時間は流れ、お昼時を過ぎて太陽の傾きが目立ち始めた時間帯。
閑静な住宅街の一画、その曲がり角の電柱に背中を預けて、今か今かと片足をぶらぶらさせながらその時を待っていた。
「きたきた♡」
時間はぴったし、狙いすましたかのようにその人はやってきた。この時間帯に図書館へいくためここを通ることは前世の時から知っていたから、後は待ち伏せるだけで丁度良かった。
道の向こうから足取り重く近づいてくるのが聞こえてくる。それに合わせて私は電柱から背を離して、少し距離を取った。助走をつけるためだ。タイミングを見計らい、相手の影が曲がり角から影が姿を現し始めた所で一気に駆けだす。
なりふり構わずの全力疾走。躍り出た私の身体は目論見通り相手の体へと正面衝突することになった。それなりに勢いをつけてぶつかったが、やはりというか予想通りドスンってよりかはボフッって感触が返ってくる。
贅肉という名のクッションに受け止められた私に痛みはそれほどなかったが、私がぶつかって事で生まれた衝撃は、互いの体勢を崩すには十分だった。
「きゃっ!」
「おおお⁉」
返ってきた衝撃に目を閉じてしまった私は、そのまま転んでお尻を打ち付けてしまう。ここまでは予想通りだったのに、頭の先から冷たい何かが滴って全身を濡らしてくるのが分かる。お兄さんが何か飲み物を持っていたのだろう。
口元に流れてきたのを舐め取ってみると舌全体に苦みが広がり、香ばしさと甘みの奥行を感じることから、それがコーヒーだということが分かる。そういえばいつも勉強するときにはアイスコーヒーを飲みながらしていたことを今更ながら思い出して、失念してたなあとちょっと反省する。
目を開けて見上げれば、驚きで固まっているお兄さんの姿があった。少し汗の滲む赤い無地のTシャツとカーキ色の短パンを着ていて、背中には黒いリュックサックを背負っている。こでっぷりとしたお腹は日ごろの不摂生が垣間見えるが、その丸さがマスコットキャラクターみたいで可愛く思えてしまう。
このお兄ちゃんこそ私が会いに来た人物〝東雲武しののめたける〟その人だった。
懐かしさと共に当時の記憶が掘り起こされていく。私とお兄ちゃんが出会ったのもちょうど今くらいの時期だった。思えば迎え入れてくれた人は多かったが、最初に私を家族として扱ってくれたのは、お兄ちゃんが最初だった。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてて。どこもケガしてない⁉ じゃなくて、いやそれもそうなんだけどタオル! つかうよね?」
目が合うと金縛りが解けたようにお兄さんは慌てて動き始めた。おそらくぶつかった衝撃で握りつぶしてしまったのだろう、潰れてコーヒーが少し残るカップを地面に置いて、背負っていたリュックを降ろしながら矢継ぎ早に言葉を並べ立て始めた。
相変わらず土壇場とか、予想外のことに弱いんだから。でもそこで慌てたりする姿が私には、色褪せず記憶に残り続けているお兄さんの姿そのものだった。
「ちょっとじっとしてて」
リュックから取り出したタオルで私を拭いてくれるが、力加減が出来ていない。
こうして頭を拭かれるのも前世以来かとしみじみ感じ入る。スるだけシまくって、誰の目も無いうちに二人でお風呂に入っては、頭を拭くのは決まってお兄ちゃんの役目だった。厚手のタオルが押し付けられて頭がぐわんぐわんと回されるのも、前世から全く変わっていない。
自分だって少なからずコーヒーを被っているのに、自分を後回しにして私を拭くことに夢中になっている。それもそのタオルだって汗っかきの自分用なのに私に使ってしまっている。既にシャツは噴き出てくる汗で濡れていないところがないくらいに染みを広げてしまっているのにどうするつもりなんだろう。
