遊覧船のデッキを叩く海風は、春の日差しとは裏腹に刃物のように鋭く冷たかった。
三十四歳の瑞々しい肌を震わせながら、美希はトレンチコートの襟をかき合わせた。二人は手摺りにしがみつくようにして海面を見下ろしていた。巨大な船体が鉛色の波を容赦なく切り裂き、真っ白な航跡を後方へと長く曳いていく。
「すごいな、あの島の削られ方は。何千年もこうして波に洗われてきたんだろうな」
隣で野上が、少年のように目を輝かせながら声を上げる。
だが、美希の耳に彼の声は届いていなかった。
(どうしてそんなに笑顔でいられるの……)
無邪気に笑う彼の横顔を見るたび、今朝の光景が刃のように美希の胸を抉ってくる。
ホテルで目を覚ました時の、野上のあの純粋な瞳が脳裏から離れないのだ。
男を長年苛んできた左脚の古傷は、まるで美希がその痛みを吸い取ってしまったかのように嘘のように静まっていた。昨夜の交わりは彼に癒やしを与えた一方で、美希の肉体は四十二歳から三十四歳へとさらに恐ろしい逆行を遂げていた。
洗面所の鏡を見た瞬間、美希は悲鳴を上げそうになる口を必死で押さえた。
三十四歳。それはかつて故郷で、実の息子である晃と激しく抱き合い、一族を破滅へと導いた、最も業の深い忌まわしい全盛期の肉体だった。骨の髄まで溶け合うような昨夜の至福の時間は、野上を癒やしたのではない。彼の精気を吸い上げ、狗神が自分を若き女へと引き戻すためのおぞましい儀式だったのだ。
自分の恐ろしい呪いに震え、絶望する美希に対し、野上は恐怖するどころか「本当に、綺麗だよ」と、世界で最も美しいものを見つけたかのような歓喜で彼女を称賛した。
その真っ直ぐすぎる愛情が、美希には何よりも苦しかった。その瞬間、美希は完全に理解したのだ。この優しすぎる土のような男は、私がどれほど化け物になろうとも決して手放そうとはしない。だからこそ、私から断ち切らなければ、彼はこの呪いに巻き込まれていずれ他の男達と同じように死んでしまうのではないかと――。
ザバーッン!――、ドォーン!
船体が波を割り開き、切り立った松島の島々に波が激突する重い響きが、美希の意識を現在へと引き戻す。
岩肌にぶつかっては砕け散る、暴力的なまでの白波。その激しい飛沫を浴びた瞬間、美希の脳裏に、もう一つの記憶が鮮烈に蘇った。
燃え盛る故郷を背にし、逃げるようにして乗り込んだバスの窓から見た、狂ったような鳴門の渦潮。
(鳴門の渦潮で、洗われて、叩かれて、……私は、まっさらになるんだ)
三十二年前、潮騒の中で自分自身に誓った言葉が、白波に混じって美希の中で木霊した。
「美希さん、風が冷たいよ。中に入ろうか」
野上が気遣うように声をかけ、美希の肩にそっと手を添えようとする。美希はビクッと肩を震わせ、その温もりから逃げるように、わざとらしく一歩横へ身を引いた。
「……そうね」
乾いた返事しかできなかった。空気を切るような冷たい風だけが二人の間に生まれたわずかな距離をすり抜けていく。
今朝方、島巡りの船に乗ってからというもの、美希は様子がおかしかった。
瑞巌寺の境内に入り、樹齢数百年の紅白の臥龍梅が咲く参道を歩いている時も、隣接する円通院の石庭を眺めている時も、美希は口を閉ざしたまま、ただ虚空を見つめているようだった。
やがて二人は、苔むした静寂の奥にある縁結び観音の前に辿り着いた。
そこでは、春めいた装いの若い男女が身を寄せ合うようにして小さな木製のこけしに筆を走らせていた。言葉こそ聞こえないが、互いを見つめ合うはにかんだ笑顔が、その先の長い未来を無邪気に信じ切っていることを残酷なほど物語っていた。彼らはこけしを奉納所に納め、指を絡ませて歩き去っていく。
野上はその後ろ姿を少し眩しそうに見送ると、ふと美希を振り返った。
「僕たちも、あれ、書いていこうか」
野上の瞳には、一抹の期待と、柄にもない照れが混じっていた。
美希はコートのポケットの中で、自身の拳を爪が食い込むほど強く握りしめた。
「……やめましょう。こんな齢で、恥ずかしいわ」
わざと冷たく響くように声のトーンを落とし、冷徹に首を横に振る。
