お前が勇者なら、メルロマルクへ行く意味がある。お前がただの変な武器持ちなら、その途中で見切る」
やはり容赦がない。
だが、その容赦のなさがむしろ誠実だった。
期待するからこそ条件をつける。
利用するからこそ価値を見極める。
その線引きがはっきりしているから、誠司もまた無駄に夢を見ずに済む。
「厳しいな、本当に」
誠司が苦笑交じりに言うと、ベルベットは鼻で笑う。
「甘い言葉で戦えるなら、誰も苦労しない」
その返しは、ベルベットという女をそのまま要約したような一言だった。
誠司はそれ以上反論せず、ただ頷く。
甘い言葉で戦えないのはその通りだ。
だが、だからこそ、自分はこの冷たい現実の中で何を信じるかを選ばなければならない。
森の切れ目を抜けると、遠くに街道らしき道筋が見えた。
人の往来があるかまでは、この距離では判然としない。
けれど、少なくとも世界が続いていることだけは分かる。
この先に町があり、国があり、王都があり、勇者がいて、波が待っている。
その広がりを想像した時、誠司の胸には恐怖と同じくらい、奇妙な実感が生まれていた。
自分の物語がようやく“逃走劇”から“旅”へ変わり始めているのだという実感だった。
「メルロマルクまで、遠いのか」
「近くはない」
ベルベットは即答する。
「でも、辿り着けない距離でもない。問題はその前に、飢えるか、見つかるか、波に巻き込まれるか、そのどれかだ」
相変わらず景気の悪い言い方だったが、それでも不思議と絶望は感じなかった。
彼女の言葉には、無理だという響きがない。
難しいとは言う。
死ぬかもしれないとも言う。
だが、行ける見込みがあるからこそ、彼女は最初からそこを目指す前提で話しているのだ。
「じゃあ、行こう」
誠司は小さく、しかしはっきりと言った。
その言葉に、ベルベットは足を止めて振り返る。
包帯の巻かれた左腕と、風に揺れる黒髪。
その姿は相変わらず痛々しく、同時に危ういほど強い。
「メルロマルクへ」
誠司はもう一度繰り返す。
「波のことも、勇者のことも、俺の銃のことも、そこに行けば何か分かるかもしれない」
そして少しだけ間を置いて続けた。
「ベルベットの復讐に近づく道でもある」
ベルベットの瞳が、ほんの僅かだけ揺れた。
驚きか、呆れか、それとも別の何かかは分からない。
だが彼女は何も否定しなかった。
代わりに、口元を僅かに歪めて言う。
「ようやく自分の足で歩く気になったか」
その言葉は皮肉めいていたが、完全な嘲りではなかった。
むしろ、ここから先はもう本当に“同行者”として扱うという確認に近い。
誠司は小さく笑う。
その実感は、自分の中にもあった。
巻き込まれただけの異邦人としてではなく、次の目的地を自分の意志で選んだという実感が。
ベルベットはくるりと背を向け、先へ歩き出す。
「なら、さっさと来い。メルロマルクは向こうだ」
相変わらずぶっきらぼうな背中だった。
けれど、その背を追うことへ、もう以前ほどの受け身はなかった。
誠司は銃を握り直し、その後へ続く。
目指す先の名は決まった。
四聖勇者が召喚された国、メルロマルク。
そこにはきっと厄介事も、理不尽も、知りたくなかった真実も待っているだろう。
だが同時に、波へ届くための手掛かりも、銃の勇者としての答えも、そこにしかないのかもしれない。
壊れた村から始まった逃走は、こうして一つの目的地を得た。
それは安全な避難先ではない。
むしろ、世界の歪みが最も濃く集まる場所への道だ。
それでも二人は歩く。
復讐のために。
真実のために。
そして、いまだ形になりきらないそれぞれの理由を、旅の中で少しずつ確かなものへ変えていくために。