頭に身体と一生懸命拭いてくれる姿に微笑ましさを感じてしまう。
そんなお兄ちゃんの気遣いが何も変わっていなくて、目の前にいる人が私のよく知るお兄ちゃんなんだと安心させる。
「ふぅ、こんなもんかな」
息を上げながら吹き終わったお兄ちゃんは、拭き残しが無いかを確認してひとまずはなさそうだと安心する。
「ありがとうお兄ちゃん! あ、でもお洋服汚れちゃった」
拭いてくれたことを蔑ろにするようで気が進まないが、私はこれ見よがしに服が汚れたことをアピールする。
「俺が汚しちゃったし何とかしてあげたい……コインランドリーに連れていくか? いや、でもそこで服脱いじゃったら着る物なくなっちゃうし、あー、ああ~どうしよう……」
困り果てた様子のお兄ちゃんはどうしたらいいのか分からず、頭の中で悩んでいるようだった。そうだよね、洗い物といえば洗濯機のあるコインランドリーって考える。でもそこに連れて行っても着る物がない私は全裸で居続けることになる。かといって服を買ってあげるお金も無いし、ってところだろう。
悩むお兄ちゃんに私は服の袖を引いて、助け舟を出してあげることにする。
「ねえお兄ちゃん」
「え? ああごめんねもうちょっと待ってね、今服をどうすればいいか考えてるからさ」
「お兄ちゃんのところの洗濯機、貸してよ」
「ええ⁉」
「汚れたまま帰ったら怒られちゃうもん、ね? いいでしょ?」
「えっと、そりゃそうなんだろうけど……今家にはなぁ……でも、兄貴と違って説明すれば分かってもらえるか? でも説明が面倒くさい……」
悩み続けるお兄ちゃんに私は縋るような目で訴える。小さな女の子が、怒られることを怖がって涙目で訴える。心優しいお兄ちゃんの心を動かすには、情に訴えてお願いするのが一番効果的なのだ。
思った通りお兄ちゃんは、私を濡らした罪悪感と同居人へ説明する億劫さ、その二つの間で揺れ動く複雑な表情をしていた。
本当に優しい人だ、自分用のタオルを使ってまで拭いて義理を果たしたというのに、見ず知らずの私という他人を助けるべきだと心のどこかでは考えている。はい、それじゃさようならっていなくなることもできるのに不真面目になり切れない真面目だ。
ここは容赦なくそんなお兄ちゃんの美点を突かせてもらう。
「お願い!」
「いや……」
「…………」
「うぅ……」
「お兄ちゃん……!」
「ぅ……すぅ~……はぁ、わかったよ」
にらみ合いの果て、ついに根負けしたお兄ちゃんは盛大に溜息をついて了承した。
「やった! ありがとうお兄ちゃん!」
思い通りに事が運んだそのお礼として、私はお兄ちゃんの足元に抱きついた。いくらだらしない外見でも抱きついてみるとしっかりとした筋肉があって、久々に感じる男らしさに興奮が禁じ得なさそうだ。
「おいバカ離れろって!」
そう言って満更でもないことは顔を見ればすぐにわかる。頬は赤面し、口元がわずかに笑っていることから明らかだった。
からかうのもこれくらいにしておこう、このまま抱きついていたら恥ずかしがっていて、何時になってもお兄ちゃんの家に行けない。私は抱きついていた身体を離して、お兄ちゃんを先導するように歩き出した。
「ほら早く行こう!」
呆気に取られていたお兄ちゃんもすぐに正気に戻って、私の後を追おうとするが、地面にカップを置いたままなことに気が付いて戻り、回収してから横並びになった。
「先に行ったら俺の家がわからないだろ」
「お兄ちゃん向こうから来たでしょ? だったらお家も向こうなのかなって、あってた?」
「あってるけど……もう駆け出すのはやめておけよ。またぶつかって痛い思いするのも嫌だろ?」
「その時はお兄ちゃんに看病してもらおうかな」
