気仙沼の海風が吹き込むプロフィアのキャビンの中へ、野上は痛む左脚を引きずりながらよじ登った。
彼が助手席に尻を滑らせ、バンッ、と重い音を立ててドアを閉めると、外界の喧騒は鉄とガラスによって遮られ、そこは完全な密室となった。
野上は息を呑んだ。
車内に差し込む光に照らし出された美希の顔は、昨日までのそれとは決定的に違っていた。深く刻まれていたはずの年齢の影が消え、恐ろしいほどの妖艶さがそこにあった。化粧気がないのは同じだったが、彼女は間違いなく若い肉体へと逆行している。
普通の男なら、美希の変化を前にして気味悪がるだろう。だが野上は、ただ静かに、戸惑いの見える女の目を見つめた。
「……触らないで」
野上が頬に手を伸ばそうとした瞬間、美希はそれを鋭く制した。
彼女は震える手でキャビンの遮光カーテンを隙間なく引き、車内を薄暗い密室へと変えた。そして、運転席の後ろにある、仮眠用のベッドスペースへと後ずさった。
そこは、彼女が外界のすべてから身を隠し、一人で息を潜めてきた絶対の聖域だった。
「この私を見たでしょう。これが……私の正体よ」
美希は暗がりの中で、自らを抱きしめるように肩を震わせた。
「私は、普通の人間じゃない。四国の山奥で、代々『狗神』を憑かせてきた呪われた血筋。誰かを激しく憎めば、この呪われた血が勝手に相手を破滅させてしまう。そして、男と交われば……その生気を貪り、肉体が若返ってしまう化け物なのよ」
野上は無言で彼女の言葉に耳を傾けていた。
「三十二年前……私は、逃れられない血に囚われ、狂ったように一人の男を求めた。そして、交わった。歳が十五も離れていたのに、どうしても抗えなかった。……相手は……実の息子だったわ」
美希の目から、涙が零れ落ちた。
「彼と交わり若返っていく私を恐れた村人は、彼を、あの子を……私の目の前で、撃ち殺した。私はあの子の命を吸い取って若返り、一人だけ生き残ってしまった。……だから逃げた。二度と男を近づけないために。この鉄の箱に引きこもって。普通に老いて死ぬために」
美希は顔を覆い、獣のような低い嗚咽を漏らした。
「昨夜、あなたに抱かれたことで、呪いが完全に目を覚ましたわ。私の身体は、今も狂ったようにあなたを求めて暴れてる。もしこのまま私を抱けば、私はあなたの命を吸い尽くして、また昔の自分に戻ってしまう。……お願いだから、帰って。私を一人にして」
沈黙が落ちた。
薄暗いキャビンの中、野上はゆっくりと身を乗り出し、美希のいる狭いベッドスペースへと入り込んだ。逃げようとする彼女の肩を、大きく無骨な両手が力強く、しかしひどく優しく包み込む。
「……俺は、自分の造った壁が崩れ落ちるのを見た。自分の左脚が使い物にならなくなるのも見た」
野上の低い声が、美希の耳元で静かに響いた。
「俺は、とうの昔に百パーセントで生きることを諦めた、ただの壊れた男だ。茨城の片隅で、誰にも見られないように息を潜めて生きてきた。……あんたと同じなんだよ、美希さん」
野上は、美希の頬を伝う涙を指の腹で拭った。
「あんたのその呪いも、俺の脚の醜い引き攣れも、過去が遺したただの傷だ。あんたが化け物だっていうなら、俺の残り半分の人生を全部吸い取ってくれ。……あんたのその孤独な冷たさを温められるなら、本望だ」
その不器用で真っ直ぐな言葉が、美希の崩れかけていた結界を、内側の最も深い場所から完全に打ち砕いた。
もう、理性の声は届かなかった。美希は野上の首に腕を回し、すがりつくようにその唇を求めた。女の前歯が男の歯にカチリとぶつかる。
狭く、薄暗いトラックのベッドの上。
そこは、彼女が過去の亡霊とともに一人でなぞり続けてきた、暗く冷たい慰めの場所だった。しかし今、そこに野上の重い身体が沈み込み、彼女の奥深くへと熱を打ち込んでくる。
美希の肉体は歓喜に打ち震え、自ら野上を絡め取るように激しく腰を跳ね上げた。恐ろしいほどの血の沸騰。五十八歳の恥じらいも、五十歳の戸惑いも、すべてが快楽の波に飲まれて白く溶けていく。野上の汗の匂いと、泥の匂い。
外の冷たい風を押し返すかのように、二つの傷だらけの魂が、互いの欠落を埋め合わせるように、貪欲に、そして泣きたくなるほど激しく交わり続けた。
今の二人には、この先の二人に訪れる運命など知る由もなかった。
(第二部 完 第三部へ続く)