第十一話:松島の波光、三十二年ぶりの助手席
気仙沼の空を三月初めの澄んだ朝日が白く染め上げていく。
プロフィアの薄暗いキャビンの中。カーテンの隙間から差し込む光がベッドスペースでまどろむ美希を柔らかく照らし出していた。
「……野上?」
美希は寝ぼけ眼で手を伸ばし、野上の気配を探した。
隣にあるはずの男の温もりはなかった。代わりにベッドのすぐ外の助手席に、野上の影があった。彼はすでにシャツを羽織り、シートの上でフロントガラス越しに広がる白波が煌めく海を見ていた。美希が目覚めたことに気が付くと、彼は体をひねるようにして、ベッドに横たわる美希に向き直った。
美希はゆっくりと目を開けた。彼の顔を見た瞬間、昨夜の狂おしいほどの記憶が蘇り、美希の胸の奥で甘い疼きが走った。
毛布からすべり出た自分の腕を見る。
白く、張りがあり、瑞々しい。五十歳の皺も、長年の過酷な労働で刻まれた深い節くれも消え失せている。髪には腰と艶が戻り、目立っていた白髪も今は無い。四十二歳。女として最も成熟し、美しい季節の肉体がそこにあった。
「……起きたのか」
かすれた低い声。美希を見つめるその無骨な男の瞳に、明らかな動揺と、隠しきれない歓喜の光が揺れている。
「……またこんなに変わって、気味が悪いでしょう」
美希がシーツで素肌を隠しながら目を伏せると、野上は無言で手を伸ばし、彼女の頬を不器用に包み込んだ。
「綺麗だ……見惚れてただけさ」
たったそれだけの言葉が、美希の心に張り詰めていた数十年分の氷を溶かしていく。
「俺の仕事は終わった。あんたも今日、荷物を無事に届け終わる。……美希さん、そのあと松島へ行かないか。一泊だけでいい」
野上の唐突な誘い。いつもなら「無理よ」と笑い飛ばしていただろう。だが、今の美希は、ただ静かに頷いていた。
気仙沼の車庫に巨大なプロフィアを停め、美希は野上のフォレスターの助手席に乗り込んだ。
ドアが閉まり、エンジンがかかる。男の運転する車の助手席に座るのは、三十二年ぶりだった。いつも自分が握っていた巨大なハンドルはなく、ただ流れる景色と、隣で運転する野上の横顔がある。
(ああ……誰かに運ばれるって、こんなに安心するものだったのね)
不意に涙がこぼれそうになり、美希は慌てて窓の外へ顔を向けた。
だが、幸福感に浸る一方で、強烈な羞恥心が美希を襲っていた。車の窓ガラスに映る自分は四十二歳の艶やかな女の顔をしているのに、着ているのは汗の匂いが染み付いた無骨な作業着なのだ。
「野上さん、……お願いがあるの」
「なに?」
「このままじゃ、ダメ……。あなたの隣を歩けない。……服を、買わせて」
松島へ向かう道すがら、二人は立ち寄ったショッピングモールで車を降りた。
野上もラフな私服姿とはいえ、男のそれは様になる。だが美希はたまらず、婦人服のブティックへと駆け込んだ。
・
「……お待たせ」
一時間後。店から出てきた美希を見て、入り口で待っていた野上は完全に言葉を失った。
作業着を脱ぎ捨てた美希が纏っていたのは、上質なネイビーのワンピースと、その肩から無造作に羽織られたシックなグレージュのトレンチコートだった。足元には三十年ぶりに履く低いヒールの黒のパンプス。薄く引いたローズピンクの口紅が、彼女の凛とした顔立ちに息を呑むような大人の色香を与えていた。
「似合ってる……かな?」
霧が晴れたような透き通った声。照れ隠しに視線を逸らす美希に、野上は短く息を吐き、ただ一言だけ呟いた。
「……連れて歩くのが怖くなるぐらい、美しいよ」
昼下がりの松島海岸は、春の陽気に誘われた観光客で賑わっていた。
四十歳の野上と、四十二歳の美希。完璧に釣り合いの取れた二人は、まるで長年連れ添った夫婦か、あるいは遅れてきた新婚旅行を楽しむ恋人同士のように見えた。
暖かく柔らかな風に吹かれながら、二人は遊覧船乗り場の近くを歩いた。
店先から漂う磯の香りに誘われ、焼きたての牡蠣を頬張る。
「熱っ……」
「そりゃ、焼きたてだからな」
少しむせる美希に、野上が苦笑しながら紙おしぼりを渡す。笹かまぼこを半分に割って分け合い、海の見える喫茶店で温かいお茶を飲んだ。
手を繋ぐわけでも、甘い言葉を囁き合うわけでもない。ただ隣に歩幅を合わせて歩く。たったそれだけのことが、過酷な轍を走り続けてきた二人にとっては奇跡のように幸福な時間だった。
美希は時折、隣を歩く野上の横顔を盗み見た。この穏やかな時間が永遠に続けばいい。下腹部に巣食う呪いの存在すら忘れてしまうほど、心は春の光に満ちていた。
夕刻、午後四時。
二人は、海沿いに建つホテルのフロントで鍵を受け取った。
案内された部屋は、大きな窓から松島の島々を一望できる素晴らしい和室だった。夕日を受けて黄金色に輝く水面が、部屋の壁を淡く染めている。
ドアが閉まり、二人はようやく外界から切り離された。
古いモーテルやプロフィアの狭いキャビンとは違う、広くて清潔な畳の部屋。波の音だけが静かに響く中、野上がゆっくりと美希に近づいてくる。
美希は、新調したコートをそっと脱ぎ捨てた。
数十年ぶりの、本当の女としての夜が、静かに始まろうとしていた。
(第十二話へ続く)