※この作品はR-18です。

轍の向こう   作:影の設計士

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第十六話:受胎の兆しと、忍び寄る影

 気仙沼で野上と別れてから一月が過ぎていた。

 四月初めの常磐自動車道を、美希の乗る日野プロフィアが北へ走っている。窓の外では山肌を彩る桜が満開に咲き、木々は芽吹きの季節を迎えていた。

 ハンドルを握る美希の身体は春の陽気とは裏腹に、得体の知れない重苦しさに支配されていた。

 数日前から続く微熱と、泥の中に沈み込むような強い眠気。下腹部の奥には鈍い重だるさが居座り、胸には張るような痛みがあった。最初は風邪でもひいたのかと思っていた。しかしその後の、朝方に襲ってくる強烈な吐き気と、おりものの明らかな増加が、美希に決定的な異常を告げていた。

 松島での野上との交わりによって、美希の肉体は三十四歳にまで若返った。干からびていたはずの肉体に、月の周期も戻ってきていたのだ。

(まさか……)

 美希は大きめのドラッグストアにトラックを滑り込ませると、妊娠検査薬を買い求めた。

 狭く無機質なトイレの個室。小さなプラスチックの窓に赤色の線がくっきりと二本、浮かび上がっていた。

 陽性。

 美希は便座に座り込んだまま、震える手で顔を覆った。

 美希が命を宿すのはこれで三度目だった。腹の中にいるのは、野上有介の血を分けた子供だ。

 過去の二度の妊娠は、一族の呪縛の中で授かった、禁忌の産物だった。だが、今度は決定的に違う。東北の地で出会った、血の繋がりが爪の先ほどもない男の子供。女としての性を孤独の檻に閉じ込めてきた三十二年間で、初めて壁をこじ開けられ、その熱を自ら狂おしいほどに求めた唯一人の男の健やかな血の結晶。歪んだ血の連鎖を断ち切る、初めての正常な人間の命。

『呪いだろうが何だろうが、僕が全部引き受ける……』

 彼が差し出した小さな指輪の輝きと、慟哭のような声が脳裏に蘇る。あの時、美希は「これ以上苦しめないで」と彼を突き放した。だが、皮肉なことにその時の交わりの結果が、新たな命となって美希の胎内に根を下ろしてしまった。

 彼の子を産むのか。それともまた、冷たい手術台の上でこの命を掻き出すのか。

 もし産むとしたら、一人で育てることができるだろうか。彼と一緒に……? いや、そんな虫のいいことができるはずがない。

 美希は答えの出ない問いに引き裂かれそうになりながら、自分の平らな下腹部を両手で強く抱きしめた。

                   ・

 一方、茨城の野上の日常は、穏やかな春の光に包まれていた。

 遠くでは山桜が白い花を咲かせ、雑木林の木々が柔らかな新緑の葉を膨らませ始めていた。

 野上は縁側の前で、夏野菜のための苗作りをしていた。培土をつめた幾つかの育苗箱に、トマト、キュウリ、ナスの種を条播きしていく。直播きではまだ寒さにやられてしまう種たちを、保温しながら芽吹かせる事前作業だ。

 傍では、白猫と黒猫が暖かな日差しを浴びて丸くなっている。

 種蒔きを終えると、野上は先月購入したばかりの隣地へと向かった。そこにはすでに、和紙小屋のための堅牢なコンクリート基礎と土間が打ち上がり、今は土台敷きを終えて、壁を建て始めているところだ。

 野上は小屋の工法として、ツーバイフォー工法を選んだ。これなら男一人でも作ることができるからだ。

 コンクリート基礎に敷いた土台の上に、上枠と下枠を平行に並べる。その間にたて枠材を一尺五寸間隔で配置し、上下枠から専用の釘で打ち付ける。窓や出入り口の開口部にはマグサを入れて補強し、壁枠組を作る。できた枠組に構造用合板を張って正確に直角を出した壁パネルを作り、開口穴をルーターで開けておく。そして完成した壁を建て起こし、交差する壁どうしを頭つなぎで繋ぐ。

 野上は昔買っていたハウツー本を片手に、丸鋸と玄翁を振るい、手作業で一枚一枚丁寧に壁を作っていった。おが屑の香りが周囲に漂う。野上は黙々と、大地に根付く頑丈な『木の繭』を造り続けた。

(♪Alicia Keys『No One』がラジオから流れる)

                   ・

 その穏やかな繭の空気が突如として破られたのは、四月も下旬に差し掛かるある日のことだった。

 朝から分厚い鉛色の雲が空を覆い、どんよりとした暗い空気が町全体を重く沈ませていた。どこか不吉で、底冷えのするような暗さだった。

 昼過ぎにふと野上は家の中の異変に気づいた。

 さっきまで近くで寝ていたはずの、黒猫の姿が見えないのだ。野上の家には猫ドアが取り付けられていて、猫たちが自由に出入りできるようになっている。トイレか外の空気でも吸いに出たのだろうと思っていたが、夕飯の時間になっても黒猫は帰ってこなかった。辺りはすっかり暗くなり、雨も降り始めている。

