サロン・セルパンタンの五百日の調教記録──亡国の花と蛇の館 作:ドン・ドナシアン
065 鞭なき懲罰【第28日】
『早く一人前の接待婦に堕ち切ることね。そうすれば、お前のお仲間に会えるでしょう。このサロンには、お前の弟も、その恋人も、王太子妃殿下さえも収容されて、毎日矯正に励んでいるよ』
オクタヴィアが言い残していった言葉だけが、クラウディアの耳の底に残っている。
もはや、どのくらいの時間をこうやって放置されているかわからなくなっている。
クラウディアは、頭からすっぽりと革マスクを被せられて、口には球体状の口枷が嵌められていた。耳栓もされているので、ほとんど外界とは遮断されていた。視覚も聴覚も奪われ、さらに自分の顔が上を向いているのか、下を向いているのかさえわからなくなっている。
全身が、痛んでいた。
クラウディアは、小さな球形の鉄格子の内側にはりつけられている。
『鉄蜘蛛球』──。この網状球体の中にクラウディアを放置して立ち去っていった陰湿そうな女──オクタヴィア──は、この球体状の拘束具の名称をそう教えた。
人ひとりが身体を小さくすることによって、辛うじて収まるほどの球体であり、鉄網と細かな格子で組み上げたもので、拷問を伴う拘束具だという。
クラウディアの身体は、その中心に浮いているわけではない。
球体の内側、その丸い表面へ身体の前面を球体に沿わせ、四肢を背中側へ開くように固定されているのだ。
身につけているものはほとんどない。
頭に被せられている革マスクを除けば、乳房と股間にあてた小さな赤い布だけがあるはずだが、球体の内側に磔状態のうちに、汗で濡れ、めくれあがり、丸まっているはずであり、すでにクラウディアの身体を隠す役には立っていないだろう。いまだに身体に張り付いているのかどうかもわからない。
身体の各所を押さえる細い革帯が、すべて球面上の異なる位置へ繋がれていた。関節という関節が、それぞれ別の場所へ留められている。
一か所を僅かに動かして別の場所の負担を逃がすことさえできなかった。
両腕は左右へ大きく開かれ、肘を伸ばしたまま球面へ固定されている。両脚も左右へ開かれ、膝と足首を別々の格子へ密着して留められていた。
腰は球体の最も深く湾曲した部分へ押しつけられ、そこから逃げることができない。
腹から腰の前面を球面へ押しつけられ、その状態で四肢を背中側へ回されているため、背筋は不自然に反らされていた。
逆海老に近い。
ただし、普通なら苦しくなれば腕や脚の位置を変え、腰を捻り、身体のどこかを緩めることができる。
この鉄蜘蛛球では、それができない。
肩を動かそうとすれば、手首と肘が止める。
腕を緩めようとすれば、肩の固定がそれを許さない。
腰を浮かせようとすれば、背中と膝が反対側から身体を引き留める。
膝を僅かに曲げようとしても、足首が球面へ留められている。
全身がひとつながりになっていた。
どこかを動かせば、別の場所へ苦痛が発生する。
なにか仕掛けがあるのか、あるいは、重心を動かすことでそうなるのか、無理に動かそうとすれば球体そのものが動き出す。そのときに加わる全身の関節の痛みは、クラウディアが貴族令嬢としての矜恃など忘れ去って、口枷の下から泣き声を迸らせるほどだ。
球体の回転は、防ごうとしても断続的に発生する。
とてもじゃないが、気絶すらできない。
「……っ……」
クラウディアの喉から小さな呻きが漏れた。
ずっと、この姿勢だ。
話しかける者も、触れてくる者もない。ただ、意識を失いそうになると発生する球体の回転の苦痛があるだけだ。
肩の付け根は焼けるように痛み、肘も手首も強張っている。
反らされた背中には絶えず張りつめた感覚が残り、腰には鈍い痛みが居座っていた。
大きく開いた脚もすでに震えている。
「……つっ──」
クラウディアは小さく呻いた。
ごろり──。
球体がほんの僅かに転がる。
それだけで、身体にかかっていた重さの向きが一変した。
「ぐっ……」
さきほどまで腰と背中へかかっていた重みが、次の瞬間には片方の肩へ集中する。
さらに球が傾けば、今度は片側の腰と膝が身体の重さを受ける。
どちらへ転がるのか。
どこが下になるのか。
次に自分の体重がどの拘束点へ集中するのか。
