サロン・セルパンタンの五百日の調教記録──亡国の花と蛇の館 作:ドン・ドナシアン
「ああ……誰か……誰か来て……」
もう、限界だった。
オクタヴィアは寝台の上で、何度目になるかわからない悲鳴をあげた。
逃げ出したい。手脚を振り回して、何もかも振り払ってしまいたい。
しかし、魔道枷に封じられた四肢は、ぴくりとも動かなかった。
彼女に許されているのは、ただ苦悶の声をあげることだけだった。
オクタヴィアが拘束されているのは、日中、アルジェたちによって矯正を受けた部屋に隣接する、特別囚用の収容室だった。オクタヴィアは、そこにある寝台に四肢を拡げて拘束されていた。
裸身を覆うものは、なにもない。身につけているのは、前後に貫かれている張形を覆っている革帯のみであり、ほかには、手首と足首に嵌められている革枷だ。
革枷は、寝台の四隅に鎖で繋がっていて、オクタヴィアの身体を四方向に引っ張っていた。
魔道枷だ。
枷を嵌められている四肢には、まったく力が入らず、まるで他人の手足であるかのように動かせない。
動かせるのは、腰と胴体、それに首から上だけだった。
張形に塗られた掻痒剤の媚薬は本物だった。
潤滑油代わりに塗られた張形の表面の油剤は、いまや熱い刃のように鋭さをもって、オクタヴィアに痒みの苦悶を加え続けている。
しかし、四肢は動かない。
腰と胴体だけは動かせる。だが、どれほど身をよじっても、手脚は寝台に拡げられたまま、ぴくりとも動かなかった。
逃れようとする意思だけが空回りし、思いどおりにならない身体への苛立ちが、オクタヴィアをいっそう追い詰めていく。
自分の身体でありながら、もはや自分のものではない。
その屈辱が、彼女の心を容赦なく蝕み、被虐の甘美感へと変わっていくような気がした。
それにしても、いつまで、こんなことが続くのだろう。
痒い──。とにかく痒い──。
限界を越えた痒みを与えられて放置されて、ついには意識を失い、苛む痒みで覚醒させられる。
もう数回それを繰り返している。だから、いまが夜中なのか、もうすぐ朝なのかさえわからなかった。
もう何度も限界を迎えたはずだった。それなのに、終わりは一向に訪れない。
そして、この苦しみが朝まで続くという事実だけが、彼女を絶望させていた。
「痒い──、ああ、痒い──助けて──お願い……」
オクタヴィアは、ついに火照った顔を左右に振りながら、再び泣きだしてしまった。
もちろん、この状態にされるとき、オクタヴィアは激しく抗議をした。
『……あんたも知っているとおり、最初の夜は、痒み責めにして朝まで放置する。絶望ってものを骨の髄まで思い知らせるための、サロンの掟だ。あんたが主任を務めたのは短い間だったけど、これまで散々、女囚たちに同じことをしてきたんだろう。今夜はあんた自身がサロンの洗礼を受ける番だ。せいぜい、その掟に殉じな』
アルジェは、そうせせら笑いながら、立ち去っていった。
しかし、オクタヴィアは知っていた。
このサロンでは、女囚を放置しているように見せかけても、実際には厳重な監視が続けられている。
だから、どれほど返事がなくとも、自分の訴えを聞いている者がいるはずなのだ。
その誰かが、せめて一度だけでも、この部屋へ来てくれれば……。
いまのオクタヴィアには、それだけが唯一の望みだった。
そのとき、居室の扉が開いた。
オクタヴィアは、はっと顔をあげた。
アルジェだった。二名の女兵を従えて、部屋へ入ってくる。
「あ、ああ、アルジェ──」
オクタヴィアは、思わず歓喜の声をあげた。
ようやく来てくれた。
なんのために現れたのかなど、考える余裕もなかった。ただ、誰かが自分の訴えを聞き届けてくれたのかもしれないという期待だけが、胸いっぱいに広がっていた。
