サロン・セルパンタンの五百日の調教記録──亡国の花と蛇の館 作:ドン・ドナシアン
「いまこの場だけ、この五人を鞭打つ権利を君に与えよう。僕からの贈り物だよ、セリー」
カイネウスは穏やかに微笑んだ。
「え……」
セリアは、持たされた乗馬鞭を握ったまま、戸惑いとともに目の前に並ぶ四人の女兵を見つめた。
すぐには、なにも言葉が出ない。
四人とも、今日の午前中まで自分とレイシアの訓練についていた女兵たちだ。
見間違えるはずもない。
ただ、いまはその姿があまりにも違っていた。
女性用の黒い正装を身につけているものの、それは腰の括れまでしかない。
上半身だけを見れば、格式ある晩餐の給仕にでも出るような端正な装いだった。
けれど、その下には小さな白い下着しかなく、腰から下はほとんど剥き出しになっている。
脚も素足のままだ。
上半身が正装で、下半身が下着だけというのは、ただの裸よりも扇情的だと思った。
命じるのは彼女たちだった。
立てと言われれば立たされ、歩けと言われれば歩かされる。
姿勢を崩せば咎められ、逆らえば罰を受ける。
いま、この場だけとはいえ、仕返しを許される……。
セリアは乗馬鞭を握ったまま、ひとりずつ女兵たちの顔を見回した。
掻痒剤を股間に塗りたくり、狂乱して哀願するセリアを嘲笑った女──。
鼻輪をつけられて、お尻の穴に旗を差されて歩かされたこともあった……。
食事、用便、身体の洗浄──あらゆることで辱められた。
淫具と媚薬で狂わされて、レイシアと愛し合わされた。それを眺めながら嘲笑した女たち──。
どの屈辱を思い出しても、見覚えのある顔だ。
これまで、考えないようにしていた。
腹を立てても仕方がない。
憎んでも、なにも変わらない。
自分が感情を露わにすれば、その分だけレイシアに害が及ぶかもしれない。
だから、押し込めてきた。
見ないようにしてきた。
けれど、いま、その女たちは黙ってセリアの前に並び、自分の手には一本の鞭が握られている。
「遺恨は持たないように言い聞かせてある。遠慮はいらないよ。もっとも、実際にどうなるかは知らないけどね」
カイネウスが楽しそうに笑った。
「……そんな」
セリアは思わず呟いた。
「人の感情まで命令はできないからね」
カイネウスが悪びれもせず答えた。
セリアは小さく息を吐き、再び女兵たちへ視線を戻した。
四人ともなにも言わない。
ただ、セリアを見ている。
挑むようにも見えた。
試されているようにも思える。
けれど、そうかと思えば、僅かに表情を強張らせているようにも見えた。
実際にどれほど打たれるのか、警戒しているようにも思える。
あるいは、ただ命令されて黙っているだけなのかもしれない。
彼女たちがなにを考えているのか、セリアにはわからなかった。
わからないからこそ、妙に腹立たしかった。
セリアは手の中の乗馬鞭へ視線を落とした。
細い革の鞭だった。
握った感触は軽い。
その気になれば、いま目の前にいる女たちへ振るうことができる。
その事実が、まだ現実のものとしてうまく理解できなかった。
自分は、このサロンの囚人だ。
首には首環があり、魔核で身体を制御させられ、カイネウスから与えられた淫具も取りつけられ、まともとは言い難いドレスを着せられている。
だけど、いまだけは……。
この女たちを罰する側だ。
不意に、胸の奥でなにかが動いた。
「……なるほど、これがカイネウス様の贈り物なのですね」
自分の中に湧き出してくるものがなんなのか、わからなかった。
怒りなのか。
悔しさなのか。
それとも、もっと幼稚な意地なのか。
ずっと押し込めていたものが、薄い氷の下からゆっくりと浮かび上がってくるようだった。
「カインだ……。カイネウスというのは、僕が共和国で上級将校になったときに、箔付けのために付けた名だ。もともと、ただのカインだ」
カイネウスが静かに告げる。
「……カイン……?」
口の中で小さく言う。
カイネウスを見る。
カイン……。
セリアのなかで、大きな傷のあるカイネウスのいまの顔が、記憶の中にしかいないもっと幼い少年の顔に重なった気がした。
ああ、そうなのだ。
どうして、いままでわからなかったのか……。
そのときだった。
ぱしん──。
後ろのほうから、乗馬鞭で肉を打つ乾いた音が響いた。
セリアは振り返る。
開いたままになっている本棚の向こうから、先ほど馭者をしていた女兵が姿を現した。
そして、その前にはレイシアがいた。
黒い革の覆面を被せられたまま、四つん這いになっている。