球体が止まるまでわからない。
だから、身体を動かして楽な姿勢を探すこともできなかった。
逃げようとして身じろぎすれば、球が転がる。
球が転がれば、予想もしなかった場所へ自分の体重がかかる。
だが、動かなければ同じ関節と筋肉へ負荷がかかり続ける。どちらを選んでも、痛みから逃れることはできない。
「くっ」
しばらくして、やっと回転がとまった。
全身の筋肉がひきつる。
いつこれが終わるのか、それとも延々と放置されるのか。逃れられない恐怖から心が押し潰されそうになっていく。しかも、全頭マスクのために、声さえもあげられず、視覚も聴覚も奪われている不安感が一層拍車をかけていた。
クラウディアの全身は汗に濡れていた。
額から流れた汗が頬を伝い、顎から落ちる。
首筋にも、胸元にも、腹にも汗が浮かび、髪は濡れて肌へ貼りついていた。
長時間の拘束に加え、昨夜塗られた薬の作用も残っている。
強力な媚薬らしい。このサロンに収容された女は、全員が毎日塗布されて、刺激に弱い敏感な身体を作りあげるのだと、オクタヴィアに命じられた女兵たちが嘲笑していた。
身体の火照りは消えず、頭の奥はぼんやりとしていた。
死んでしまおうと思った。
口に球体を入れられていなければ、クラウディアは間違いなく、舌を噛み切る選択をしたと思う。だが、もしかしたら自殺はできないのかもしれない。
クラウディアが自殺を考えて、口枷を噛みしめようとすると、途端に口の力が脱力するのだ。普通に噛みしめることは、なににも妨げられない。
おそらく、首の後ろに埋められている魔核が関係しているのだろう。
そういえば、移送の馬車のなかでも、カイネウスたちがそんなことを喋っていた気がする。
死ぬ自由さえない──。
救出の見込みもありえない。聖女と呼ばれて、侵略軍の残党狩りの抵抗勢力に加わっていたクラウディアだからこそ、現実がわかっていた。
だからこそ、錯乱していく頭のなかに、あのオクタヴィアが言い残した言葉だけが、繰り返すのだ。
「反応がないわね。もしかして狂っちゃったかしら」
「まあ、昨夜から今日の昼まで、ずっと鉄蜘蛛球の中でしたからね。普通なら狂うかもしれません」
頭上から複数の女の声がした。
それで初めて、クラウディアは、人の声が聞こえていることに気がついた。
耳栓がなかった。
眼を開くと、ぼやけた視界に冷たい石床が映った。顔を覆っていた革マスクも外されている。
自分は横向きに床へ転がされていた。
鉄蜘蛛球から、いつの間にか出されている。
「……っ」
僅かに身体を動かしただけで、全身の関節と筋肉が痛んだ。長時間反らされ続けた身体は、解放されても強張ったままだった。また、自分の口から呻き声が出たことで、口枷も外されていることを知った。
そして、全身は汗に濡れ、衣服はなにも身につけていない。
視線を向ける。すぐ横には鉄蜘蛛球が転がり、その傍らに、革マスクや口枷とともに、身体を覆っていた小さな赤い布が捨てられていた。汗を吸って皺だらけになった、ただの濡れた布切れだった。
「狂ってもらったら困るんだけど」
「大丈夫ですよ。魔核を埋め込んでいるので、自殺も自傷も、発狂も不可能です。存分に扱っても大丈夫ですよ」
「まあ、王国貴族だから、もしかしたら、家畜に向いているのかもしれないわ」
「向いてなくても、家畜に仕上げましょう。ここに来たのは、王国貴族に恨みつらみが溜まっている者ばかりですからね。なんでも命令してください。きっと役に立ってみせます」
クラウディアは声の方へ視線を上げた。
数人の女兵を従えた黒い服を身につけたオクタヴィアが立っていた。会話の中心にいるのがオクタヴィアであり、追従のような受け答えをしているのは、五人ほどいる女兵のひとりだった。
「わかったわ。……ところで、聖女が眼を開けたようよ」
オクタヴィアが言った。
「あっ、ほんとだ」
オクタヴィアと話していた背の低い女兵が、一歩前へ出た。
その手には、白く細い杖が握られている。長さは女兵の腕一本分ほどであり、指先から肘を越える程度の細身の杖だ。
女兵がそれを軽く持ち上げると、床へ横たわったままのクラウディアの背中へ、先端をそっと触れさせた。
その瞬間──。