「あら、涙ぐましいわね。そんなにあたしに会いたかったの?」
アルジェが、寝台の傍らに立って、オクタヴィアを見下ろした。
「本来でしたら、朝までじっくりと洗礼を受けていただくところですが、昨日まで主任を務めていらした方ですから、せめてもの慈悲をおかけしようと、わざわざ参りました。どうぞ、お喜びください」
アルジェの後ろに控えていた女兵のひとりが、丁寧な口調で告げた。
慈悲──。
オクタヴィアは、涙に濡れた顔を女兵へ向けた。
ようやく、この苦しみから解放してもらえるのだろうか。
その期待に、胸が高鳴った。
「ただし、条件がある。いわば、これは賄賂みたいなものだからね。あんたも知っているとおり、最初の夜は朝まで放置するのが、このサロンに収容される女囚の洗礼だ。その決まりを曲げてやるんだから、それに見合うものをもらわないとね」
アルジェが、オクタヴィアを見下ろしながら告げた。
「な、なんでもあげるわ──。だから、お願い。この痒みをなんとかして──」
オクタヴィアは、必死に訴えた。
「なんでもって言うけど、あんたも昼間見ていたとおり、私物はもう全部処分したし、財産だってサロンに没収されたのよ。いったい、なにを差し出すつもりなの?」
女兵のひとりが、揶揄するように言う。
「ああ……だって、痒いのよ……。お願いです──。もう、どうしたらいいのかわからないのよお──」
オクタヴィアは、涙に濡れた顔を歪めながら、なおも哀願を続けた。
なにを差し出せばよいのかなど、考える余裕もなかった。
とにかく、目の前にいるアルジェたちに、どうにかしてこの苦境から救い出してもらいたかった。
「なにもない女が売るものといえば、昔から身体か髪の毛と相場が決まっている。だが、あんたの身体はすでにサロンのものだし、髪の毛だって同じだ。なら、その陰毛でももらおうか」
アルジェたちは、すでになにも持っていないオクタヴィアには、身体に残っている毛ぐらいしか売るものがないだろうと笑うのだ。
「特別囚のなかでも、剃毛を済ませているのは、まあ少数派よ。元主任が自分から頼むというのであれば、それなりの価値はあるだろうってね。まあ、そういうことになってね」
オクタヴィアは、思わず顔を赤くした。
そんなことを、わざわざ自分から頼めというのか。
いくらなんでも、あまりに人を馬鹿にしている。
ほんの少し前まで、サロンの主任矯正官として女兵たちに指示を出していた自分が、今度は彼女たちに頭を下げて、剃毛してくれと頼まなければならないというのだ。
「……別に気が進まないならいいのよ。明日は……いや、もう今日だね。二日目だから、ゆっくり休んでいなさい。昼前には、また来てあげるから」
アルジェが言った。
それで、反発しかけた気持ちは、すぐに萎んでしまう。
いまの自分には、アルジェたちの申し出を拒んで、このまま昼まで待つ余裕など残されていなかった。
しかも、アルジェが女兵たちに目配せして、扉の方へ向き直る仕草をする。
オクタヴィアは、愕然とした。
「ま、待って──。アルジェ、待って──」
オクタヴィアは、必死に声をあげた。
アルジェが足を止め、振り返る。
「わ、わかったわ。わたしの股間の毛を剃って──。その代わり、この痒みをなんとかして──」
言ってしまった。
オクタヴィアは、涙に濡れた顔を横に向けた。
しかし、もう取り消すつもりはなかった。
「……いいだろう……。その代わり、尻の毛まで剃るからね。痒くてもじっとしてるんだ。剃刀で股間を血だらけにしたければ別だ」
アルジェが言って、軽く手を叩いた。
すると、部屋の扉が再び開いた。
外で待機していたらしい女兵ふたりが、剃刀や泡の入った容器、刷毛などの道具を載せた台車を押して入ってきた。