メルロマルクへ続く街道は、昼なお薄い緊張を孕んでいた。
旅人の気配がまったく無いわけではない。
だが、誰もが足を止めず、誰もが周囲を窺いながら早足で通り過ぎていく。
平和な往来のある道ではなく、危険を承知した者だけが最短距離として利用する、そういう種類の街道なのだと、朝霧誠司にもようやく分かり始めていた。
ベルベットはそんな道を、街道の端を選びながら進んでいた。
包帯の巻かれた左腕は目立たぬよう布で隠され、視線は常に前方と左右へ流れている。
誠司もまた銃へ手を添え、彼女の少し後ろを歩いていた。
目的地は決まった。
メルロマルク。
四聖勇者が召喚された国。
波に関する情報も、勇者に関する手掛かりも、あそこへ向かわなければ何も始まらない。
だが、それは同時に、問題の中心へ近づくということでもあった。
「静かだな」
誠司が低く呟くと、ベルベットは足を止めずに答える。
「こういう時は、大抵何かいる」
その返答は嫌になるほど彼女らしい。
安心を与える気はない。
現実だけを置いていく。
だが、その現実感覚が何度も命を繋いできたのだと、誠司も少しずつ理解し始めていた。
次の瞬間だった。
風を裂く鋭い音がして、一本の矢が誠司の頬をかすめた。
熱い。
そう認識した時には、ベルベットの手がすでに彼の腕を掴み、街道脇の低い斜面へ引きずり込むように飛び込んでいる。
「伏せろ!」
怒声と同時に、二本目、三本目の矢が地面へ突き刺さった。
砂が跳ねる。
木の幹へ刺さった矢羽が小さく揺れる。
威嚇ではない。
完全に殺すつもりの射撃だった。
「……っ、弓か」
誠司は頬を伝う血を手の甲で拭いながら、呼吸を整える。
ベルベットは地面へ身を低くしたまま、矢の角度と飛来方向を見ていた。
その眼差しには緊張がある。
だが、慌てはない。
彼女にとって、こうした不意打ちは想定内なのだろう。
「盗賊だけじゃない」
ベルベットが低く言った。
「狙いが綺麗すぎる」
つまり、弓手がいる。
ただの賊ではなく、離れた場所から首を獲りにくる手合いが。
その事実を理解した直後、斜面の上から複数の足音が降ってきた。
「いたぞ!」
「逃がすな!」
「生かして連れて帰れば金になる!」
男たちが姿を現す。
剣、鉈、短槍。
装備は粗雑だが、顔つきは悪い意味で慣れていた。
人を襲い、縛り、売ることへ躊躇のない目だ。
その一言だけで、誠司にも相手の正体は察せられた。
奴隷商に近い連中か、そこへ商品を流している野盗の類だろう。
自分たちを襲った理由も、驚くほど単純だ。
逃げた獲物を、金へ戻したいだけだ。
「お前ら、まだそんなことを……」
誠司の声には嫌悪が滲む。
だが、男たちは笑うだけだった。
人を値札でしか見ない連中にとって、その怒りなど取るに足らぬものなのだろう。
ベルベットが舌打ちする。
「前は私がやる。お前は弓手を探せ」
「分かった」
返事と同時に、彼女は斜面を蹴って飛び出した。
躊躇いがない。
いや、彼女の場合は躊躇いを置いてから動くのではなく、躊躇う余地ごと切り捨てて前へ出るのだ。
最初の男が剣を振り上げる。
ベルベットは半歩だけ踏み込み、その懐へ潜る。
右肘が相手の顎を打ち、体勢の崩れた男を左肩で押し込む。
そのまま異形の左腕がうねり、男の腕を絡め取るようにして地面へ叩きつけた。
残る男たちが一斉に取り囲む。
だが、誠司はそこで撃たない。
魔物と違い、人間相手では立ち位置が複雑すぎる。
ベルベットを巻き込まずに撃てる角度を取るまで待たなければならない。
そして何より、先に落とすべきはあの弓手だ。
四本目の矢が飛ぶ。
今度はベルベットの背後。
誠司は着弾の角度を見る。
左手の高所。
木陰。
いや、木と岩の境目だ。
あそこなら射線を確保しつつ、姿は見えにくい。
誠司は銃を構える。
木立の向こう、岩の上に、細い影が一瞬だけ見えた。
女だった。
年齢は自分たちとそう変わらないように思える。
だが、そこにあったのは若さではなく、研ぎ澄まされた静けさだった。
弓を構える動作に無駄がない。
射ることに慣れすぎている者の身体だった。
次の矢がこちらへ向く。
誠司は引き金を引いた。
銃声が響く。
弾丸は岩の縁を打ち、火花を散らす。
狙い切ったわけではない。
だが十分だった。
放たれた矢は軌道を逸れ、誠司の肩脇を抜けて背後の木へ刺さる。
「っ……」
女の姿が僅かに揺れる。
当たってはいない。
それでも、こちらの反撃が想定以上だったことだけは伝わったはずだ。
「上だ、左!」
誠司が叫ぶ。
ベルベットは男の一人を蹴り飛ばし、そのまま斜面を駆け上がろうとする。
だが、盗賊たちも黙って通さない。
二人が進路を塞ぎ、短槍が横から突き出される。
