サロン・セルパンタンの五百日の調教記録──亡国の花と蛇の館 作:ドン・ドナシアン
001 亡国の王太子妃【第1日】
フィロス共和国がテレオロス王国を打倒し、その王都を占領したのは、つい半年前のことである。それまでこの地は、王国が周辺を従える支配の下にあり、属国は搾取される存在に過ぎなかった。
だがその秩序は、属国から徴兵されていたフィロス出身の将カイネウス・セルパンの叛乱によって崩された。王都は陥落し、国王以下の王族と上級貴族は処刑され、王国は滅びた。
残党は各地に散り、なお抗戦を続けているものの、大勢はすでに定まっている。
王国の民は支配される側へと転じ、その多くは二級民として扱われ、かつての圧政に対する報復の対象となっていた。
窓のない馬車が、石畳を軋ませながら進んでいた。
内側は薄暗く、揺れは絶えず続いている。外の様子はうかがえず、進んでいる方角さえ知る術はない。
王太子妃セリアは、背もたれに身体を預けたまま、微動だにしなかった。
手首には拘束具が嵌められているが、姿勢は崩さず、顔色にも乱れを見せないように保っていた。長い拘禁の疲労もあったが、それを表に出すことはない。
向かいには、「侍女」のケイが座っている。両手を固く握り、揺れに合わせてわずかに身体を震わせていた。ときおりなにか言いかけるように唇が動くが、結局は声にならない。
沈黙に耐えかねたように、その視線がこちらへ向けられているのを、セリアは感じ取っていた。
だが、応じることはしない。
視線を返すこともなく、ただ前方の見えない一点を見据えたまま、揺れに身を任せる。
馬車は止まらない。行き先を告げられることもないまま、ただ運ばれていく。
セリアは、これまで長く収監されていた。貴族牢であり、ケイの付き添いも許されていたため、生活そのものは比較的穏やかなものであった。
それでも、それが仮初めの猶予に過ぎないことは、理解していた。
フィロスをはじめとする旧属国の民が、テレオロス人に対して抱く怨念の深さも、知らぬわけではない。
義父である国王も、夫である王太子も、王族としての体面を保って死ぬことは許されなかった。絞首刑に処され、王都の広場に晒されたと聞く。それはかつて王国が属国に対して行ってきた仕打ちと、同じものであった。
自分もまた、同じ結末を迎えるはずの身である。
だが、その日は訪れなかった。
理由は知らされていない。ただ、処刑を待つだけの日々が続いていた。
そして今日、こうして移送されている。
ついにその時が来たのかとも思ったが、違う。少なくとも、これまでに見聞きした処刑への移送とは様子が異なる。
外は見えない。だが、馬車が進み続ける時間からして、すでに王都を遠く離れているのは確かであった。
どこへ向かっているのか。
その答えを与えられることはないまま、馬車は揺れ続けていた。
どのくらいの時間が過ぎた頃だっただろう。
ケイの肩が、不意に大きく揺れた。
「……殿下……わたくし、怖いのです」
押し殺していた声が崩れ、言葉とともに、ケイの眼から涙がこぼれだす。両手首に金属枷の嵌まった手を口元に寄せたまま、揺れに耐えきれずにいるのが見える。
セリアは視線を動かさず、それを見ていた。
自らの手首にも嵌められた金属枷が、天井からのわずかな隙間の明かり取りから入る光を返しているのを感じる。だが、姿勢を崩すことはない。簡素な衣に変えられてなお、乱れを見せるつもりはなかった。
「泣かないで、ケイ」
短く言う。
ケイはびくりと肩を震わせる。それでも顔を上げ、涙に濡れたまま言葉を続けた。
「で、でも、死にたくないのです……。みっともなくて申し訳ありません。あのように扱われるのが……怖いのです。申し訳ありません……。覚悟もなくて……」
言い切ると、息を詰める。馬車の揺れとともに、その身体が小さく震えた。
粗い布の衣、わずかに擦れた手首の枷。それでも目を逸らさずにいるその顔には、取り繕いのない感情がそのまま表れている。
セリアはケイを見る。できれば、隣に移って抱きしめてあげたいが、片側の足首に枷が嵌まり、馬車の椅子の脚に鎖で繋げられている。ケイも同じだ。
「……大丈夫……でしょう。あなたは、もともと下級貴族……。王宮の下働きだったのだもの。事情を話せば、待遇は変わるはず……」
静かに返す。
その言葉に、確かな保証などないことは、セリア自身も理解していた。
ケイは、もともと王宮の下働きのひとりに過ぎない。
──そう言っていた。
ほんの一度か二度、言葉をかけられたことがあるのだと。
だが、覚えてはいない。
記憶に残るはずもない。
