サロン・セルパンタンの五百日の調教記録──亡国の花と蛇の館 作:ドン・ドナシアン
009 仕組まれた救出【第4日】
丸一日、レイシアは森の中から動かなかった。
身を伏せたまま、視線だけを前方へ固定する。
木々の隙間の先、低く構えた石造りの小城が見えている。王族専用の狩猟場に建てられた別宅──かつて何度も足を踏み入れた場所だった。
だが、今は違う。
小城の外周には、一定間隔で灯が置かれている。さすがに、ここからは見えないが、巡回の兵の経路も予想はつく。
また、その巡視の間隔はすでに調べていた。一度見たときにはしっかりとした兵だった。足運びに乱れはなく、装備も軽装ではない。腰の位置、肩の張り、歩幅──どれも訓練された兵のそれだった。
かつては、王族の施設だったが、いまの主人はフィロス人。警備をするのもフィロス兵だ。
レイシアは息を殺している。胸は動かさず、喉の奥でわずかに空気を通す。葉の擦れる音に紛れる程度の呼吸だけを維持する。
見つかれば終わる。
それがわかっているからこそ、動かない。
レイシアが待っているのは、夜──。
あの小城に監禁されたらしい、セリア妃を見つけて救出する──。やるのはそれだ。
あれから半年──。
王都が陥落してから、それだけの時間が過ぎていた。
国王も、王妃も、王子も、王女も、主立つ上級貴族たちも、すべて処刑された。王都広場に引き出され、群衆の前で命を断たれていった。
だが──。
王太子妃セリアだけは、まだ、処刑されていない。
その事実だけが、レイシアを王都に留まらせた。
視線を城に据えたまま、わずかに奥歯を噛みしめる。
かつて守るべき対象だった。常に側に立ち、その背を見ていた。命じられるまでもなく、剣を抜く理由だった。
レイシアは、近衛軍将校であり、女騎士として王太子妃セリアの護衛責任者だった。
セリア妃は、もとは侯爵家の令嬢だが、王族に嫁ぎ、王族以上に王族だった。気高く、優しく、思慮深く──。この方なら命をかけて悔いは無い──。レイシアにそう思わせてくれた相手だ。
それは、いまも変わってない。
だが、あのとき、王宮ではなく、王城の防御に駆り出されたレイシアは、フィロス軍の侵攻を受けて負傷して瓦礫のなかで意識を失ってしまった。
数日後に、レイシアを助け出してくれた王都市民に匿われて意識を戻したときには、すでに王都はフィロス軍に落ち、王族はすべて彼らの捕虜になってしまっていた。
だが、王族の処刑が続くなか、セリア妃だけは王城から出されなかった。
生きているのなら、助け出す。
それだけだ。
セルパンタン──。
フィロス側がそう呼んでいる施設に、セリア妃が移されたらしいと知ったのは数日前だ。
王宮ではない。処刑場でもない。
この小城に収容されたらしい──。
理由は知らない。
だが、王城に比べれば、遙かに潜入の容易な場所に、セリア妃が移された──。
その情報だけで十分だった。
構造は知っている。外壁の高さも、裏手の獣道も、使われていない出入口の位置も、すべて頭に入っている。
侵入には自信があった。
ひとりであれば……。
レイシアは、わずかに視線を左へずらす。
森の奥。仲間たちが潜んでいるはずの方向だ。
ヤンと、その部下たち。
レイシアが王都のなかで密かな抵抗活動を続けているあいだに知り合った者たちであり、ヤンは王都が陥落した直後に、妹をフィロス兵に強姦されて殺されたと言っていた。
フィロス人を憎んでいて、王都のなかで彼らに対する妨害行動を続けており、同じように動いていたレイシアは、一緒に活動するようになっていた。
セリア妃の情報を探すレイシアに協力してくれ、彼女を救出することを決めたときも、同行を申し出てくれた。
いまは離れている。陽動と退路の確保。その準備のために動いている。ここに来るのは、夜に入ってからのはずだった。
潜入は自分ひとり……。
それでいい。
その方が確実だ。
再び視線を城へ戻す。
巡回の間隔の気配が変わらないことを確認する。全部は見えるわけじゃない。だが、ここからでもわかる城壁に現る巡回兵の間隔は、事前の調査と合致している。
夜になれば、視界は遮られ、死角が増える。
それを待っている。
陽が傾いていく。
木々の影が伸び、地面を覆う範囲が広がっていく。城壁に当たる光が弱まり、石の色が沈んでいく。
灯の存在が、徐々に浮かび上がる。
巡回の兵の輪郭が、逆に目立つようになる。
もうすぐ、夜が来る。
レイシアは、ゆっくりと指を開き、土から離す。次に動くための準備として、筋肉の位置を静かに整える。肩を上げず、腰を浮かせず、内部だけで力の流れを調整する。
そのとき、背後の気配が、わずかに揺れた。
葉を踏む音はない。枝の折れる音もない。
だが、いる。
レイシアは振り返らない。
顔を向けず、視線も動かさないまま、低く声を落とした。
「……来たかい、ヤン?」
レイシアが小さく呟くと、背後で気配が止まる。
わずかな間のあと、その人影がしゃがんだのがわかった。
「警備に変化はない。ただ、新しい情報だ」
ヤンだった。
レイシアは、ようやく視線をわずかに横へ流す。
「新しい情報?」
「この森に入っていく小さな馬車を見た男がいた。窓のない馬車だ。フィロス軍の騎兵が囲んでいたらしい」
「……いつだい?」
「三日前だ。俺たちが聞いた情報と合致する……。あそこに、貴人が収容されたのは間違いない……」
