美希が「再び走る」と冷徹な宣告をしてから気仙沼に到着するまでの間、車内には息の詰まるような沈黙が続いていた。
野上には、美希は若返っていく肉体に戸惑いながらも、自分との旅を謳歌しているように思えていた。彼女は自分の隣で無邪気に焼き牡蠣を頬張ったり、少し照れながらもブティックで新調した美しい姿を見せてくれたり、夜には眩い女の肉体を曝け出してくれたのだ。
野上自身、彼女がどれほど若返ろうとも、自分に似たその瞳の奥にある不器用で孤独な魂を知っている以上、恐怖はなかった。むしろ、目の前の奇跡のような美しさに夢中になり、自分といればきっと何とかなると、未来を明るい方向へ楽観的にすら考えていたのだ。
だが、今の美希は違う。
昨日と同じコートに身を包んだ彼女の背中からは、温かい女の気配が消え、極寒の水にさらされた和紙のような、冷たく強靭な拒絶の壁がそそり立っていた。
(美希さん……)
野上は心の中で小さく呼びかけたが、美希の横顔はあまりに美しく、そしてあまりに遠かった。
時計の針が午後三時を回った頃、野上のフォレスターはついに目的地のトラックステーションへと滑り込んだ。
春の明るい日差しの下、アスファルトの一角には、白銀の車体に青のラインが入った日野プロフィアが主人の帰りを待つ巨大な獣のように静かに鎮座していた。
野上は道中、ついに一言も発することができなかった。
プロフィアの隣でフォレスターのエンジンが止まり、二人は車を降りた。
美希が「送ってくれてありがとう」と短く告げ、逃げるようにしてプロフィアのドアノブへ手を掛けようとした瞬間、野上はその細い手首を咄嗟に掴んだ。
「待ってくれ。……まだ、話がある」
美希はビクッと身体を震わせ、野上の顔を見た。三十四歳の生々しい瞳が揺れている。そして美希はキャビンの下の巨大なタイヤに、自らを縛り付けるように視線を向けた。――かつて男が、崩落現場で身動きが取れなくなっていた自分を再び走らせてくれた、転回の轍を刻んだ右前輪に。
「離して。……私、もう行かないと……。道が繋がったから、私は元の私に戻る。……どうかしていたのよ、私たちは。あなたとは、ここで……」
「話を聞いてくれ!」
野上の声はコンクリートに打ち込む楔のように固く、揺るぎなかった。
彼は両腕で美希の両肩を力強く掴み、彼女の身体を自分の方へと強引に向けさせた。
逃げ場を塞がれ、真正面から真っ直ぐに向き合う野上の迫力に、美希は息を詰まらせた。彼の瞳には、男の覚悟が宿っていた。
「あんたが化け物だとか、呪われてるとか、そんなことはどうでもいい。俺は、あんたが好きなんだ。この先もずっと、あんたと一緒にいたいんだ!」
野上は上着のポケットから、小さなビロードの箱を取り出した。
行きのショッピングモールで美希の着替えを待つ間に、彼は一人、宝飾店を訪ねていた。自分の稼ぎで買える、精一杯の贈り物。小さなダイヤが一石付いたプラチナの指輪だった。
野上は呼吸を整えて美希の目を見据え、静かに箱を開けた。
「これを受け取ってほしい。茨城の家で、……僕と一緒に暮らそう」
美希は、春の光を反射して静かに輝くその指輪を、まるで鋭い刃物を見るかのように見つめた。そして、悲鳴のような声で拒絶した。
「……無理よ! そんなもの、受け取れないわ!」
「どうしてだ。僕は本気だよ。呪いだろうが何だろうが、僕が全部引き受けるって言ってるだろ!」
「あなたには分からないのよ!」
美希の目から、大粒の涙が溢れ出した。三十四歳の美しい顔が、老婆のように皺くちゃに歪む。
