四月下旬の茨城。今年は春の訪れが早く、遠くの山肌には薄紫色の藤の花が咲いていた。
隣地に建つ和紙小屋は、屋根の板金葺きまで完了し、一昨日届いた窓サッシが途中まで取り付けられている。北関東の冬は寒いため、サッシにはペアガラスが選ばれていた。
今日は朝から快晴だった。
野上は午前中、裏庭にある十坪ほどの畑に出て農作業をしていた。先月育苗箱で発芽させておいたトマトとキュウリの苗を植え、夏から秋に収穫するトウモロコシ、枝豆、インゲン、落花生の種を直播きしていく。トマトの隣には味を良くするためのバジルとパセリも植えた。
一通りの畑仕事を終えた頃には、昼を回っていた。
コンクリートの土間にカーペットを敷いただけの居間兼キッチンに立ち、冷蔵庫のキャベツと豚肉、庭で抜いてきたばかりのネギを刻んで肉野菜炒めを作る。まとめて炊いて小分けにしておいたご飯を電子レンジで温める。味噌汁は作る時もあるが面倒な時はインスタントで済ませている。五年も男一人で暮らしていると、料理も手慣れたものだった。
盛り付けた皿を食卓に運び、丈夫なデニム生地のソファに腰を下ろす。白猫が匂いを嗅ぎつけて身軽な動作でテーブルに飛び乗ってきた。いつものことだ。主人が何か美味いものを食べているのではないかと思っているのだ。
「シロ、なんだお前も肉食いたいのか?……ほら」
野上は野菜炒めの豚肉を口で小さく噛みちぎり、床に置いた餌皿に入れてやった。
午後からは和紙小屋のサッシ付けの続きをやる予定だった。
白猫を膝の上に乗せ、食後の珈琲を飲んでいると、空模様がおかしくなってきた。明るかった空が急にどんよりと暗くなり、北から吹く風が向かいの林の木々を揺らしている。風に混じり、自分を呼ぶ美希の声が聞こえた気がした。
野上が昼の休憩を終え、よし、やるかと重い腰を上げた、その瞬間。ダッダッダッと何者かが土を蹴る音が聞こえた。
窓から外を覗き見ると、三匹の骨白色の野犬が庭を走り回っている。一匹はひょろりと背の高い野犬で、今朝種をまいたばかりの畑の畝を踏み荒らし、やや小ぶりなもう一匹は作りかけの和紙小屋の周囲を様子を偵察するかのようにグルグルと周っている。残りの一匹は身体ががっしりとしていてかなり大きい犬だ。こいつが群れのボスなのだろう。他の二匹が自分の命令通りに動いているか確認するかのように、四方に睨みを利かせていた。
野上が野犬を追い払おうと、玄関を兼ねている居間の大きなガラス引き戸を開け、外へ脚を一歩踏み出すと、気配に気付いたボス犬が瞬時に向きを変え、唸り声を上げながら野上の方へとジリジリと近づいてきた。そして、数メートル手前で歩みを止めると、頭を低くして腰を上げ、明確な攻撃姿勢を取った。何故だか分からないが憎々しげな目付きで睨みつけ、象牙色の鋭い牙を剥き出しにし、今にも自分に噛み付きそうな顔をしている。
この三匹の野犬を野上はよく覚えていた。時々庭に現れては猫たちを追い回し、先月愛猫のクロを県道に追い込み、死に追いやった憎い仇だ。墓場から掘り起こされた古びた象牙のような灰白色の短毛で、一度見ると忘れない気色の悪い野犬の群れだった。
突然現れた獣たちに驚いた白猫は、僅かに開いた引き戸の隙間から逃げるように外に飛び出し、家の前の私道を越えて、向かいにある奥行き二十メートルほどの雑木林へと素早く逃げ込んだ。そして、高さ十メートルはあろうかというニセアカシアの木の上へサササッ、と駆け登った。シロは電線を越えた辺りまで登ると少し安心したのか太い横枝のところでしがみつき、器用に身体を安定させている。野犬たちは逃げた獲物をすぐさま追いかけ、登ったその木の下を三匹で取り囲み、降りて来いとばかりに吠え叫んでいる。
野上の家の周囲は雑木林と広い畑ばかりで風を遮るものが何も無い。午後から吹き始めた生温かい風は勢いが増して、シロの乗る木々を大きく揺らし始めていた。
野上は野犬が離れた隙に和紙小屋へと急いで走り、入り口に立てかけてあった長さ三尺の鉄のバールを掴むと、野犬が集まる木の方へとゆっくりと歩いて行った。
キンキンキンキンキン!