「三日前か……」
レイシアは小さく呟く。
「森のなかに色々と仕掛けをした。あの小城の近くでもちょっとした騒動が起きる。だが、俺たちができるのはそれだけだぞ……。本当にやるのか、レイシア?」
ヤンは手筈通りに準備を整えてくれたようだ。
「十分だよ。騒動に紛れて、わたしは中に入る。夜明前までに戻らなければ、撤収しておくれ」
「わかった……。それとこれが準備できた」
布のカバンが放り投げられた。
中には、フィロス兵の軍服が入っていた。
「これはすごいな。さすがはヤンだよ」
レイシアはすぐにその場で身につけていたものを脱ぎ下着姿になる。
軍服を身につける。
「ちょっと湿っているけど我慢してくれ。それを着ていた男から脱がしたときに、濡れちまったんだ」
「問題ないよ。大丈夫」
確かに、薄らと軍装の内側が湿っている感触があった。でも、大したものじゃない。動きの妨げになるようなものでもなさそうだ。
「……よかった……。ほかにも、農婦の装束もある。それは、脱出のあとに、合流できたときに渡す」
「妃殿下の分はあるかい?」
「用意してる」
「わかった」
レイシアは、一度外した武器を装着していく。
たったいままで着ていたものは草の中に捨てた。
「準備できたら行こうか。ただ、俺たちが行けるのは、あの小城の外壁までだ。それから先は、お前ひとりになるぞ」
「うん……感謝してる。ありがとう」
レイシアは草から出た。
進むのは、獣道のような経路──。最初は普通に立って歩く。
まだ、外壁を巡回する兵には絶対に見つからない距離だ。焦る必要はない。
すでに、夜は更けていた。
幸いにも、雲が厚い。月の光は隠れていた。
「ここから走るよ」
後ろからついてくるヤンに声を掛けてから掛けだした。
レイシアも、ヤンもほとんど足音を立てない。
樹木の壁が急になくなり、視界が開ける。小城の城壁は目の前だ。
「あそこだ」
ヤンが後ろから声を掛ける。
夜闇のなかで、ヤンが金具のついた縄を投げる。金具が引っ掛かり、縄が城壁から落ちる。
レイシアはそれに飛びつく。
あっという間に城壁に登り、すぐに反対側に飛び降りた。
開けた裏庭があり、かなり離れたところに石造りの小城がある。
巡回の兵の姿は見えない。
レイシアは、小城の方向ではなく、建物の脇近くにある草むらに駆けた。そこに小城の地下に繋がる隠し通路があるのだ。
そこからどこにも繋がってない通路を伝って、最上階まで行けるようになっている。
近衛兵でも限られた者しか知らない通路だ。
大きな木のむろがあり、そこにある土を払うと、入口に蓋が出現した。
長く人が通った形跡はない。
フィロス人も、やはり見つけてないようだ。
レイシアは、蓋を開いて、現れた階段を駆けおりた。
階段も、階段の下の通路も漆黒だった。
人の気配はない。
ここを使ったのは訓練で二度だけ。
記憶を呼び起こしながら、左手を壁につける。そのまま気配を殺して前に進んだ。しばらく進むと、階段があった。そこには上から薄灯りが漏れていた。
登る──。
灯りは、階段の横の壁の隙間から漏れ出ているのだ。
話し声も聞こえる。
フィロス兵の声のようだ。おそらく、壁の向こうが連中の詰所なのだろう。ただ、ここには出口はない。
そのまま階段を音を立てないようにあがっていく。
この隠されている階段から、建物内に入るには、最上階まであがるしかないのだ。
しばらく、長い階段を進んだ。
一階から二階へ──。さらに三階へ──。
やがて、階段が尽き、扉が見えた。
「……変だね……」
レイシアは小さく呟いていた。
扉に耳を付ける。
気配はない。
変なのは、小城側じゃない。
さっきから、妙に身体がだるかった。
息が切れる……。
なんだか、身体が熱いような……。
おかしかった……。
でも、その理由に見当がつかない。
扉を開ける。
懐から準備していた照明石を出す。紋様の刻まれた照明用の石であり、魔石が組み込んであって、決められている刺激を石に加えると、薄らとした蒼白い光が灯った。
闇が溶けて、視界が戻る。
それにしても、フィロス人はいいものを作るものだ。テレオロスでは魔道具は、魔力のある貴族にしか扱えないが、フィロス人は魔力を込める魔石というものを使って、魔力のない平民に魔道具を解放した。
その差が、王国がフィロス軍に大敗をした要因のひとつかもしれない。
入ったのは、ただの倉庫だった。
隅に木箱があるほかにはなにもない。
秘密経路側からは扉だったが、こちらからだと、ただの壁になっている。
レイシアは、廊下に出た。
最上階は、本来は王族用にあてがわれている階層だ。
廊下には人影はないこともあり、レイシアは堂々と歩いた。フィロス兵の軍装もしているし、自然にしている方が怪しまれないという自信もある。
「くっ……」
だが、レイシアは知らず、吐息とともに脚をよろけさせてしまった。
胸当てをしているにもかかわらず、胸が揺れるたびに信じられないくらいの痺れが乳房全体に襲いかかる。
いや、胸だけじゃない。
股間も異常なほどに熱かった。
はっとした。
気がつくと、手が股間に伸びて押さえるような動作をやりかけていたのだ。
なんということを……。
レイシアは慌てて、手を離す。
そのとき、少し先の部屋に人の気配を感じた。
誰かが、小さく呻いているような声……。
もしかして、女の声──?