それでも、王都が崩れ、侍女たちが次々と姿を消していく中で、最後まで残ったのはケイだった。
頼んだ覚えはない。
引き留めたこともない。
それでも彼女は、当然のようにそこにいた。
収監されてからの半年も、変わらなかった。
食事を運び、身の回りを整え、言葉を交わす相手でもあった。
それがなければ、どうなっていたかはわからない。
──少なくとも、いまのように平静ではいられなかっただろう。
すでに、ただの下働きではない。
処刑を待つだけのセリアにとって、最後の──友人だった。
そう思っていた。
だが──。
それがよくなかったのかもしれない。
移送の際、ケイまでもが拘束され、同行させられた。
理由はわからない。
だが、セリアの態度が無関係とは思えなかった。
もしかしたら、ケイの身分が誤解されたのかもしれない。
そうだとしたら、セリアは、申し訳ないとしか言えない。せめて、それだけでも正さなければ……。
ケイの唇はまだ震えている。それでも、逃げるように俯くことはしなかった。
「でも……お側にいられて、よかったと思っています」
やがて、ケイがかすれる声で言った。
セリアは眉をわずかに動かす。
「いまも、そう思うの?」
問いかける。
ケイはためらわずに頷いた。
「はい……たとえこの先、どうなったとしても。後悔はありません……。取り乱して申し訳ありません」
その言葉はもう揺れてなかった。
セリアはケイから視線を外す。馬車の暗がりの中、わずかな沈黙が落ちた。
「愚かね……わたくしは……。でも……」
小さく言う。
ケイのことは、突き放すべきだったのだ。
亡国の王太子妃が大切にしている「侍女」……。だから、目を付けられたのだろう。
「……殿下?」
ケイが息を呑んだ音が聞こえた。
「あなたを守ると誓うわ」
セリアは再びケイを見つめて、静かに続けた。
暗がりのなかでケイの目がわずかに見開かれるのが見えた。
「……」
「……わたくしの矜恃にかけて……」
セリアは小さく告げた。
ケイがセリアに視線を向ける。
「それに、まだ、わたくしたちが死ぬと決まったわけではない」
淡々と告げる。
ケイは強く頷いた。涙は止まらない。それでも、先ほどのような崩れ方ではなかった。
「……はい」
短く応じる。
「……望みはある」
セリアは再び前を向く。
沈黙が戻る。
だがそれは、先ほどまでのものとは違っていた。
馬車は、唐突に止まった。
それまで続いていた揺れが消えると、妙に静かになった。
処刑場にしては静かすぎる、とセリアは思った。
外で鍵の外れる音がして、扉が開く。光が差し込む。
セリアは目を細めた。
女兵がふたり入ってきて、セリアとケイに嵌まっていた足首の枷を外して外へ降ろされた。
足元は石ではなく、乾いた土だった。踏み固められている。長いあいだ使われてきた場所の土だ。
最初に目に入ったのは、女たちだった。
全員が女兵であり十人ほどいる。
整列していて動かない。
胸元に、フィロスの徽章があったが──これまでに接したどのフィロス軍の軍装とも違っていた。
正規のものではない?
よく見れば、似ているが統一されておらず、どこか私的な匂いがあった。
そして、正面の女──。
雰囲気だけで指揮を執る者だとわかる。
異相だった。
片眼に眼帯──。もう半分の顔は整っていて美しかったが、眼帯のある側の均整は途中で崩れていた。目の周りから頬にかけて、焼け爛れた痕が走っている。
──酷い。
思わず顔をしかめてしまう。
美しさと損壊が、同じ場所にある。
その不均衡が、かえって目を引く。
そのとき、その眼帯の女と眼が合った。
ふと、その女がわずかに微笑んだ気がした。しかし、その笑みの裏に得体のしれない別のものを感じてしまい、セリアは自分の背中に冷たいものが流れるのがわかった。
馬車を下ろされたのは、小城を思わせる高い城壁に囲まれた中庭のような場所だった。
背後には高い石壁。正面には低い門があり、その向こうに建物が見える。
館だった。
大きいけれど、どこか歪んでいる。
壁はきれいに整えられているのに、表面を走る装飾が妙に生々しい。蛇みたいな装飾だ、とセリアは思った。
窓は細く、少なくともここから見える部屋にはすべて黒いカーテンで閉じられている。
「あっ」
そのとき、ケイの腕が引かれた。
「ケイ──っ」
セリアの口から小さな声が漏れる。
思わず駆け寄ろうとしたセリアをほかの女兵たちが阻む。
一方で、ケイに近づく女兵が、金属のチョーカーを手にしている。
「あっ、待って──。それは……」
セリアが言い終わる前に、それはケイの首に嵌められた。乾いた音がした。
「殿下……これって……?」
ケイが不安そうな表情で、セリアにすがるような視線を向ける。
