※この作品はR-18です。

轍の向こう   作:影の設計士

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第四部
第十五話:西ノ内の蒸気と、帰るための場所


 野上有介は一人、常磐自動車道を南へ車を走らせていた。

 助手席には誰もいない。つい数時間前までそこに座っていた女の仄かな匂いだけが、シートに微かに残っている。

 気仙沼のトラックステーションで無惨に突き放され、置いていかれたというのに、野上の心は不思議なほど穏やかだった。美希が拒絶したのは、自分を愛していないからではない。それは、不器用すぎるほど強靭な、彼女なりの優しさだと分かっていたからだ。

 美希は鍵を持っていつか帰ってくる――野上はそう信じていた。その日のために、自分がなすべきことは決まっている。

 

 茨城の自宅に辿り着いた時には、すっかり夜も更けていた。

 野上の自宅は、市街地から少し離れた農村地帯にある。周囲には畑とビニールハウス、そして雑木林が広がり、家々がポツポツと離れて点在する静かな場所だった。怪我でゼネコンを辞めた後、退職金と傷害保険金で手に入れたこの小さな平屋の家は、彼にとって、外界の喧騒から完全に切り離された、ただ引き篭もるためだけの『動かない繭』だった。

 オレンジ色の玄関灯が灯る静まり返った家に入り、室内の電気をつける。一週間ぶりに開けた部屋は、ひんやりと冷たい空気が澱んでいた。

 野上はすべての窓を開け放ち、夜の風を家の中へと招き入れて、やっと自分の家に帰った気がした。

「シロ!……、クロ!……」

 呼ぶと、隣接する林の奥から足音がして、二匹の元野良猫——オスの白猫とメスの黒猫が姿を現した。

 彼らは野上がいない時はそれぞれ家の外に自分の居場所を持っていて、そこに隠れているのが常だった。二匹は野上を確認すると地面に寝転がってお腹を見せ、喉を鳴らして主人の帰還を喜んでいる。

「ただいま。元気にしてたか……腹減ってないか?」

 野上はしゃがみ込み、無事であることに安堵しながら二匹の頭を撫で、家の土間に入れて餌を与えた。男一人と猫二匹の、静かで満ち足りた空間。これまでは、この孤独な生活こそが自分の身の丈に合った唯一の安らぎだと思っていた。だが今は違う。開け放たれた窓から入る風もすべてが、「彼女がいつ来てもいいように」という明確な意味を持っていた。

 

 翌朝。野上は紙袋を提げ、自宅から少し離れたサトの家へと向かった。亡くなったご主人が作ったという立派な瓦屋根の平屋だ。

「サトさん、昨夜遅くに帰りました」

 縁側で転寝をしていた老婆が、野上の声に気づいて皺くちゃの顔を綻ばせた。

「ああ、有介さん。お帰り。仕事は無事に終わったのかい?」

「ええ、なんとか。留守の間、猫たちの世話、ありがとうございました。これ、お土産です。宮城の笹かま」

 野上が紙袋を差し出すと、サトは「いつも悪いねえ」と嬉しそうに受け取った。そして、野上の顔をじっと見上げて、不思議そうに首を傾げた。

「なんだかあんた……前よりずっと良い顔してるね。左足も、今日は良さそうじゃないか」

 野上はハッとして、自分の左脚を見下ろした。

 そうだ。美希と最後の夜を過ごして以来、どれほど歩いても焼け付くような古傷の痛みがすっかり消え失せている。

「そうですかね? やっぱり、たまには動いたほうが身体には良いのかな」

 野上は誤魔化すように照れ笑いを浮かべ、サトの家を後にした。

 自宅に戻った野上は、掃除機をかけて溜まっていた埃を拭き取り、簡単に家の掃除を済ませると、作業着に着替えて裏庭にある十坪ほどの畑へ向かった。

 三月初旬の土はまだ冷たかったが、確かな春の匂いを含んでいた。野上は食べられそうな冬野菜を収穫し、枯れた白菜や葉物の残滓を丁寧に引き抜いていった。

 鍬で耕し、畝を作り直す。整えたふかふかと柔らかな土のベッドに、ほうれん草の種を等間隔で蒔いていく。葱を移動し、ジャガイモの種を植える。元気な芽が出る頃には、季節はすっかり暖かくなっているはずだ。