「私と一緒になれば、私はもっと若返っていくのよ。……もし今夜、またあなたと抱き合えば、私は二十代、十代へと戻ってしまうかもしれない。あなたの目の前でどんどん若返り、子供のような姿になっていく。あなたは変わらない。時間だけが離れていくの。それでも正気で私を抱き続ける? ……あなたとのたった三度の交わりで、ここまで若返ってしまった。私が誰との交わりも避け、孤独に過ごし続けてきた数十年が一瞬で……っ。私もう疲れたの。本当は……普通に歳をとって、普通に死にたいのよ。……後悔は無いわ。私は満足よ。一番美しい時の私の身体を……あなたに捧げることができたから。昨日のように、私たちが触れ合える夜はもう二度と無いのよ? それにあなたは、耐えられるっていうの?」
美希のこれまでの沈黙を突き破るような悲痛な叫びに、野上は言葉を詰まらせた。
触れ合えば、二人の轍は引き千切られる。触れ合わなければ、愛し合う男女としての地獄の苦しみが待っている。彼女の突きつけた現実は、野上の楽観的な想像をはるかに超える残酷なものだった。
「あなたは……、あなたは本当に、良い人よ。私なんかのために、人生を棒に振っちゃいけない」
美希は涙声ですがるように言った。
「あなたは普通の女の人と結婚して、普通の幸せを手に入れて、……その人と一緒に白髪になって老いていくべきなの。……お願いよ、私をこれ以上苦しめないで」
美希は、野上の手が緩んだ隙にドアを開け、プロフィアの中へと向かった。
冷たい海風が彼女のコートを大きくはためかせる。
「美希さん! 待ってくれ!」
野上はハッと我に返り、高いキャビンへとよじ登る彼女のコートのポケットの中に、一枚の紙と、小さな金属を押し込んだ。
「……っ、何よ、これ」
「俺の家の鍵だ。紙には家の住所が書いてある」
野上は、振り向いた美希の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「未来のことは、今は分からない。指輪がいらないなら、それでいい。でも……それでも俺は、美希さんが好きなんだ。だから、その鍵だけは持っていてくれ」
野上は一歩下がり、彼女を見上げた。
「俺は茨城に帰る。そこで、君を待っているよ。明日でも、一年後でも、いつでもいい……。あんたが一人で走るのに疲れたら……来て欲しい」
美希は、鍵に指を触れた。そのポケットの中の冷たい金属の重みが、彼女の心に突き刺さる。
「……あなたは馬鹿よ」
美希はそれ以上野上の顔を見ることができず、震える手で分厚い鉄のドアを閉めた。
バタン、と重い音が響き、外界の音が遮断される。
美希はエンジンキーを回した。
直列六気筒の巨大なディーゼルエンジンが、地鳴りのような咆哮を上げる。プシューッとエアブレーキが解除される音が、午後のトラックステーションに響き渡った。
美希は前を向いたまま、ギアを繋いだ。
総重量二十トンの巨体がゆっくりと動き出す。サイドミラーの向こうには、プロフィアを見つめ立ち尽くしている野上の姿が見えた。
やがて男を映すアスファルトの風景は、ミラーの視界から完全に消え去った。後に残されたのは、乾いた路面に刻まれた、女の残した太く重い轍だけだった。
プロフィアは、気仙沼の街を抜け、海岸線を走り続けた。
十五分ほど走っただろうか。市街地から離れ、人気のない海沿いの広い路肩に差し掛かったところで、美希はたまらずハザードランプを点け、トラックを急停止させた。
サイドブレーキを引き、エンジンを切る。
波の音だけが聞こえる静寂のキャビンの中で、美希はポケットから鍵と紙を取り出した。
不器用な字で書かれた、男の住所。そして、小さな銀色の鍵。
「うっ……、ああぁっ……!」
三十四歳の若々しい肉体が、激しく波打った。
美希はハンドルの上に突っ伏し、誰はばかることなく、獣のように声を上げて泣き崩れた。
野上の真っ直ぐな愛を突き放した罪悪感。呪われた血の絶望。
和紙のように強くあろうとした彼女の心は、彼が残した金属の温もりによって、無惨なまでに引き裂かれていた。
春の午後の海風が、泣きじゃくる女を乗せた鉄の繭を、ただ静かに揺らしていた。
(第三部 完 第四部へ続く)