サロン・セルパンタンの五百日の調教記録──亡国の花と蛇の館 作:ドン・ドナシアン
016 偽りの救援依頼【第15日】
「この先です。急いで」
ヤンに促され、リネアは馬車を降りた。
石畳へ足を着けた瞬間、傾きかけた陽が狭い路地の入口へ斜めに差し込んでいるのが見えた。
先に降りていたヤンは、周囲を一度だけ素早く見回し、そのまま路地の奥へ走り出す。
姉であるレイシアが深手を負った──。
そう知らされたのは、今日の午後のことだった。
しかも傷の具合が悪い──。
傷による熱に浮かされながら、何度もリネアの名を呼んでいるという。
まともに治療できる者がおらず、来てほしいとと言っているらしい──。
そう聞かされた瞬間、頭が真っ白になった。
薬剤屋の主人へ、姉が怪我をしたことだけを告げ、棚から必要そうな薬を掴み、薬箱へ放り込んだ。
主人には、姉がいることも教えてなかったので驚いていたが、リネアは説明することなく、上着を羽織るのも半ばのまま店を飛び出してきた。
レイシアの活動のことは、伯爵家の五男であり、騎士学校へ通っている恋人のアルトにさえ教えてなかった。
知らせれば、巻き込むことになる。
だから薬剤屋の主人には、アルトが訪ねてきた場合、急用で外へ出たこと、数日は戻らないかもしれないことだけを伝えてほしいと頼んだ。
姉を助けなければならない。
その思いだけで、リネアは用意されていた馬車へ飛び乗ったのである。
「こちらです」
ヤンが振り返らずに言う。
リネアは胸に抱えた薬箱を抱え直し、慌ててその背を追った。
「……さあ、誰にも見られないうちにお早く」
後ろから降りてきた隻眼の女も声を掛ける。
アルジェと名乗っていた女だった。
彼女が馬車の扉を閉めると、御者台の男はなにも言わず、すぐに馬車を反転させて去っていった。
「姉は……本当に無事なんですか?」
リネアは小走りにヤンを追い掛けながら問いかけた。
「命は繋いでいます。ですが、かなり危険な状態です。あなたを呼び続けている」
ヤンが短く答える。
歩調は止まらない。
リネアは駆けながら、薬箱を抱える腕へ力を込めた。
ヤンもアルジェも、フィロス共和国への抵抗活動を続けているレイシアの仲間だという。
アルジェの名は知らなかった。
だが、ヤンの名には聞き覚えがあった。
レイシアから届いた隠し文の中に、ただ一度だけ書かれていた名前だったからだ。
──『頼れる男がいる。ヤンという名だ。』
レイシアは、自分に万が一があったときのために、その名だけはリネアへ伝えてきたのだろう。
短い文だったが、確かにそう記されていた。
姉は誇り高い女だった。
王都が陥落したあとも、占領軍への抵抗をやめなかった。
近衛騎士であり、王太子妃セリア付き護衛隊長だったレイシアは、最後まで主を守れなかったことを深く悔いていた。
──『必ず救い出す──たとえ命に替えてでも。』
手紙の端々からは、そんな執念すら感じられた。
そして最後に届いた隠し文には、こう記されていた。
──『自分のことは死んだものと思ってくれ。』
リネアも姉の潜伏先や仲間については聞かなかった。
レイシアもまた、それを徹底して隠していた。
それでも、その姉がただ一度だけ名前を書いた相手がヤンだったのだ。
だからこそ、リネアはヤンの言葉を信じた。
「人目につきます。急ぎましょう」
ヤンが振り返り、さらに細い脇道へ入る。
通りの幅が急に狭くなった。
湿った臭いが鼻をついた。
昼間だというのに、人の姿はほとんどない。
姉はこんな場所に隠れて活動をしていたのだ──。
リネアはそう思いながら、薬箱を抱えたままヤンの背を追い続けた。
「この建物です」
ヤンが立ち止まって告げたのは、廃家としか思えない外観の建物の前だった。
扉の向こうは小さな部屋しかなく、地下に向かう階段しかなかった。リネアは、ヤンを追いかけて階段を駆けおりる。
階段の下こ地下も、やはり小さな部屋だった。
壁際には埃を被った木箱や樽が積み重ねられている。
それ以外には、正面に古びた扉がひとつあるだけだ。
「この部屋に入れば、お姉さんに会えますよ」
ヤンがそう言って身体を横へどける。
リネアは躊躇わなかった。
「お姉ちゃん──」
扉を開き、そのまま中へ飛び込む。
だが、そこにレイシアの姿はなかった。
それどころか、誰もいない。
妙に広い部屋だった。
天井には滑車が幾つも並び、そこから鎖が数本垂れ下がっていた。
壁際には見たこともない金具や器具が並んでいる。
革帯のついた台。拘束具のような輪。鞭や木刀らしきものまで無造作に転がっていた。
床は冷たい石造りだ。
だが、ところどころ黒ずんだ染みが広がっている。
水拭きしたような跡もあった。
「なんですか、ここは……? 姉はどこなんですか?」
リネアは振り返った。
そこには、この部屋唯一の出入口である扉の前に立つヤンとアルジェの姿があった。
ふたりとも腕を組み、薄く笑っている。
まるで、最初からこうなることを知っていたかのような顔だった。
その瞬間、背筋が冷えた。
騙された──?