「はいはい。それよりお前の家ってここらへんなの?」
「違うよ。電車に乗ってずーっと遠くから来たの」
「そうか……勉強するはずだったのに何してんだろ俺……」
お兄ちゃんの言葉は聞こえなかった振りをして、私達はお兄ちゃんの家へと向かった。
◇
緊張した赴きで玄関ドアを開けたお兄ちゃんは、玄関に並べられた靴の様子を見て露骨に安堵していた。
「誰もいない……買い物にでもいったのかな? 入っていいよ」
「おじゃましまーす」
お兄ちゃんの後に続いて私も家の中へ入っていく。
他人の家の匂い、それがこの家に対して私が思う最も適切な表現。
「ちょっと勝手に行くなって!」
靴ひもが絡まって脱ぐのに苦戦しているお兄ちゃんの横を通って、私は前世の記憶と同じように帰宅する。
「ふふっ」
まがりなりにも住んでいた場所なのに、なんの感傷も湧いてこないことに思わず笑ってしまう。
今が前世でいうところの過去である以上、当然ながらここは私の帰るべき家じゃない。けどそれは前世であっても同じようなものだった。
物であれば使っていく内に愛着が湧くなんてこともあったかもしれない。そういう意味では、私は何度もこの玄関から出入りしていたし。トイレも、食卓も皆で囲み利用していたし、自分の部屋だってあった。
出かける度にいってきますを言った。帰宅したらただいまというのが当たり前だと思っていた。いただきます、ごちそうさまでした、ありがとう、他愛の無い当たり前の挨拶。食卓を囲めばその日にあったことを報告しない日も無かった。
自覚は無かったけれど、その時の私はただ子供なりにこの家に馴染もうとしていただけだった。
ただそうした挨拶を口にする数だけ反比例するかのように返ってくる言葉は少なかった。そこに悲観はなかった。かくゆう私も私で特段気にしていなかったのもあったからだ。
小さい頃は理解できなかったが、大人になって初めて私は疎まれていたんだと気づけた。だから馴染めなくて当然だったのだ。だってここの家主は私を疎んでいて、心から迎え入れようだなんて思っていなかったのだから。
それに気づかず子供の頃の私は健気にも努力をしていた。何も分からないなりに他人の家の匂いのする場所を、自分の帰る家にしようとしていた。
結局、最後までこの家は私にとって他人の匂いのする家のままだった。
廊下は奥へと続き、突き当たった所で廊下は左へと伸びている。その廊下に沿って私は進み、左へ曲がって直ぐ右側にある木製の真ん中にスモークガラスで意匠が施された扉の前で立ち止まった。後ろからなにやら騒いでいる声が届いてくるが、無視してレバー型のドアノブを押し込み扉を開けた。
開けるとすぐ他人の家の匂いで満ちていた廊下が、嗅ぎなれた我が家の匂いへと移り変わっていく。鼻孔を伝って去来する感慨深さが、帰ってきたんだと私に確信させる。
時間にして何十年ぶりになるのだろうか。世界のどこにも居場所がなかった自分を最初に受け入れてくれた人、そしてその人が本当の意味で迎え入れてくれた、私にとって帰るべき家だと思えた最初の場所。
「すぅ~……はぁー、ただいま」
部屋に向かってただ一言、後ろのお兄ちゃんに聞こえない声量で呟いた。
匂いが薄いことを除けば記憶にある部屋とそう変わりはない。
その部屋はまるでジャングルのようだ、家主の男がお兄ちゃんに向かって言い放っていた数ある言葉の中でもっとも優しい部類の表現、と語っていたのを覚えている。
鬱蒼で鬱然としている、さながらコンクリートジャングルに自然発生したジャングルだと。カーテンで閉め切った部屋は確かに薄暗く、光のほとんどは入ってこない。それでいて換気の一切をしないから、淀んだ空気が滞留して蒸れた独特な匂いとなって酷いことになっていると言いたいのかもしれない。