「──ふぐうっ」
クラウディアの身体が跳ねた。
眼が大きく見開かれる。
痛い──。
反射的にそう思った。
だが、違う。
刺されたわけでも、殴られたわけでも、焼かれたわけでもない。
杖が触れた背中から、形のない何かが身体の奥へ入り込んだ。
クラウディアの身体を襲ったのは、電撃のようなものでもなく、「苦痛」そのものだった。
なにが苦しいのか説明できない。
ただ、耐えられない。
そうとしか言いようのない感覚が、背中から身体の内側を駆け上がり、一瞬のうちに頭の奥まで突き抜けた。
「う、ぁあっ……」
口から奇声のような呻き声が迸った。
全身の筋肉が勝手に強張る。
逃げようとして脚が床を蹴り、背中を丸めようと身体が縮む。だが、どの姿勢を取っても楽にはならない。
痛みなら、歯を食いしばって耐えることもできる。
これは違った。
身体そのものが、意志とは無関係に拒絶している。
耐えられないという本能だけが、一斉に身体の奥から湧き上がってくる。
「はっ……はぁ……っ……」
クラウディアは床の上で荒い息を繰り返した。
すでに、白い杖はクラウディアの背中から離れている。
だが、得体の知れない恐怖だけが、身体の奥に残響のように残っていた。
「その場に立っていただけますか、聖女様」
白い杖を手にした女兵が、にこやかにクラウディアを見下ろしている。
まるで、いましがたのことなど、なにもなかったかのような、柔らかな笑顔だった。
「立てないなら、膝立ちでいい。身体を起こしなさい、聖女」
今度はオクタヴィアが命じた。
しかし、クラウディアは動かなかった。
いや、動けなかった。
先ほど受けた、たった一度の苦悶。それだけで、身体を動かそうとする意思そのものが萎えてしまったかのようだった。
「聞こえなかったのですか。身体を起こしてください」
背の低い女兵がにこやかに言い、再び白い杖の先端をクラウディアの背中へ押し当てた。
「あがぁ──」
次の瞬間、クラウディアの身体が大きく跳ねた。
痛いのではない。
どこがどう苦しいのか、それさえ説明できない。
ただ、身体の内側から耐え難い苦悶だけが一気に膨れあがり、頭の奥まで駆け抜ける。
「ほら、起きるのよ」
女兵が笑顔のまま言った。
「ま、待って──んぐぅ……」
クラウディアは必死に身体を起こそうとした。しかし、またもや苦悶の衝撃が襲う。
床へ手をつく。
鉄蜘蛛球の中で長時間反らされ続けていた身体は、まともにいうことをきかなかった。肘が震え、肩から力が抜け、膝を身体の下へ引き寄せようとしても脚が滑る。
「立てとは言われていませんよ。膝立ちでいいと、主任は言ったでしょう」
女兵が白い杖をちらつかせながら言う。
「わ、わかって……いる……」
クラウディアは荒い息を吐きながら、床を押した。
腕が震える。
膝をつく。
一度崩れかけ、もう一度身体を支える。
それだけの動作で、全身から汗が噴き出した。
やがて、どうにか上体を起こす。
膝立ちになった。
肩は大きく上下し、脚は震えている。背筋を伸ばしているつもりでも、身体は左右へ僅かに揺れていた。
「いいでしょう」
オクタヴィアが言った。
黒い服を隙なく身につけたまま、膝立ちになったクラウディアの正面へ進み出る。
「改めて教えておく。今日からわたしが、お前の専属矯正官になる。名前はオクタヴィア。わたしを呼ぶときは『オクタヴィア様』、あるいは『矯正官様』と呼びなさい」
クラウディアは荒い息を吐いたまま、オクタヴィアを睨んだ。
「……そして、わたしの指示には絶対に従うこと。返事を求められれば返事をする。許可なく姿勢を変えることも認めない。逆らった場合は、いま味わったものを使う」
オクタヴィアは淡々と言葉を続けた。
「……懲罰杖……?」
クラウディアが呟いた。
「これが懲罰杖よ」
オクタヴィアが黒い服の内側から、指ほどの長さしかない白い棒を取り出した。
その手の中で、白い棒がすっと伸びる。
瞬く間に腕ほどの長さの細い杖となった。
クラウディアは眼を見開いた。
オクタヴィアは長くなった杖先を乳房の間、胸の中央へ触れさせた。
「さ、触るな」
クラウディアは咄嗟に手を伸ばし、杖を払いのけようとした。
白い杖が作動した。
「ひぎぃ──」
