サロン・セルパンタンの五百日の調教記録──亡国の花と蛇の館 作:ドン・ドナシアン
「昨夜は眠れなかったようですわね、お姉さま?」
聞き慣れた声に、オクタヴィアは重い瞼を開いた。
カリンが寝台の傍らに立っている。
ふたりの女兵も同行しており、寝室の入口に立っている。アルジェはいない。
もう朝なのか──。
そう思ったが、身体を起こす気にはなれなかった。
首環の前から伸びた鎖だけが、寝台の頭側の金具へ繋がれている。両手も両脚も自由だった。
身につけているものはなにもない。昨夜のまま、裸身を寝台に横たえていた。
ほとんど眠っていない。
眠ろうとして眼を閉じても、身体の疼きと焦燥がそれを許してくれなかった。何度寝返りを打ったのかもわからない。敷布もひどく乱れている。
絶頂できないとわかっていて自慰も繰り返した。
それだけ追い詰められていた。
しかし、得られたのは、さらにオクタヴィアを消耗させる寸止めの焦燥感と疲労感だけだった。
身体は疲れ切っているのに眠れない。ようやく眠りに落ちても、身体の昂ぶりに眼を覚ましてしまう。それを果てしなく繰り返していた。
いまも、眠っていたという感覚はない。
「……うるさい……」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「まあ、ひどいお顔ですわね、お姉さま。眼は真っ赤ですし、髪もこんなに乱れて……。昨夜は何度もお一人で頑張って、それでも駄目で、悔しそうに悶えていらっしゃいましたものね。ええ、全部見ていましたわ」
「カリン……あの……」
オクタヴィアは掠れた声で呟いた。
怒鳴りつける気力さえなかった。
もう、いい──。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
いっそ、屈服してしまえばいい。
カリンの望む言葉を口にしてしまえば、すべてが楽になる。
そう考えた途端、オクタヴィアの唇が動いた。
「カリン、わたしは、もう……」
「まあ、お姉さま、なんでしょう?」
カリンが愉しそうに微笑む。
そこで言葉が止まった。
言ってしまえばいい。
昨夜から続く、どうすることもできない肉体の渇きで、もう頭がおかしくなりそうだった。
あと一言。
たった一言、負けを認めればいい。
それなのに、その一言だけが、どうしても喉を越えない。
「……お話はなさそうですわね。では、わたしはお食事の準備をしてまいります。今日は隣のお部屋でご一緒いたしましょう。お姉さまは、その前に身体を洗っていらしてくださいな。ずいぶん汗をかいていらっしゃいますもの。お股の蜜もすごいですわよ。足の指まで届いているじゃないですか」
「くっ」
慌てて、股間を手で押さえつつ、カリンから隠すようにする。
「お姉さまの身支度が済みましたら、また張形と貞操帯を着けて差しあげますわ。今日も一日、頑張ってくださいね」
カリンがにこやかに告げた。
すると、女兵のひとりが近づいてきて、なにかをオクタヴィアの首元へ向けた。かん、と金属音がして、寝台の頭側の金具に繋がっていた鎖が首環から外れた。
オクタヴィアは、よろよろと寝台からおりる。
まるで自分の身体ではないかのように、力が入らない。
「……ところで、お姉さま、わたしが着任する直前に、お姉さまは五号媚薬と併用して三号媚薬をお飲みになっているのですよね?」
床に足をつけたところで、カリンにまた声を掛けられた。
「え、ええ……」
戸惑いながら頷く。
五号媚薬と三号媚薬──。
その名を聞いて、オクタヴィアは自分が飲まされた薬のことを思い返した。
五号媚薬は、一度服用すれば発情状態が数日間も続く、強力な媚薬だ。オクタヴィアもすでにそれを服用させられている。
