四月下旬。新緑の風が吹き抜ける常磐自動車道を、美希のプロフィアは南へ走っていた。
振動に呼応するように、車内にカタカタと金属音が鳴り響く。プロフィアの鍵に付けられた桃色のキーホルダーが揺れて鳴っていたのだ。それは、妊娠を知らせる『マタニティ・マーク』。大型トラックの運転席にはひどく不釣り合いなその小さな印は、美希が自分の中で芽生えた命を受け入れた、ただ一つの証だった。
妊娠に気づいたのは今から一月前。日に日に酷くなるつわりと、抗いようのない強烈な睡魔によって、美希の身体は限界を迎えていた。そして、何より彼女を苦しめたのは今まで気にしていなかったシートの縦揺れだった。
段差を乗り越えるたびにフワリと上下するトラック特有のシートの揺れが、妊娠初期の美希に猛烈な吐き気を起こさせた。そして、キーホルダーが鳴らす音を通して、芽吹いたばかりの生命が「もう走らないで」と訴えかけているように聞こえていたのだ。
(……もう潮時なのかもしれない)
美希は吐き気に耐えきれず、楢葉パーキングエリアにプロフィアを滑り込ませた。サイドブレーキを引き、大きなハンドルの上に突っ伏して荒い息を吐く。
胃液の込み上げる不快感に耐えながら、美希は自分の下腹部を優しく両手で包みこんだ。
その時だった。
手のひらの奥で、かすかな、しかし確かな熱が脈打つのがわかった。まだ形すらない小さな細胞の塊。けれどそれは、明確な命だった。
「わかったわ……産むわ」
たとえ呪われた子になろうとも構わない。その命は、大地に深く根を張る樹木のように、美希の子宮にガッチリとしがみつき、ただ生きたいと声を発している。純粋で力強い生命の叫びだった。
それを感じ取った瞬間、美希の中で張り詰めていた何かが解けていった。
これまで外界から遠ざかるために鉄の繭に引きこもり、誰にも弱みを見せずに一人で生きてきた。それが彼女の誇りでもあった。何があってもこのハンドルを握り続けようと、今日まで精一杯頑張ったのだ。
けれどもう、一人の身体ではない。
美希の意志など関係なく、お腹の子は「生きたい」と強烈に主張している。ならば、自分がこの小さな命を守り抜かなければならない。美希にもう迷いは無かった。堕ろすことも、一人で育てることも考えていなかった。
「……野上……助けて……」
美希は誰もいないキャビンの中で、ポツリとこぼした。
それは敗北者の言葉ではなかった。一人の女として、一人の母としての、聖なる叫びだった。私は野上と二人でこの子を育てたい。美希の瞳から、自然と温かい涙がこぼれ落ちた。
その夜。
楢葉からの帰り道、午後から降り始めた激しい雨は、美希が職場近くの安アパートに帰り着く頃にはすっかり上がっていた。
美希は会社へ電話をかけ、急な体調不良を理由に引退を申し出た。自前のトラックで一人走ってきた彼女にとって、最後の荷物を降ろした後に配車を断り、三十年近く続けた仕事を手放すことは難しくなかった。手元には今後三人が生きていくのに充分なだけの貯金もあった。
窓の向こうには、雨に濡れた首都高のアスファルトが絶え間なく流れる車のライトを反射して輝き、無数の無機質なビルが放つ冷たい光景が広がっている。人が溢れ返る東京の街は、四国にいた時よりもかえって自分の孤独を浮き彫りにする、残酷な場所だった。
部屋には家具らしい家具もない。仕事一筋に懸命に生きてきた彼女にとって、ここはただ郵便物を受け取り、休日に泥のように眠るためだけの寂しい空間だった。
けれど、今夜は不思議と孤独を感じなかった。手のひらに握られた野上の家の鍵と、下腹部の奥底で確かに脈打つ小さな熱。それだけで、冷え切っていた東京の夜がほんのりと温かく感じられた。
夜風に乗って、透き通るような女性ボーカルが聞こえてくる。『エンドレス・ストーリー』――そばにいてほしい――と切なくも力強く、出口のない物語を歌い上げるその歌声は、美希の気持ちとそっと重なり合っていた。
* * *
数日後、最後の仕事を終えた美希は東京大田区のはずれにある運送会社の駐車場で、プロフィアのキャビンを無言で磨いていた。
トラックを売る。それは、長年この鉄のキャビンに染み付かせてきた「自分」という人間の痕跡を、一つ残らず消し去る儀式だった。
ダッシュボードを固く絞った雑巾で拭き、頭上のコンソールボックスや引き出しの奥に手を入れて、忘れ物や落とし物がないか入念に確かめる。領収書の切れ端や、隅にこびりついた埃を丁寧に取り除いていく。
そして、運転席の後ろにあるベッドスペース。
美希は、そこに置いていた小さな写真入れを手に取った。晃の写真だ。三十二年間、いつも自分と共に過ごしたその写真を美希は大切そうにバックの中に仕舞った。
そして、美希が再び走り始めたあの日、不器用な優しさで彼女を包み込んでくれた男との幸せな記憶。
溢れ出るすべての思い出をボストンバッグに詰め込むと、さっきまで彼女の人生そのものだったキャビンはひどくよそよそしい、まるで他人の車のような空間へと変わった。
「……今まで守ってくれて、本当にありがとう」
美希は運転席に座り、巨大なハンドルにそっと手を触れた。そして、シリンダーから鍵を抜き、桃色のマークの付いたキーホルダーを外すと、それを野上がくれた真鍮の鍵へと付け替えた。
その日の午後、美希は馴染みのトラック買取業者へプロフィアを引き渡した。
・
翌日、美希は都内の自動車販売店にいた。
もう、外界から自分を隔離するための巨大な城は必要ない。ふと、店先に並んでいた手頃な中古のコンパクトカーに彼女の目が止まった。
白のホンダ・フリード。
『Freedom』から名付けられたというその車名に、美希はふっと口元を綻ばせた。
「……自由と解放。良い名前じゃない」
三十四歳の肉体に若返り、愛する男と新しい人生をスタートさせる。今の自分には、これ以上ないほどふさわしい車に思えた。
*
そして迎えた、ゴールデンウィークの出発の朝。
美希はアパートの前に納車されたばかりのフリードを停め、当面の着替えと荷物を車に積み込んでいた。
地上二・五メートルの特別な高さとは違う、地べたに近い普通の視界。目線の低さにまだ少し戸惑うが、これからは地に足の着いた一人の普通の女として、そして、一人の母として生きていくという確かな決意がそこにはあった。
コートのポケットの中で、マタニティ・マークのキーホルダーが土の匂いのする鍵と触れ合い、カチャリと微かな音をたてる。
今、彼は何をしているだろうか。
お腹を見せて「あなたの子よ」と告げたら、彼はどんな顔をするだろうか。
美希はエンジンをかけ、照れくさそうに笑みを浮かべた。
「野上……行くわ。……待ってて」
フロントガラスの向こうには、五月の高く澄んだ青空が広がっている。美希を乗せた白い車は、彼女を待つ男の家へと真っ直ぐに走り出した。
(第十八話へ続く)