復旧したばかりのアスファルトの道を、総重量二十トンの日野プロフィアが猛烈なスピードで北上していた。
ハンドルを握る美希の呼吸は、朝の冷たい空気を吸い込んでもなお、浅く乱れていた。サイドガラスに微かに映る自分の顔を直視することができない。
五十八歳の年嵩の女の顔はそこにはない。そこにいるのは、肌に張りと艶を取り戻した五十歳の自分だった。
三十年以上封印してきた狗神の呪いは、完全に目覚めてしまった。
野上の若さを貪ってしまったという罪悪感と、自分の意志の弱さに発狂しそうになっていた。だがそれ以上に美希を絶望させていたのは、自らの肉体の奥底——昨夜、野上に開拓された最も深い轍の奥で、未だに狂おしい熱が燻り続けていることだった。
(駄目よ……これ以上、あの男に関わっては駄目……!)
頭ではそう叫んでいるのに、腹の底で渦巻く血は、野上の不器用な手つきを、重い身体の感触を、泥と煙草の匂いを鮮明に記憶し、歓喜の余韻に打ち震えている。逃げなければ彼を殺してしまうと理性が悲鳴を上げる一方で、雌としての本能は「もっとあの男を寄越せ」と飢えた獣のように牙を剥いていた。
気仙沼の港に近い、広大なトラックステーション。
美希はたまらず駐車場にプロフィアを滑り込ませ、エンジンを切った。ハンドルに突っ伏し、激しい自己嫌悪と身体の疼きに震えていると、不意に、運転席のドアの外から足音が近づいてきた。
ザッ、ズッ……。
左脚を、重く引きずるような不規則な足音。
美希の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。まさか。
美希は弾かれたように顔を上げ、サイドミラーを凝視した。そこには、息を切らし、鬼気迫る表情で美希のトラックを見上げる野上の姿があった。
彼は今日、茨城へ帰るはずの車を反転させ、開通したばかりの道を飛ばし、青いラインの入った白銀の車体を執念で追いかけてきたのだ。
「開けてくれ! なぜ、何も言わずに消えたんだ!」
野上が分厚いドアの鉄板をバンバンと叩く。
美希はパニックに陥った。五十歳に若返ってしまったこの顔を彼に見られるわけにはいかない。美希は咄嗟にジャンパーの襟を立てて顔を隠し、窓を数センチだけ下げて、低く冷たい声を作った。
「……帰って。あなたとは、昨夜で終わりよ。もう二度と私の領域に踏み込まないで」
わざと冷酷に突き放す声。だが、その声を聞いた瞬間、野上はドアを叩く手を止め、窓の隙間から見える美希の両眼を真っ直ぐに射抜いた。
襟で口元を隠し、若返った肌を隠そうとも、その瞳の奥にある深く澄んだ孤独と、拒絶の色だけは隠しようがなかった。野上は土木屋としての鋭い観察眼で、彼女の纏う空気が昨日までのそれとは明らかに異なっていること、得体の知れない輝きを放っていることに気づいた。
「……何を抱え込んでるかは知らないが」
野上は窓の隙間に指をかけ、痛む左脚で踏ん張りながら、絞り出すように言った。
「俺は、あんたの声と、その目を知ってる。……あんたもそうだろ? 降りてきてくれ、美希さん!」
美希さん。
彼が呼んだその名前に、美希の胸の奥で何かが壊れた。
逃げろ、逃げろ。茨城へ帰ってくれ。
理性がそう命じるのに、彼が自分を見つけ出してくれたこと、一夜のうちに異様な若さを纏った自分を前にしても、変わらず「美希」と呼んでくれたことに、全身の血が歓喜の悲鳴を上げた。
下腹部から脳天へ突き抜けるような、熱い疼き。身体中の細胞が、あの男を内側の最も深い淵へと引きずり込みたいと暴れ狂っている。美希は自分の意志とは無関係に、震える手でドアのロックを解除してしまっていた。
バリッ、と密着していたゴムが離れる音がして、分厚い鉄のドアが開く。
真昼の眩しい海から吹き付ける暖かな風の中、美希は襟を下ろし、五十歳へと若返った生々しい素顔を野上の前に晒した。抗えぬ血の欲動に敗北した、惨めで、狂おしい雌の顔をして。
(第十話へ続く)