レイシアは、そっちに向かう。
その声に懐かしい響きを感じたのだ。
幸いにも、その扉の前にも人影はない。
ただ、室内に明らかに人のいる気配がある。声──もう女の声とわかる。それも、この部屋からする。
レイシアは、扉に耳を当てる。
確かに誰かいる。
どうするか……?
続いている呻き声──。
えっ──?
レイシアははっとなった。
声が、耳の奥に引っかかった。
低く抑えられた呻き──だが、その奥に、聞き覚えのある響きが混じっている。
そんなはずはない。
だが、違うと言い切れない。
もう一度、耳を当てる。
息の混じり方、声の抜け方──記憶と重なる。
間違いない。
セリア妃──。
レイシアは決断した。
隠していた短刀を取り出す。
扉の取ってを握る──。
鍵はかかってない──。
どうなるか──。
レイシアは、ゆっくりと扉を開いた。
「えっ」
声を出すつもりはなかったが、視界に飛び込んできた光景に愕然となった。
部屋の奥──。
薄明かりのなか──。胴体部分と脚だけの拘束台があり、ひとりの女が全裸でうつ伏せに括られている。四肢を台の脚に拘束され、後ろから男が女を犯していた。
女は口に枷を嵌められている。
聞こえていたのは、その口枷から漏れる悶え声だったのだ──。
しかも──。
犯されているのは、セリア妃──。
扉を開けた瞬間、視線がぶつかった。
男はセリア妃の中に男根を埋めたまま動いていなかった。
こちらを見ている。
気づいていたのか──。
「貴様──そこでなにをしている──」
かっとなる──。
三十くらいの男だ。服を着ていないが、鍛えられている身体つきは軍人を思わせる。
全身に加えて、顔に斜めに走る大きな傷があり、一度見れば忘れられないような面相だ。
「んんんっ、んんっ」
セリア妃がレイシアの存在に気がついた。
必死になにかを叫んでいる。
「いま、助けます──」
レイシアは男に飛び掛かった。
踏み込みは正確だった。間合いも問題ない。
だが──。
脚に力が入らない。
膝がわずかに沈む。
その一瞬の狂いで、踏み込みが崩れた。
おかしい。
身体が言うことを聞かない。
「うわっ」
行き着くことなく、途中で跪いてしまった。なにかにぶつかったのだ。
糸?
ぶつかったのは、部屋を横断しているたくさんの細い糸だ。それが、レイシアの行く手を阻んだのだ。
しかも、頭の上から網が落ちてきた。
あっという間に、身体に被せられる。
「し、しまった──」
レイシアは呻いた。
必死に網から抜けだそうとするが、わらわらと部屋にフィロス兵が入りこみ、網を絞られる。
咄嗟に小刀で網を内側から切断しようともがいたが、指から力が抜けて、小刀が手から離れてしまった。
「な、なぜ……」
身体が完全に脱力している。
妖しい疼き全身に拡がり、身体が小刻みに震えていた。
「調子が悪いようだね、レイシアさん?」
周りを囲んでいるフィロス兵の中に、隻眼の女が混じっていて、その女が言った。ほかの者も嘲笑のような表情を浮かべている。
レイシアは、そのなかにいた男の顔を見て唖然とした。
「ヤ、ヤン──なぜ……」
そこにいたのは、さっき別れたヤンだった。
フィロス兵のなかに溶け込んだように自然に混じっている。
ヤンが、ゆっくりと口元を歪めた。
「気づいたか?」
視線がレイシアの軍服に落ちる。
「……き、気がつく……?」
「くくく……。それだよ。あんたが着てるやつだ」
「……えっ?」
レイシアは息を呑んだ。
「内側に仕込んである。皮膚から入るタイプだ。でも、ここまで反応するとは思わなかったよ」
ヤンが肩をすくめる。
一拍置いて笑う。
「とにかく──」
周囲のフィロス兵が囲みを狭める。あの隻眼の女が前に出る。
「ようこそ。サロン・セルパンタンへ──。騎士レイシア……いや、隷属民レイシア」