 畑仕事が一段落すると、野上は玄関先に置いていた鉢植えの前に立った。去年、ホームセンターで買った、まだ一メートル程の高さのアルプス乙女の林檎の苗木。いつか地植えしようと思いながら、植える場所が中々決まりきらず、大きな鉢に植え替えたまま放置していたものだった。

 野上はスコップを手に取り、日当たりの良い南角の土地に深い穴を掘った。鉢から苗木を引き出して根を優しくほぐし、広々と空けた穴の中央へと下ろす。

「こんなものかな。……しっかり根を張ってくれよ」

 水を張りながら、野上は祈るように話しかけた。

 幼木を健康な木に育てるのは大変だ。しっかりと大地に根を付かせ、幹の根元や葉が害虫に食われないように注意深く観察する。この木が実をつけるまでには、あと三年はかかるだろう。だが、それでいい。野上は樹木の成長には時間がかかること、病気にならないよう先を見据えて手入れしなくてはならないことを、過去の失敗から学んでいた。

 畑仕事を終えて一息ついたその日の午後。野上は再び車に乗り込み、県北の常陸大宮市へと向かった。

 山あいを流れる久慈川の清流沿いに、その古びた集落はあった。江戸時代から三百年以上の歴史を持つ『西ノ内和紙』の産地である。

 車を停め、集落の細い道を歩くと、どこからともなく甘く香ばしい木の匂いと、白く立ち上る蒸気が視界に入ってきた。覗き込んだ工房の庭先では、職人たちが収穫したばかりの楮の原木を、巨大な和釜の上に据えた木桶で蒸し上げている最中だった。もうもうと立ち込める熱気の中、蒸し上がった楮の皮が手際よく剥がされ、真冬の川の水で晒すための準備が進められている。

『過去の泥を全部洗い流して、真っ白な一枚の和紙になって、誰にも頼らず一人で生きて行く』――。松島からの帰りの車内で、遠くを見るような目で寂し気に語っていた美希の声が蘇る。

 野上は白く煙る蒸気の向こうに、冷たい水に赤い手を浸して紙を漉く、彼女の幻影を見た気がした。職人たちの作業をしばらく無言で見届けた後、野上は再び車に乗り込み、家へと向かった。

                  ・

 翌日。野上は庭の南側の空き地を見つめていた。

 今は雑草が生い茂るだけの平地。前から買ってくれないかと言われていた隣の土地だ。野上は頭の中で、そこに建つ建物の図面を引いていた。

(八畳……いや、洗い場と叩き場を入れたら、十畳は必要だろうか……)

 美希が家に来た時、彼女が過去の泥を洗い流し、自らの魂を再生させるための場所。野上は美希のために和紙を漉くための専用の作業小屋を作ろうと思っていた。彼は彼女が漉く和紙を見たかった。

 井戸を掘り、良質な地下水を引く。楮を蒸すための釜を据え、紙を漉くための舟を置く。彼女が冬の冷たい水に触れても凍えないよう、壁と屋根に断熱材をしっかりと入れ、陽の光がたっぷり入る大きな窓を作ろう。

 元ゼネコンの現場監督としての血が、静かに、しかし熱く騒ぎ始めていた。

(美希さん……俺があんたの場所を作ってやるからな……)

 野上の呟きは、誰に聞かせるわけでもない、自分自身への誓いだった。

 二匹の猫が主人は何をする気なのだろうというような目で、注意深く見つめていた。

 美希がいつあの鍵を手にして自分の家に来るのか、野上には分からない。明日かもしれないし、何年も先かもしれない。しかし、男は待つと決めた。

彼女が帰るための場所を、この手で造り上げていく。

春の穏やかな風が吹き抜ける中、男の動かない繭が、確かな鼓動を始めていた。

(第十六話へ続く)

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