「おかしい。クロ……、どこ行った」

 野上は懐中電灯を手に、庭や裏の林の普段いそうな場所を探し回った。

 胸の奥に嫌な予感が渦巻いていた。最近、野上の家の周辺には、三匹の野犬が出没するようになっていた。その乾いた骨のような色をした野犬たちは、飢えた目をして庭をうろつき、猫たちを執拗に追い回すことがあった。これまでは猫の方が身軽で、すぐに高い所に登るか、犬の入れない床下に逃げ込んで事なきを得ていたのだが。

 家の周囲を何度探しても見つからない。

(まさか……)

 野上は焦りを覚え、普段から「行くな」と猫たちに言い聞かせていた場所——家から数百メートル離れた、交通量の多い県道の方へと足を踏み出した。

 視線の先、夜九時を回り空いた県道を、車のヘッドライトが猛スピードで通り過ぎていく。

『シャーーーッ!』

 闇を切り裂くような、猫の悲痛な叫び声が聞こえた。

 野上が懐中電灯で声のする方を照らすと、道路際で全身の毛を逆立てて威嚇する黒猫の姿が見えた。そしてその周囲を三匹の野犬が取り囲み、低い唸り声を上げながら車道の方へ猫をジリジリと追い詰めている。クロだった。

「この野郎!」

 野上が怒声を上げ、野犬たちを追い払おうと駆け出したその時。

『ギャャァーー!』

 パニックに陥り、路肩で身動きできずに固まっていたクロの叫び声が鳴り響いた。

 路肩スレスレを走り抜けた一台の車が、猫の脚を轢いたのだ。脚を轢き骨を砕いたその車は、何事もなかったかのように闇の奥へ走り去る。痛切な悲鳴とともに、クロが宙に飛び上がった。激痛に耐えかねてピョンピョンと三度跳び上がった勢いで、不運にも車線の中央へと転がり出てしまった。

 直後。

 ドンッ!

 重く鈍い衝撃音が夜気を劈いた。

 脚を轢いた車のすぐ後を走ってきた車が、痛みで飛び跳ねている黒猫の小さな身体を容赦なく撥ね飛ばしたのだ。二台目の車は何かを轢いたことに気付き急ブレーキをかけ、少し先でハザードランプを点灯して停止した。

「クロッ!!」

 野上は無我夢中で車道に飛び出し、道路の真ん中に横たわる黒猫に駆け寄った。

 即死だった。頭蓋骨は割れ、片目が飛び出している。頭の下からは赤黒い血が道路に流れ出し、アスファルトを黒く染め始めていた。クロはピクリとも動かなかった。二度目の衝突が決定打だった。

 停止した車から若い女の運転手が降りてきた。女は申し訳なさそうな顔をして謝罪したが、彼女には不可抗力だったと野上は分かっていた。

「……仕方なかったよ。助けてやれなかった俺が悪い……」

 目の前で愛猫が跳ねられ、痛々しく飛び跳ねる映像と、その時の悲鳴が野上の脳裏に何度も鳴り響く。

 地面に横たわる血まみれの猫をどうやって連れ帰ろうかと野上が立ち尽くしていると、女が「これを使ってください」と言って、大きなバスタオルを差し出した。野上は無言で頷き、黒猫の亡骸をそっと抱き上げ、タオルの上へ移動した。

 ほんの数分前まで生きていたその小さな身体は、まだ恐ろしいほどに温かく、そして柔らかかった。

(……だから車は嫌いなんだ。……一瞬で命を奪う)

 クロは、野上が五年前に一人茨城に移住してきた時、初めて彼のもとへ寄り添ってくれた命だった。野上の土地を縄張りにしていたらしく、彼はこの猫をこの地での先輩だと思っていた。人慣れしていない若いメス猫で、初めて野上に声を聞かせてくれたのは飼い始めてから半年後のことだった。誰もいない孤独な家で、どれほどこの温もりに救われてきたか。

「……すまない。俺が、もっとお前を早く見つけてやれば……」

 野上はタオルに包んだ黒猫を胸の前で抱き、暗い夜道を歩いて家へと戻った。野犬の姿はどこにも見えなかった。

 その夜、野上は机の上に綺麗なタオルを敷き、まだ柔らかな遺体をそっと寝かせ、線香を立てて小さな通夜をした。彼はただ静かに、クロの毛を撫で続けた。

 夜明けが来て、腕の中の柔らかかった身体が完全に冷たく硬直したのを確認すると、野上はスコップを手に取り、クロがよく遊んでいた中庭に深い穴を掘った。

 土を被せながら、野上は鉛色の空を見上げた。

 三匹の野犬。あれはただの犬だったのだろうか。暗闇の中で見たあの犬たちの目は、獲物を狙う獣のそれとは違う、底知れない悪意のようなものを孕んでいた気がしてならなかった。

 自分の大切な場所と大切な命を、見えない業火が少しずつ取り囲もうとしている。その不吉な予感に、野上はただ一人、固く唇を噛み締めていた。

(第十七話へ続く)

 

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