クラウディアの身体が反り返った。
胸の中央から、名づけようのない苦悶が一気に全身へ走る。
次の瞬間には膝立ちの姿勢を保てなくなり、膝を曲げたまま仰向けに床へ倒れ込んでいた。
「許可なく動くなと言ったはずよ。さっさと立ちなさい」
オクタヴィアが冷たい声を降らせる。
「はっ……はぁ……っ……」
クラウディアは眼を見開いたまま、荒い呼吸を繰り返した。
床の横では、先ほどの背の低い女兵が白い懲罰杖を手にしたまま、にこやかに待っている。しかも、すでに、横腹に白杖を当てられていた。
はっとなる。
「今度は、言われる前に動いた方がいいですよ、聖女様」
女兵が柔らかな声とともに、懲罰杖を作動させた。
「んほごおおっ」
クラウディアは全身を跳ねさせる。
もう恐怖しか湧かない。
クラウディアは、必死に起きあがり、なんとかもう一度、膝立ちの姿勢になった。
オクタヴィアが、後ろに控えている女兵たちへ眼で合図を送った。
すぐにひとりが前へ出る。手には、大きめの金属製の丸皿があった。
女兵は膝立ちになっているクラウディアの脚のあいだへ、その丸皿を差し入れた。
「今日の矯正に入る前に、排泄と食事よ。まずは、それに排泄しなさい。しなくてもいいけど、矯正の途中で粗相をすれば厳罰を与えるわ」
オクタヴィアが命じた。
束の間、クラウディアの思考が停止した。
だが、すぐに憤怒が頭へ込みあげてくる。
「いい加減にしてよ。ここでは、わたしに排泄する自由すら与えないの」
思わず怒鳴った。
その途端、横にいた背の低い女兵が、懲罰杖をさっとクラウディアへ向けた。
「……っ」
一瞬にして血の気が引いた。
また発動させられる──。そう思っただけで背筋が冷たくなった。
「待ちなさい──」
オクタヴィアが片手を上げて女兵を制した。
懲罰杖が下げられる。
とりあえず、安堵した。
「言っておくけど、ここではお前は貴族令嬢などではないわ。一級市民でも二級市民でもない。人としての権利を剥奪された家畜と同じよ。せいぜい、家畜同様に扱ってあげるわ。それでどうするの。するの、しないの」
オクタヴィアが冷たく言った。
クラウディアは唇を噛んだ。
移送の馬車の中で排泄を拒み、大勢の共和国兵の前で失禁させられた恥辱を思い出す。
同じような目に遭うくらいなら、女しかいないここで済ませた方がまだましだった。
確かに、尿意も溜まっている。
クラウディアは意を決して、下腹部から力を抜いた。
静かな室内に、金属の皿へ水が落ちる音が響き始める。
「へえ、案外素直ね。もっと抵抗するかと思ったわ」
オクタヴィアが驚いたように呟く声が聞こえた。
そのあいだも、じょろじょろと股間の下の丸皿に小尿が落ち続ける。やがて、やっと終わる。
「家畜だからね。わざわざ、股を拭く手間はいらないわね。今日中に陰毛処理するから、明日からはましになるはずよ。それよりも、食事を与えなさい」
オクタヴィアが女兵に指示する。
すると、鍋に似た容器を持った女兵が近づく。
唖然とすることに、たったいま放尿が終わったばかりで、クラウディア自身のおしっこが溜まっている丸皿に、粥のようなものをそのまま入れたのだ。
「なっ──」
クラウディアは目を疑った。
「食べなさい。時間は砂時計が落ち切るまで。手は使わずに口だけで食べること。始め──」
別の女兵がクラウディアの前に大きめの砂時計を置き、ひっくり返す。砂がゆっくりと下に落ち出す。
クラウディアは目の前で起こったことが信じられずに、呆然としてしまった。
だが、我に返って、目の前のオクタヴィアを睨む。
「ふざけないでよ──。これを口にしろと言っているの──」
憤怒のまま怒鳴った。
しかし、オクタヴィアだけでなく、横の女兵──さらに、後ろにいたほかの女兵たちも同時に、懲罰杖を抜いてクラウディアを取り囲んだ。
合わせて六本の懲罰杖がクラウディアに突きつけられている。
クラウディアは、恐怖でなにも考えられなくなった。
「お前の小便混じりの餌が不満なら、不満がなくなるまで、懲罰杖を耐え続けるだけよ。サロン主に禁止されているのは傷を残すことだけだから、傷のつかない懲罰杖は、家畜身分のお前には丁度いいでしょう」
オクタヴィアが酷薄に微笑んだ。