一方の三号媚薬は、同じ媚薬に分類されてはいるものの、その作用は強烈な掻痒だ。通常の掻痒剤であれば、どれほど強力なものでも一日以上は効果が続かない。しかし、五号媚薬と併用することで、その持続性まで五号媚薬と同程度に引き延ばされるのである。
だからこそ、オクタヴィアは毎朝、食事に混ぜられた掻痒効果の中和剤を服用していた。
それを飲んでいる間は、三号媚薬の掻痒効果だけを抑えることができる。
逆に言えば、中和剤を飲まなければ、身体に残り続けている三号媚薬の効果が再び現れ、あの耐え難い痒みに七転八倒することになるのだ。
「今朝の朝食には、中和剤の混入はやめさせました。今日からは痒みとも戦っていただきますね。大丈夫ですわ、お姉さま。五号媚薬の持続効果は五日ほどです。あと二日もあれば、中和剤なしでも痒みの方も消えますから」
「そんな──」
オクタヴィアはびっくりして声をあげてしまった。
無理だ──。
絶対に無理だ。
あの掻痒剤の苦しみは、最初の一日だけで嫌というほど味わった。この肉欲の疼きに加えて、あの怖ろしい痒みまで復活すれば、耐えられるはずがない。
背中に冷たいものがどっと流れる。
「む、無理よ、カリン──」
さらに怒鳴った。
耐えられるわけがない。
「浴室ですよ、お姉さま──。それとも、昨夜のように、絵筆でくすぐられたいですか? それでも構いませんよ。三号媚薬を筆で塗り足すのも面白いかもしれませんわね。おふたりはどう思います?」
カリンが女兵たちを振り返る。
「主任は……、いえ、監督官は、泣き喚くと思いますよ」
女兵のひとりがくすくと笑いながら答えた。
オクタヴィアは、女兵の笑い声を聞きながら、その場に立ち尽くしていた。
もう、無理だ……。
そんな言葉が、自分の心の中から、今度ははっきりと頭に浮かんだ。
昨夜から何度、自分に言い聞かせただろう……。
まだ耐えられる。
まだ負けてはいない。
こんなものに屈するものか。
けれど、もう、同じ言葉を繰り返せない……。
これからまた一日が始まる。
終わりの見えない苦しみに耐えながら、夜まで過ごさなければならない。それどころか、今朝からは、ようやく抑えられていたあの耐え難い痒みまで戻ってくるという。
いや、中和剤を食事に混ぜて飲ませてもらってから、丸一日経っている。三号媚薬の掻痒効果がふつふつとオクタヴィアの身体に戻ろうとしているのがわかる。
これ以上は抗えない。
身体から力が抜けた。
その場に崩れそうになり、寝台の縁に腰を下ろし直した。
「お姉さま、まだ屈服してはいけませんわ」
カリンの声が聞こえた。
「えっ?」
顔をあげた。
カリンは笑みを浮かべて、寝台の縁に座っているオクタヴィアを見下ろしている。
しかし、その目は笑っていない。
ぞっとするような凄みがそこにあった。
すると、いきなりカリンが手を伸ばして、オクタヴィアの片側の乳房をぎゅっと揉みしだいた。
「ああっ、な、なにを──」
反射的に、カリンの無遠慮な手を振り払おうとした。
「……いいの、お姉さま……? お姉さまが絶頂できるのは、外から与えられる刺激だけなのよ。それを拒絶して……」
耳元でささやかれる。
その言葉で、カリンの手を振り払おうとしていたオクタヴィアの手が止まった。
振り払えばいい──。
ただ、それだけのことだった。
けれど、上げた手に力が入らない。
拒絶しなければならない。
そう思っているのに、拒絶をすれば、なにも手に入らない……。その躊躇いが行動へと繋がらなかった。
「ふふ、どうして欲しいですか、お姉さま? 続きを? それとも、やめますか……?」
カリンの手はいまは乳房をぎゅっと掴んだまま静止している。それだけで痺れるような快感が全身に拡がり疼いてくる。