小車を牽引していた馬具は外されていたが、背中には座が括り付けられたままであり、さっきの女兵がレイシアの背中に胡座をかいて乗っている。
レイシアの全身は汗に濡れ、腕も脚も疲労で細かく震えていた。
「ほら、気持ち右だな……。いや、行きすぎだ。左だ──。よし、そのまま、真っ直ぐ──」
馭者役の女兵が笑いながら言葉を掛け、レイシアの脇腹へ乗馬鞭を振るっている。
右を打たれれば右──左を打たれれば左──。真っ直ぐの合図は背中の中央なのだろうか。肩にも脇腹にも背中にも鞭痕があり、レイシアの身体は満遍なく打たれていた。
打たれるたびに、レイシアは小さく身体を震わせ、その合図に従って、右に左にと小刻みに向きを変えながら、こっちにやって来る。
レイシアは、まだなにも見えていない。
なにも聞こえていない。
どこへ連れてこられたのかも、自分がすぐそこにいることさえわかっていないのだろう。
ただ、身体へ与えられる合図だけを頼りに、四つん這いで進んでいるだけだ。
「よおし、そのまま真っ直ぐだ」
馭者役の女兵が再び乗馬鞭を持ち上げた。
その瞬間、セリアの手の中で鞭の柄が軋むほど強く握り締められた。
自分でも驚くほど、はっきりとした感情だった。
怒りだ──。
いまさら、そのことに気づいた。
自分がされたことだけではない。
レイシアがされたこと。
この館へ来てから、自分たちが当然のように扱われ続けてきたこと。
仕方がないと、自分へ言い聞かせ続けてきた。
レイシアだって、どれほど口惜しく思っていることだろう。
そう思った途端、胸の奥に押し込めていたものが、さらに強く燃え上がった。
「カイン、お願いがあるわ」
セリアはそう口にしていた。
「お願い?」
カイネウスが僅かに口元を綻ばせて、セリアを見る。
けれど、もうセリアには、目の前にいる男がさっきまでのカイネウスには見えなくなっていた。
そうか、カインなのだ──。
いま、やっとわかった。
十二年前に、たった三日間だけ一緒に過ごした猟師の少年──。
あのときの彼には、いま顔を大きく走っている惨たらしい傷などなかった。
身体つきも違う。
その彼が、いまでは長身の逞しい大人の男になっている。
それでも、カインだった。
一度そう思ってしまえば、どうしていままで気づかなかったのか、自分でも信じられないほど明白だった。
「ええ、お願い……。今後、わたしの罰はわたしにして欲しいの。そうでなければ、安心してわたしは、カインの贈り物を受け取れないわ」
セリアはカイネウスを見つめて言った。
「……なるほどね」
カイネウスは一瞬だけきょとんとした顔になり、すぐに笑った。
「約束しよう。アルジェにも徹底させる。これから君が逆らったとしても、それを理由にレイシアを罰することはしない。君の罰は君が受ける。それでいいね?」
「ありがとうございます……。それと……」
セリアは乗馬鞭を握ったまま、カイネウスへ向き直った。
「なんだい?」
カイネウスが訊ねる。
「申し訳ありませんでした」
セリアは深く頭を下げた。
「……え?」
カイネウスの声から、初めて戸惑いが滲んだ。
なにを謝られているのかわからないのだろう。
けれど、セリアには、それ以上すぐに言葉が出なかった。
十ニ年前──王太子との婚約話が現実のものとなり始めていた頃、当時十三歳だったセリアは、たった三日間一緒に過ごした少年に恋をした。
侯爵家の別荘近くで川遊びをしていたセリアは、誤って川に落ちて流されてしまった。護衛や侍女とも別れてしまい、気がついたときには、小さな猟師小屋でひとり暮らしをしていた十五歳の少年に助けられた。
それがカインだった。
セリアは自分が侯爵家の令嬢であることは口にしなかった。セリア=アルセリアではなく、商人の娘のセリーだと名乗った。だからこそ、ただの少年と少女として、侯爵家の捜索隊が山小屋に辿り着くまでの三日間を過ごせたのだ。
初めての口づけは、二日目の夜だった。
侯爵家の令嬢であることを告白したのは、別れのときだ。
呆然としていたカインの顔をいまでもよく覚えている。
自分の恋心をなぜ、母親に話してしまったのか。
母親を通じてセリアの恋を知った父親は、断固たる決断をした。
当時は、セリアが王太子妃候補の筆頭として挙がっていた時期だった。市井の男性との恋などが世間へ知られれば醜聞になる。
王家との縁談にも傷がつく。
父は、そう考えたのだろう。
刺客がカインの住む山小屋に放たれた。
セリアが父のしたことを知ったのは、ずっと後のことだった。そのときには、すでに王太子の婚約者になっていた。独自に調べた末、父が刺客を送り、カインは死んだのだと知った。