セリアはそれを呆然と見る。
ケイの首に嵌められたチョーカーのような首環──。
継ぎ目に細い線が刻まれている。規則的な線──。魔道紋様。
あれは、間違いなく魔道具だ。
魔道は、それだけでは働かない。刻まれた器に、魔力を流し込んで、はじめて意味を持つ。
下級貴族でしかないケイにはわからないはずだ。彼女はただ不安そうに手枷を嵌められた手で首を押さえている。
セリアは、自分の首の後ろに埋められているものを思い出す。
魔核と呼ばれる極小の球体であり、セリアが魔力を集められなくするためのものだ。それにより、セリアは平民のように魔道具を使えない身体にさせられていた。
「ケイに嵌めたのは、なに?」
セリアは訊いた。
誰も答えない。セリアとケイを見て、にやにやと笑うだけ。
代わりに、ひとりの女が前に出た。
片眼に眼帯をしたあの女だ。
感情は読み取れない。けれど、なにかが沈んでいる。
「あたしは、アルジェだ」
女は言った。
「わかったわ、アルジェ。では、ケイになにを嵌めたのか説明しなさい」
セリアは言った。
アルジェは少しだけ首を傾けた。
「ちょうどいい。ついて来い」
それだけ言って、振り返り歩き出す。
女兵たちが動いて、周りを囲まれる。逃げられない。
セリアとケイは、アルジェたちに連行されるように、内門を抜け、そこから屋敷の裏側に回り込むように歩かされた。
やがて、館から少しばかり離れた広場についた。
通路の左右に、たくさんの土の盛り上がりが並んでいた。
突き当たりに、人が入るくらいの大きな穴があった。土盛りと並ぶ位置だ。
その前に、二人の女が跪かされている。
首には、ケイがしているのと同じ輪──。
「お願いします……。お許しを……」
「もうしません……。心を入れ替えます……」
跪く女たちの声はかすれている。
その周りには、アルジェたちと同じ服の女兵たちがいて、さらにその後ろには、列を作って並んでいる女たちがいた。
全員が同じチョーカーをさせられていた。
どこかで見たような服だ。
だが、汚れているが首環を嵌められている女たちの身につけているものの仕立てがいい。
髪も長い者が多かった。
もしかしたら、貴族女性たちかもしれないとセリアは思った。
「あいつらは、二級民の上級貴族だ。穴の前にいるふたりもね」
アルジェが言った。
「二級民……」
思わず、セリアは呟く。
支配国となったフィロス人たちが、かつての宗主国のテレオロス人たちを示すときの物言いだ。
やはり、テレオロス国の貴族か……。
しかし、知っている顔はない。少なくとも頻繁に王宮に出入りをしていたほどの家格ではないのだろう。
「いつまでも選民意識が消えないらしい。困ったものだ。サロンで叛乱を煽動した。仕方ない。見せしめだ」
アルジェが小さく笑う。
セリアはなにも返さない。
そのアルジェが手を上げる。
音は小さかった。
なにかが切れるような、乾いた音がして、跪いていた二人の体が崩れる。
なにかが穴の中に転がったと思ったが、ふと見ると、ふたりの首から上にはなにもなくなっていた。
それで終わりだった。
「いやああああっ──」
ケイが絶叫して、その場にしゃがみ込んだ。
セリアは震える脚に必死に力を入れて、姿勢を保つ。
女兵が首のない二人の身体を穴に蹴り落とす。
「埋めろ──」
女兵の誰かが言う。
列の女たちが動いて、手で土を入れる。
誰も逆らわない。
表情もない。
淡々と、穴が群がった女たちによって埋められていく。
逆らえないのだ、とセリアは思った。
ケイの首の輪を見る。
あれがある限り、どうにもならない。
つまりは、そういう仕組みなのだ。
すると、アルジェが振り返った。
「ようこそ、王太子妃殿下……」
声は平らだった。
「ここがサロン・セルパンタンだ……。あなたには首環はないが、それはあなたが特別な囚人となるからだ」
アルジェがわざとらしい仰々しい口調で言った。
館は、すぐそこにあった。
「……特別な……囚人……?」
意味はわからない。
「ああ、このサロン主様にとっての特別な囚人だ」
「サロン主?」
なぜ?
セリアが王太子妃だから?
「それよりも、まずは、ここで服を脱いで、生まれたまんまの姿になってもらおうか。丁重に扱えというご命令でね」
「えっ?」
セリアは自分の耳を疑った。
王太子妃とはいえ、若い女の身だ。囚われた上級貴族の女が受ける陵辱には、ある程度の覚悟もあった。
しかし、ここは建物のなかでもなんでもなく、外なのだ──。
「ちょ、ちょっと待ちなさい──。馬鹿な真似は赦しません──」
セリアは叫ぶ。
しかし、迷いのないフィロスの女兵たちの手が、一斉に伸びてきた。