野上は一瞬寂しそうな表情を浮かべたが、差し出しかけた手をゆっくりと下ろした。
「……そうだね。ごめん、ちょっと子供っぽかったな」
野上はそれ以上無理強いはせず、そのまま観音像に向き直り、何かを祈るように静かに目を閉じて手を合わせた。その広く温かい背中を見つめながら、美希は泣き出したい衝動を必死に堪えていた。
二人は山門近くの料亭で昼食を済ませると、駐車場に停めてあった野上のフォレスターに乗り込んだ。
目的地は、美希のプロフィアが待つ気仙沼。二人の旅の終わりだった。
三陸沿岸道路を北上する車内には、重く息苦しい沈黙が満ちていた。
野上は助手席で固く口を閉ざす美希の横顔をチラリと窺った。野上自身は、この二日間で二人の距離が決定的に縮まったと信じている。だからこそ、この沈黙もただの旅の疲れだろうと解釈し、空気を和らげようと努めて明るい声を出した。
「美希さん。ずっと聞きたかったんだけどさ。……トラックに乗る前は、何をしていたの?」
彼のその優しさは、美希の抱える絶望とは残酷なほどすれ違っていた。
本来なら、美希が絶対に触れられたくなかった過去だ。だが、彼と並んで座るのもこれが最後だと思うと、不思議と隠す気にはなれなかった。美希は窓の外を流れる海岸線を眺めながら、ぽつりと答えた。
「……土佐和紙を、漉いていたわ。故郷の高知で」
「和紙?」
「ええ。真冬の凍るような冷たい水に手を入れてね。楮の皮を何度も水の中で洗い流して、木の棒で叩き潰すの。不純物や汚れを、全部徹底的に取り除いて……純白の繊維だけを残すように」
美希は自分の細く澄んだ指先を、遠くを見るような目をして見つめた。
「そこにトロロアオイを混ぜて、土佐の清流で漉き上げるの。二つの違う植物が一つに溶け合うことで、和紙は何百年も破れないくらい、強靭になるのよ。……四国を出る時、私もそうなりたいと思った。過去の泥を全部洗い流して、真っ白な一枚の和紙になって、誰にも頼らず一人で生きて行くんだって」
三十二年、トラックの暗いキャビンの中に自分を閉じ込めてきた壮絶な孤独の告白。
野上は前を向いたまま、無言でハンドルを握っていた。やがて、彼は左手を伸ばし、膝の上で固く結ばれていた美希の手を、自らの掌で包み込んだ。
「移住してから知ったんだけどさ……茨城にも三百年以上続く、西ノ内紙というのがあるみたいだよ。今度一緒に見に行ってみるかい?」
野上の厚い掌は、火のように温かかった。美希はその問いかけが耳に入っていないかのように沈黙していた。
「美希さんの手は温かいな。健康な血が通ってる。……あんたが漉いた和紙もきっと……とても温かいんだろうな」
美希はハッとして、野上の手を振り払うように身を引いた。
不意に手を払われ、野上は少し戸惑ったように視線を落とした。だが、すぐに気を取り直すように、前を向いたまま穏やかな声で尋ねた。
「……美希さん。気仙沼に戻ったら、その後どうするつもりだい?」
それは、この先も自分と一緒に茨城へ来てほしいという、彼の不器用なプロポーズへの探りだった。
「地震で崩れた道は、大方開通したらしい。俺の直していた道も……。俺はまた茨城に帰る。だから……、」
「走るわ」
美希は、野上の言葉を遮るように、しかしひどく静かな声で言った。
「あなたが、泥だらけになって直してくれた道。……私はそこを通って、そのまま南へ走るわ。また、荷物を運ぶ」
野上は何も答えなかった。ただ、ハンドルを握る手に力がこもり、一瞬だけ強く奥歯を噛み締めたのが横顔から分かった。塞がれた道を直した自分の仕事が、愛する女を引き離す道となってしまったという残酷な現実に耐えるように。
今までのように孤独で強くありたいと願う自分と、野上の温もりにずっと甘えたいと叫ぶ自分がいる。だが、サイドミラーに映る三十四歳の忌まわしい自分の顔が、美希に冷徹な別離を突きつける。
美希は、気仙沼へと続く真っ直ぐな道の先を、ただ静かに見つめていた。
その轍の上を鋭く冷たい海風が吹き抜けていく。
風は、美希を孤独へと連れ戻すように、あるいは決して逃がすまいとするように、荒々しく渦巻いていた。
(第十四話へ続く)