松島の夜は、不思議なほどに静まり返っていた。
風は完全に凪ぎ、海面を揺らしていた波すらも、今は息を潜めたようにぴたりと止んでいる。
雲一つない夜空には、三月初旬の冷たく澄んだ満月が浮かんでいた。その青白い圧倒的な光が、鏡のように凪いだ暗い海面をくっきりと照らし出している。
温泉で汗を落とした二人は、明るい照明の点いた和室の広縁で、月光に照らされた無音の海を見つめていた。
美希はただ無言で、向いに座る野上の横顔を見つめていた。無骨な輪郭、左眉の上の小さな傷。彼女の視線は、今この瞬間の男のすべてを、自らの網膜の奥底へ刻み込もうとするかのように、ひどく切羽詰まった熱を帯びていた。
野上が煙草を揉み消し、立ち上がろうとした時だった。
美希もまた静かに立ち上がり、真正面から彼と向かい合った。そして、射抜くような、しかし哀願するような瞳で、直立する彼を見上げた。
「……裸を、見せて」
野上は小さく息を呑んだが、彼女の帯びているただならぬ気配に何かを察したのか、無言のまま真っ直ぐに立ち尽くした。美希は自らの浴衣の衿を合わせたまま、少し震える指先で野上の帯に手をかけた。
シュルリと帯が解け、浴衣が足元へと滑り落ちる。現れた四十歳の男の、厚い胸板と全裸の身体。野上は抵抗せず、美希のしたいように完全に自らの身を委ねていた。
美希は立ち姿勢のまま、両掌で野上の髪の毛にそっと触れた。
硬い髪の感触を指先で確かめ、彼の顔の輪郭をゆっくりとなぞる。頬のざらつき、額の皺。そして、自らの唇を彼の唇へと優しく重ねた。深く、確かめるような口づけ。
そこから、美希の顔はゆっくりと下へと向かっていった。
男の太い首筋、現場で陽に焼けた鎖骨。そこに唇を押し当て、微かに残る煙草と汗の匂いを、肺の底が痛むほどに深く吸い込む。
三十年以上、暗闇のキャビンで孤独に自分を慰めてきた過去の幻影を、今夜、目の前の男の確かな匂いと熱で完全に上書きする。これからの果てしない孤独の夜、ただ一人で生き抜くための拠り所となる記憶をかき集めるための、切実で濃密な儀式だった。
美希は浴衣姿のまま少しずつ膝を折り、身を沈めていく。
野上の広くて厚い肩と背中、胸の上の硬い乳首、引き締まった腹の筋肉、そしてへそのくぼみ。その一つ一つに執拗なまでに唇と舌を這わせ、彼の体温と肌を自らの粘膜に焼き付けていく。
「……っ、美希さん……」
野上の喉から、堪えきれないような深い吐息が漏れる。
やがて、美希は完全に畳に膝をついた。目の前には野上の左脚の手術痕があった。腿から膝にかけて、赤い蛇が地を這った跡のような長く醜い引き攣れが明かりの下で生々しく浮かび上がっている。それは、彼が過酷な現世を這いずり、生き抜いてきた証だった。
美希はその盛り上がった皮膚の感触を指先でそっと確かめ、その硬い痕跡に自らの柔らかい唇を寄せた。
唇を押し付け、舌を這わせ、傷のひだの一つ一つに、自らの体温と匂いを焼き付けていく。彼女の唇と舌は、その醜い過去の傷跡を世界で最も尊いもののように慈しんだ。
美希はそのすぐ隣の、雄として熱く猛りきった下腹部へと視線を移した。美希は生命力に満ちた男の昂ぶりを両手で包み込み、自らの唇の中へとゆっくりと迎え入れた。
息もつけないほどの貪欲さ。舌を絡ませ、吸い上げ、彼の中に満ちている生の痛みと熱量を一滴残らず自らの胎内へ引き摺り込もうとする狂気的なまでの熱情。直立したままの野上は天井を仰ぎ、美希の与える圧倒的な快楽と切実な奉仕に身をよじらせた。
しかし、美希のその切羽詰まった愛撫が限界を超えた時、野上の中で理性の糸が完全に焼き切れた。
「……もう、いい」
野上は荒い息を吐きながら、足元に跪く美希の肩を力強く掴んで引き起こした。そのまま彼女の身体を畳の上へと押し倒し、今度は野上が美希の浴衣を乱暴に剥ぎ取った。
四十二歳の凄艶な女の肉体が、明るい光の下に露わになる。生命力に満ちた白く長い脚、餅のような艶のある尻、そして、小さな胸の先に硬く尖る二つの乳首。
野上の太い腕が美希の細い腰を強く抱え、彼女の最も熱い深淵へ、容赦なくその身を打ち込んできた。
「あああっ……!」
美希の口から、悲鳴のような甘い喘ぎが弾けた。
荒ぶる本能のぶつかり合いだった。四十歳の男と、四十二歳の女。互いの過去の傷跡を力ずくで抉り、埋め合わせるような、濃密で、荒々しい、本能剥き出しの交わり。
野上も美希の全てを愛するように、張りを取り戻した乳房の先端を口に含む。耳の深淵を舌でなぞり、首筋を吸い上げて自分の女としての赤い印を付ける。
「もう、しゃべらなくていい」
野上は美希の少し開いた唇に自らの口を重ねて封印した。女の口元から覗く真珠のような白い歯。漏れ出る吐息ごと飲み込むように、彼は激しく舌を絡ませた。
痛いほどの律動に合わせて、美希は野上の背中に爪を立て、狂ったように彼の腰に長い脚を絡ませた。絶頂の波が足元から這い上がってきた時、美希は涙でぐしゃぐしゃになった顔で野上を見上げ、無意識のうちに悲痛な声を漏らしていた。
「……愛してっ……!」
美希は野上の背中に回した細い腕に、渾身の力を込めた。
「全部、ちょうだい……。あなたの匂いも、熱も……一つも残さず、私に……。だから、あなたも……今の私を……!」
——どうか、この一番美しい私を忘れないで。
直接的な言葉にはならないその慟哭に呼応するように、野上は獣のような雄叫びを上げ、美希の身体の最も深い場所へと自らの命の熱をすべて吐き出した。
二人は文字通り、骨の髄まで溶け合うような深い快楽と疲労の底へと、絡み合ったまま沈んでいった。
窓の外では、満月が静かに海面を照らし、穏やかな波の音が、寄り添って眠る二人を優しく包み込んでいた。
(第十三話へ続く)