家主の八つ当たり的な振舞いはお兄ちゃんへ度々あったらしい。まるで小姑のようだと二人でお風呂に入った時に愚痴っていたが、もれなく気絶する私が知る由もない話ではあった。
私から言わせれば淀んでいるだなんて全然そんなことは無い。むしろ純然たるお兄ちゃんの部屋って感じがして好感が持てるくらいだ。
部屋の中に入り、改めて部屋の中を見渡す。
漫画本や勉強に使用する参考書が入った本棚、私はよく知らないけれどお兄ちゃんは熱く語っていた玩具のフィギアが大切に保管されている鑑賞棚。勉強机にテレビ、ベッド、小さな冷蔵庫とクローゼット、自室としては調度品が揃った部屋模様で整理整頓がある程度は行き届いていると言えた。
そんな一見して整理整頓されている部屋だが、所々で面倒臭がり屋の部分が垣間見えてしまう。ベッドメイキングされずぐしゃぐしゃのままなベッド、参考書が開いて放置されている机の上、使ってそのままのゲームコントローラーにスリープ中のゲーム、ゴミ箱に積み重なって捨てられずそのままのコキ捨てオナティッシュ。オナティッシュに関しては、この部屋の鬱然として咽返りそうな雰囲気に一役買っているといえよう。
凡そ六畳間の元は物置部屋だった小さな空間、そこが前世から変わらないお兄ちゃんの部屋で、私が毎日のように入り浸っていた本当の意味での帰るべき家だった。
「そこは俺の部屋だから。とにかく出て行けって!」
追いついてきたお兄ちゃんが私の手を取って部屋から引きはがそうとするので、その手を私はひらりと身を翻すように躱して、そのまま廊下に出る。
「あ! おいお前!」
「ふふふっ、洗濯機借りるねお兄ちゃん!」
何か言いたげなお兄ちゃんをその場に残すように駆けだす。もちろん洗濯機の場所は既に分かっている。お兄ちゃんの部屋から出て、そのまま廊下を進み階段のすぐ横にある部屋の中に設置されている。
ドアを開けて脱衣所に入ったら、してやったりな表情で振り返って、お兄ちゃんの様子を見てみる。何か言いたげなのは変わらず、まったく解けない問題を前にしたときと同じ困惑した表情でこちらを見つめていた。
「使い方は大丈夫。家で同じの使ってるから」
「…………そ、そうか? じゃあ俺は部屋で待ってるから」
どこか腑に落ちていない雰囲気でお兄ちゃんは自分の部屋へと入っていった。
それも仕方がない。自分の思惑から悉く外れる子供を前にすれば、理解できないって困惑もするだろう。私だってするかもしれない。前世を含めて子供はいなかったが、関りが無かったわけじゃない。その度に何を考えているか分からない存在に困らされたことは数多かったけど、酷く愛らしくて、可愛く保護欲がそそられるって思ったものだ。
お兄ちゃんがそこまで感じたかは分からない。
お兄ちゃんの事だからむしろ純粋に困惑だけしてそうだ。それはそれで振り回し甲斐がある。
「そうだ良い事思いついちゃった♡」
気になるあの子にちょっかいをかけたくなる子供心は、乙女にだって適用される。愛しい人の困った可愛い顔を見たい、そんな気持ちが私の中で顔をもたげてきた。
それに本来の目的の事を考えれば都合がいいかもしれない。上手く運べば、お兄ちゃんの本音も聞きやすくなる。
さっそく私は悪戯のために服を脱ぎだす。
染みがついたワンピースが洗濯機の中へ軽い布切れの音を立てながら放り込まれ、ブラジャー、パンティーと続けて積み重なっていく。
上のラックから洗剤と柔軟剤を取り出して、適量を振りかけて洗濯機のスイッチを入れる。一回、二回とドラムが回る重厚感ある音が鳴り、水が出て溜まり始める。後は待つだけで良い。
外気が直接肌に触れるこの感覚。日中、それも他人の家でする露出に清々しいほどの開放感が、私の興奮を高めた。