セリアは泣いた。
声が枯れるほど泣いた。
父を呪った。
侯爵家に生まれたことさえ呪った。
けれど、セリアにはわかってしまった。
高位貴族の娘として育てられてきたからこそ、父がなぜそうしたのか理解できてしまった。
侯爵家の名。
王家との婚姻。
王太子妃になる娘の醜聞。
父にとっては、それらを守ることのほうが、名もない少年ひとりの命より重かった。
そして、その少年を父の前へ連れ出したのは、自分だった。
自分がカインに恋をしなければ──。
彼と三日間を過ごさなければ──。
セリアが侯爵令嬢でなければ──。
余計なことをセリアが母親に話さなければ──。
カインは死なずに済んだ。
そう思った。
だから、覚悟を決めた。
もう泣かないと決めた。
カインを死なせてまで守られた道から、自分だけ逃げることは許されない。
ならば王太子妃になる。
侯爵家の娘として──。
王家へ嫁ぐ者として──。
求められた役目を果たす。
それが正しいからではなかった。
納得したからでもない。
ただ、自分の恋によってひとりの少年を死なせたのなら、その死を無駄にするような生き方だけはしてはいけない。
そう覚悟した。
その覚悟を胸の奥に沈めたまま、セリアは王太子妃になった。
忘れたことなどなかった。
忘れてはいけないと思っていた。
カインの死は、自分が王太子妃として生きるために背負わなければならない罪だった。
「……セリー?」
カイネウスが訝しそうに名前を呼んだ。
セリアはゆっくりと顔を上げた。
眼の前にカインがいる。
生きている。
傷だらけになって……。
自分の知っている少年とはまるで違う男になって。
共和国の将軍となり、自分の国を滅ぼし、いまでは自分を囚人として捕らえた男となって……。
それでも、生きている。
その事実がようやく胸の奥まで染み込んできた。
眼の奥が熱くなった。
嬉しかった。
ただ、生きていてくれたことが嬉しかった。
そして同時に、胸の奥へ押し込めてきた十二年間の重みが、僅かにほどけていくような気がした。
死んだ人間には、どれほど悔いても言葉は届かない。
謝ることもできない。
許しを請うことすらできない。
けれど、カインは生きている。
ならば、まだ向き合うことができる。
十二年前、自分はカインが死んだと思って、王太子妃として生きる覚悟を決めた。
いま、そのカインが生きて自分の前にいる。
だったら今度は、逃げずに彼と向き合う覚悟を決めなければならない。
「わたしへの罰はわたしに……。もっと酷く扱ってもいい……。いえ、もっと酷く扱うべき。それがわたしの罰……」
セリアは震える声で言った。
「どういう意味?」
カイネウスの笑みが消えた。
「……ただ、そう思っただけよ、カイン……」
セリアはそれだけを言った。
それでも、逃げるように視線を逸らすことはしなかった。
「よーし、着いたぜ。止まって、伏せだ」
そのとき、レイシアの背中に乗ったままの馭者の女兵が部屋に入ってきた。根元がレイシアのお尻を貫いている尻尾を無造作に掴む。
「おおっ」
レイシアが四つん這いのまま天を仰ぐように全身を硬直させて、その場に止まった。
さすがに女兵はすぐに手を離したが、顔を革マスクに覆われているレイシアは可哀想なくらいに、疲労し尽くしている。
レイシアに身体を伏せさせて、女兵が床に足をつけた。
セリアは、彼女に身体を向けた。
「そこのあなた、ここに来て、ズボンを脱ぎなさい」
セリアは毅然として言った。
「ああ、なんか言ったか、お前──」
すると、怒りの表情を浮かべてその女兵がセリアを睨みつけてきた。
「サーシャ、言う通りにしろ」
そのとき、カイネウスが口を挟んだ。
「えっ、お館様……? うわっ、なんで、お前ら、そんな格好なんだよ──?」
馭者をしていた女兵が、部屋の前に並んでいる四人の女兵たちを見て、大声を上げた。
どうやら、彼女はサーシャという名だったらしい。
「やかましい──。カイネウス様のご命令だよ。お前だけ免れるわけねえだろ。さっさとズボン脱いで並べよ」
「そうだよ。脱げ──」
四人の女兵たちが、口々にサーシャを詰るような言葉を投げつける。
「……え?」
サーシャは目を白黒させている。
「今夜はそういう日にすることにしたんだ、サーシャ。このセリーが叩きたいと思ったら、君たちは叩かれる。もちろん、明日に遺恨を残したら駄目だよ」
カイネウスが平然と言った。
「いや、なんですか、それ? まったくわかんないんですけど……」