昨夜、自分ではどうすることもできないまま過ごした長い時間が頭をよぎる。
あれほど抗った。
何度も試した。
それでも、どうにもならなかった。
その記憶が、振り払おうとする気持ちを少しずつ鈍らせていく。
いま拒絶すれば、カリンは手を引くのだろうか。
そう考えた瞬間、オクタヴィアの手からさらに力が抜けた。
やめさせたいはずだった。
だから振り払おうとしたはずだった。
なのに、カリンが本当に離れてしまうことを想像すると、胸の奥に小さな葛藤が生まれた。
嫌だ──。
その感情が浮かんだ途端、オクタヴィアは考えることをやめた。
考えてはいけない。
その先まで考えてしまえば、自分が何を望み始めているのか、自分自身に認めなければならなくなる。
「……言葉にするのですわ、お姉さま……。そうでなければ、なにも手に入りませんの。それがこのサロンの掟ですわ。ご存じでしょう?」
カリンが再び耳元でささやく。
上げていた手が、ゆっくりとさらに下がった。
押さえつけられたわけではない。
命令されたわけでもない。
それでも、もう一度振り払おうという気力は消失してしまった。
「両手を背中に回して、右手で左手首を持ちなさい、お姉さま」
カリンが告げた。
オクタヴィアは操られているかのように、両手を背中に回して、左手首を握る。
カリンが触れたままだった乳房を力強く揉み始める。指と指のあいだに乳首を挟んだままだ。そして、もう一方の手をオクタヴィアの股間に伸ばすと、クリトリスを円を描くようにこねまわしてきた。
「ああ、いいいいっ」
絶頂感はたちまちに襲ってきた。
全身ががくがくと震え、身体をのけ反らせた。
今度こそ、いける──。
歓喜に漲った。
「ふふ、ここまでですわ。おあずけです……」
カリンの指が胸と股間からさっと離れてしまう。
「そ、そんな──いやあ、止めないで、カリン──。やめてはいやよっ」
オクタヴィアは逆上して叫んだ。
「そんなに取り乱してはだめですわ、お姉さま……。さあ、舌を吸ってさしあげます。顔をあげてくださいな」
カリンがオクタヴィアの顎に手をかけて、上を向かせる。寝台の縁に腰掛けたままのオクタヴィアの顔を、近づけた自分の顔に引き寄せた。
口づけをされる──。
一瞬、強い抵抗が沸き起こった。
しかし、身体の内側から込みあがっている炎のような肉欲の昂ぶりに、抗うことはできなかった。
カリンの唇にぴたりと唇を押し当ててしまった。
「んっ、んんっ」
オクタヴィアは、舌先をカリンに甘く吸われ蕩けるような被虐の糸に絡まれていくのを感じた。
まだ屈服したわけではない。
まだなにも認めてはいない。
そう自分に言い聞かせる。
けれど、カリンの口づけを振り払うために動くことはできなかった。握っている左手首を離すことさえできない。
カリンの手がオクタヴィアの身体を抱き寄せ、もう一方の手で再び股間を愛撫してくる。
「んんんっ、んぐうう──」
名状のできない甘美な感覚が全身を貫く。
股間に指を挿入された。しかも二本──。膣の中を弾くように、交互に動かされる。
一瞬で再び襲ってきた快感に、オクタヴィアは錯乱状態になった。
脳が思考を遮断した。
もうなにも考えられない。
欲しい──。この先が欲しい──。
それさえあれば、もうどうなってもいい──。心の底からそう思った──。
「はいっ……。ここまでですわ。おあずけです」
しかし、またしても、ぎりぎりのところで、カリンの手は離れてしまう。
「ああ、酷いわ、カリン──。もう許してよ──」
オクタヴィアは泣いてしまっていた。
「……浴室においでなさい。そして、身体を手入れして戻りなさい──。命令よ……」
カリンが一転して厳しい口調でオクタヴィアに告げた。
その言葉に逆らう気力は──もうオクタヴィアにはなかった……。