頭の中で、ようやくそれが形になる。
「まずは首環だな」
ヤンが笑いながらこっちに向かってくる。
「その薬箱もこっちへ渡してもらおうかい」
アルジェもゆっくりと歩いてくる。
「近寄らないで──。騙したのね──」
リネアは叫び、反射的にふたりの横をすり抜けた。
そのまま扉へ飛びつく。
だが、開かない。
「なっ──」
慌てて扉を押す。
叩く。
引く。
それでも扉はびくともしなかった。
よく見ると、鍵穴もなければ錠らしきものも見当たらない。
どういう仕掛けで閉まっているのかすら、わからなかった。
「嘘じゃないさ。あの騎士さんには会えるよ。いずれね……」
アルジェが近づき、リネアの薬箱を乱暴にひったくる。
「怪我をしてるってのは少し違うかな。元気だよ、レイシアは」
ヤンが笑う。
「本当ですか──? 姉は無事なんですね──」
リネアは叫んだ。
すでに目の前にいるヤンがリネアの片腕を掴む。
「……ああ、毎日、元気に男兵に犯されてるよ」
「えっ?」
リネアの思考が止まる。
次の瞬間、ヤンがリネアを部屋の中央に投げ飛ばした。
「いやっ──」
身体が床へ叩きつけられる。
尻もちをつき、そのまま横倒しになる。
「あっ……う……」
起き上がるより早く、すでにリネアの横に立つアルジェが天井から垂れている鎖を掴んでいる。
その先には、革の首環がついていた。
「やっ……なにを──?」
無理やりに、その首環を首へ嵌められる。
直後、鎖が滑車の音を立てながら引き上がり始めた。
「あぐっ──がっ……」
首が締まる。
リネアは慌てて両手で鎖を掴む。
だが、容赦なく上へ引かれていく。
膝が床から浮く。首が絞まり、慌てて脚を踏ん張って立ちあがる。
さらに鎖が上がる。
リネアの身体は、首環へ繋がれたまま、部屋の中央で吊り上げられていった。リネアが真っ直ぐに立ったところで鎖の引きあげがとまる。
天井から伸びる一本の鎖だけで、首環を引きあげられてリネアは立っている格好だ。
鎖の張りには多少の余裕はあるが、もはや腰を屈めるとこも逃げることもできない。
「あっ、は、外して──外しなさい──」
リネアは両手で懸命に首環を外そうともがく。だが、革の首環にはなぜか接合部らしきものがなく、どうやっても外れない。
「無駄だよ。これは囚人拘束用の魔道具だ。外すには解除具を使うしかない。魔力のないお前さんには、自分で外す方法はないね」
アルジェが笑う。
彼女は、部屋の隅からリネアが正面に立つ位置に椅子を二つ準備し、そのひとつに腰をおろす。
「これもそうだ。外れるものなら外してみな」
背中側からヤンが笑った。
次の瞬間、背後から冷たい感触が頭へ押し当てられる。
「あっ──なにを……?」
一瞬眼にうったのは、薄い金属板を曲げた鉢巻き状のものだった。
こめかみを挟み込むように頭へ固定される。
「なんなんですか──。なにをするつもりなんです──。外して──」
リネアは反射的に両手でそれを掴んだ。
細い金属板のような感触だ。
必死に引き剥がそうともがく。
だが、外れない。
まるで頭と一体化したかのように、びくともしなかった。
「さて、じゃあ訊問の時間だ」
ヤンはアルジェが腰掛けている椅子の隣へ移動し、そのまま腰をおろず。
「まずは、どうするの、ヤン?」
すると、アルジェが横のヤンに顔を向ける。
「とりあえず、おべべを脱がせるか。下着もなにもかも脱がせて、それをレイシアに届けてやろう。そうすりゃあ、日々のサロンの躾にも身が入るさ」
「そりゃいいねえ」
アルジェが手を叩いて笑う。
リネアは唖然となった。
このふたりは、なにを喋っているのだ──。
「そういうことだ。じゃあ、そこで身につけてるものを全部脱いで裸になりな」
ヤンが再びリネアに視線を向ける。
「な、なにを言ってるんですか──」
リネアは怒鳴る。
次の瞬間だった。
ヤンが手にしていた楕円球状の魔道具を、リネアの頭へ向ける。
「あぐうっ──な、なにを──いぎいいいっ」
経験したことのない異様な感触とともに、激痛が頭を貫いた。
抵抗などできない。
強力な万力で頭を締めつけられながら、こめかみへ釘でも打ち込まれているかのような激痛だった。
「ぎゃあああっ──や、やめてええっ」
リネアは悲鳴をあげ、必死に頭へ嵌められた鉢巻きを外そうともがいた。
だが、やはり外れない。
「ただの電撃による魔道痛覚具だ。安心しろ。傷ひとつつきゃしねえよ」
ヤンが笑う。
その瞬間、激痛が消えた。
「はっ……はっ……はっ……」
それでも、口からは呻きが漏れ続ける。
身体が震えていた。
吐き気すら込み上げてくる。
「どういう……つもり……」
リネアは息を乱しながらヤンを睨みつけた。
「着ているものを脱いで裸になるんだよ。言葉が理解できないのかい? 薬師見習いちゃんは」
アルジェが笑う。
彼女の手にも、ヤンと同じ楕円球状の魔道具が握られていた。
「うあああっ──」
再び頭に電撃が襲いかかった。
リネアは両手で頭を押さえながら、意味にならない声を漏らした。