サーシャは困惑した顔でカイネウスとセリアを交互に見る。
「わかんなくても脱ぐんだよ。さっさとしろよ」
「そうそう。あたしたちだけこんな格好させられて、お前だけ無事で済むと思うなよ」
「早く脱げって」
四人が再び一斉に騒ぎだした。
「いや、まじですか……。えっ、ええっ、えええ……?」
サーシャはなおも納得できない様子だったが、カイネウスがなにも撤回する気がないと悟ったのだろう。
渋々とズボンを脱いで、腰から下を小さな下着だけにすると、サーシャも四人の女兵たちが並ぶ列の端へ加わる。
セリアは乗馬鞭を握ったまま、そのサーシャの前へ歩み寄った。
「……」
サーシャは僅かに顎を引き、セリアを見る。
セリアは乗馬鞭を振り上げた。
「くっ」
鞭がサーシャの太腿を打った。
サーシャは歯を食いしばっただけで、ほとんど反応を見せない。
セリアは、さらに力を込めて、もう一度鞭を振るった。
「……っ」
今度も僅かに顔を歪めただけだった。
どこか不貞腐れているようにも見える。
この程度ならどうということはないと、意地を張っているようにも思えた。
セリアはちらりとレイシアを見る。
四つん這いのまま伏せているレイシアの身体には、いまも無数の鞭痕が残っている。
セリアは再びサーシャへ向き直った。
けれど、今度はすぐに鞭を振り上げなかった。
「……?」
サーシャが怪訝そうな顔をする。
セリアは乗馬鞭の先を下ろし、そのままサーシャの両腿のあいだへ差し入れた。
「えっ──」
サーシャの顔色が変わる。
セリアは鞭先を下着の上から強く擦り上げた。
「うわっ、あっ──」
サーシャの顔が一気に真っ赤になり、がくん、と膝から力が抜ける。
その瞬間を待っていたように、セリアは乗馬鞭を振り上げた。しかも、できるだけ付け根に近いところを打ってやる。
「んぎいっ、いてええっ──」
三度目の鞭が太腿へ叩き込まれ、サーシャが堪えきれず悲鳴を上げた。
「ははは、ざまあっ」
「だらしねえなあ」
隣に並んでいる四人の女兵たちが、一斉にげらげらと笑いだした。
「ず、ずるいよ」
サーシャが赤くなった顔のまま、セリアへ文句を言う。
「なにが狡いんだよ」
「お前、鍛え直しだよ」
「さっきまで偉そうにレイシアを叩いてたくせにな」
四人がさらに好き勝手なことを言い始める。
「うるせえよ、お前ら……」
サーシャは恨めしそうに仲間たちを睨んでいる。
セリアは残る四人の前に順番に移動し、それぞれの太腿へ一度ずつ乗馬鞭を振るった。
四人はそれぞれ顔をしかめた。
セリアは最後の一人を打ち終えると、手の中の乗馬鞭を見つめた。
そして、カイネウスへ差し出す。
「もういいのかい? 滅多にない機会だよ」
カイネウスが笑いながら訊ねた。
「ええ、もういいんです」
セリアは乗馬鞭をカイネウスへ渡した。
もしかしたら、この仕返しを明日からされるかもしれない。だが、それでもいい。
罰がセリアだけに及ぶなら……。
「そうかい。なら、食事にしよう。セリーはレイシアを連れておいで」
カイネウスは鞭を受け取りながら告げた。
「はい」
セリアはレイシアのところへ歩み寄った。
四つん這いのまま伏せているレイシアの首の後ろへ、そっと手を置く。
「……っ」
レイシアがびくりと身体を震わせた。
視界も聴覚も遮断されている。
触れたのがセリアだと気づいたのかどうかはわからない。
それでも、セリアはレイシアの首筋を一度優しく撫で、それから肩へ手を移した。
起き上がるように身体を支え、前へ進むように促す。
「ん……」
レイシアは戸惑うように僅かに身体を動かしたあと、ゆっくりと両腕を伸ばした。
伏せの体勢から四つん這いの姿勢へ戻る。
腕も脚もまだ細かく震えていた。
そこへカイネウスが歩み寄ってきた。
セリアの首環から伸びている鎖へ手を掛ける。
金具を外すと、その鎖を今度はレイシアの首環へ繋ぎ直した。
「え……?」
セリアは自分の首から離れた鎖を見る。
「じゃあ、晩餐だ。ただ、その前にもうひとつセリーに贈り物がある」
カイネウスはレイシアの首環に繋がった鎖をセリアへ手渡した。
「まだあるのですか?」
セリアは戸惑いながら鎖を受け取った。
「ああ。アンクレットだ」
カイネウスはそう言うと、礼装のポケットへ手を入れた。
それは、部屋でセリアが嵌められた指環や、身体につけられたリングと同じ真っ赤な金属で作られていた。
「アンクレット……足輪ですか?」
「ああ、セリーに意地悪をするために作らせた道具だ」
カイネウスが喉の奥で小さく笑った。