ベルベットはそれを異形の腕で受け流し、もう一方の男の喉元へ膝を叩き込む。
だが、その一瞬の足止めが弓手へ距離を与えた。
誠司は銃を構え直す。
人間相手。
それでも、以前より引き金は軽かった。
奴隷として売られる。
狩られる。
その現実が、躊躇いを限りなく薄くする。
殺したいわけではない。
だが止めなければ、自分たちが檻へ戻される。
それだけは絶対に御免だった。
一発。
進路を塞ぐ男の肩。
二発目。
短槍を持つ男の脚。
体勢が崩れた瞬間、ベルベットがまとめて間合いを奪う。
左腕がうねり、男たちを押し潰すように地面へ叩きつけた。
骨の軋む音。
悲鳴。
それでも彼女は追撃せず、すぐさま高所へ視線を向ける。
最優先は弓手だと分かっているからだ。
しかし、その時にはもう、弓手は位置を変えていた。
岩陰から姿を消し、少し離れた木立の縁へ滑り込んでいる。
動きが軽い。
弓兵というより、森を足場に生きる狩人の身のこなしだ。
一ヶ所へ留まらず、撃っては移り、見つかる前に消える。
その手際の良さが、かえって不気味だった。
誠司が照準を合わせる。
その瞬間、女もまたこちらを見た。
視線がぶつかる。
ほんの一瞬。
会話など交わせる距離ではない。
それでも誠司は、その眼に奇妙な違和感を覚えた。
冷たい。
だが、ただ冷酷なのではない。
もっと追い詰められた者の眼だ。
生きるために人を狙うしかなくなった者の、乾いた光があった。
次の矢が誠司を狙う。
だが、その瞬間にはもう彼の銃声が先に響いていた。
弾丸は弓手の足元近くへ着弾し、土を跳ね上げる。
女は素早く身を翻し、その勢いを利用して木立の奥へと退いた。
逃げるというより、これ以上は割に合わないと判断した撤収だった。
「待て!」
ベルベットが追う。
その足は速い。
だが、相手もまた森の動き方を知っていた。
退きながら、小さな袋のようなものを地面へ叩きつける。
乾いた土煙が一気に広がり、視界が曇る。
ベルベットは舌打ちし、腕で煙を払った。
誠司も咄嗟に口を覆う。
数秒後、土煙が薄れた時には、もう弓手の姿は見えなかった。
残った盗賊たちも、それを合図にしたかのように退き始める。
一人が逃げ、もう一人がそれに続く。
ベルベットは追おうとして半歩踏み込んだが、誠司が声をかける。
「深追いは危ない!」
ベルベットは歯噛みするような顔で立ち止まる。
殺し損ねたことが気に食わないのだろう。
だが、その判断が正しいことも分かっている顔だった。
いまは街道の真ん中で、しかも位置を読ませない弓手がいる。
熱くなった方が負ける。
やがて、完全な静けさが戻る。
地面には倒れた男たちと、荒れた草、そして木に刺さった矢だけが残っていた。
誠司はゆっくりと銃を下ろし、呼吸を整える。
頬の傷は浅い。
だが、あの最初の一射がもう少し深ければ、自分は今ここにいなかっただろう。
そう思うと、遅れて背筋が冷えた。
「ただの盗賊じゃないな」
誠司の言葉に、ベルベットも低く頷く。
「分かってる。賊どもは餌で、本命はあの弓」
彼女は木立の奥を睨むように見つめる。
「腕がいい。しかも引き際も分かってる。厄介だ」
誠司も同じ方向を見る。
もう姿はない。
なのに、不思議とその気配だけはまだ残っている気がした。
敵なのは間違いない。
命を奪いに来た以上、それ以上でも以下でもない。
けれど、最後に見えたあの眼が、妙に引っかかっていた。
あれは金のためだけに殺す者の眼ではない。
もっと切迫した理由を抱えていそうな眼だった。
「次も来ると思うか」
誠司が問うと、ベルベットは鼻を鳴らす。
「来るなら返り討ちにするだけだ」
冷たい返答だった。
だが、その冷たさの中に、あの弓手を本気で危険視している緊張が混じっている。
強い。
それは間違いない。
そして、強い者ほど、そう簡単には終わらない。
誠司は銃を握り直す。
メルロマルクへの道は、思った以上に血なまぐさい。
しかも、追ってきたのは奴隷商の延長にいる盗賊だけではなく、その背後で静かに矢を放つ、名も知らぬ狩人だった。
それがこれから先、ただの一度きりで終わるとは思えない。
むしろ、またどこかで交わる予感の方が強かった。
ベルベットが歩き出す。
「行くぞ。ここへ長居は出来ない」
誠司も頷き、その後へ続く。
街道の先にはメルロマルクがある。
そしてその途中には、まだ見ぬ敵も、まだ知らぬ事情も、いくつも横たわっているのだろう。
今はただ一つだけ分かる。
さきほど森へ消えた弓手は、きっとこれで終わる相手ではない。
そして次に会う時には、今よりもう少しだけ近くで、その眼の奥にあるものへ触れることになるのかもしれなかった。