野上は私道のアスファルトに重い鉄のバールの先をわざと引き摺り、不快な音を立てて野犬のいる林へと歩いていく。
「失せろッ!」
三匹の野犬は男の気配に気付きいっせいに振り返ると、三方から野上を取り囲んだ。野上は長いバールを縦にして両端を握り、全てに目を光らせながらいつでも攻撃できるよう杖術の構えを取った。全高一・二メートルはあろうかという大きな獣だ。相手が本気ならばこちらも本気で戦わなくてはならない。野上は獣を威圧するように大きな声を張り上げ、ヒュッ、と鉄のバールを振り下ろした。獣たちは男の放つ迫力に気圧されたのか、野上を睨み付けながら後ずさり、林の奥へと駆けて行った。
(ふぅ……)
空はまだ昼間だというのにひどく暗く、今にも雨が降りそうだった。
野上は林から私道に出て、煙草に火を付けながら木の上の猫を眺め、降りてくるのを待った。
「シロ! 追っ払ったぞ! もう大丈夫だから、降りて来い」
極限の恐怖を味わったシロは幹にしがみついたまま、鳴き声ひとつ上げずに遠くを見つめてじっとしている。
風が強まり、木々がザワザワと音を立てる中、一時間ほどの時間が流れた。
やがて、ようやくシロが幹を伝って降りてきた。
午後四時を回り、周囲の輪郭が曖昧に滲み始める時間だった。
「……すっかり予定が狂っちまったな」
野上の頬にポツリと大粒の雨が落ちてきたのと、シロが地面に前足を下ろしたのは同時だった。シロを抱き上げ、腕に抱えて家へと連れ戻そうと歩き出した。
その矢先だった。野上の後方から、再び野犬が姿を現した。
シロは再びパニックを起こし、野上の胸を後ろ足で強く蹴り上げて腕の中から逃げ出した。雑木林を抜け、その先にある農家の広い畑を駆け抜けていく。野犬たちはシロを追いかけ、家から数百メートル離れる県道の方角へ執拗に追い込んでいっている。
林越しに、シロが畑の真ん中で野犬に取り囲まれたのが見えた。
(まずいぞ……シロ、そっちへ行くな)
シロは大きな獣相手にシャーッと唸り声を上げ威嚇をしている。前脚で一匹の野犬に爪を立てた時、後方から素早く近づいた小ぶりの野犬に後ろ脚を噛まれた。シロは分が悪いと判断したのか、噛まれた左脚をかばいながら県道の方へと逃げて行く。
三匹の野犬はその姿を面白がっているようにニヤニヤとした顔つきでゆっくりと、そして確実に県道へと追い込んでいった。
野上は血相を変えてその後を追った。広い農家の畑を抜け、土砂降りの雨の中をシロの元へと駆けた。
野上が追いついた時、シロは道路の際で身動きできずに固まっていた。一〇〇メートル先の向こうから、普段はこの道を通らない白色の大型トラックが走ってきているのが見えた。
かつてクロが轢き殺されたあの夜と、全く同じ光景だった。あの時は確かに、もう間に合わないというところまで車が迫っていた。その咄嗟の判断と、自分が一瞬足がすくんで立ち止まったことで、クロを見殺しにしてしまった。その後悔がずっと彼を苛んでいた。だが、今回は違う。今のトラックとの距離なら、自分が飛び出しても充分間に合う。
野上は野犬を追い払い、一切の躊躇なく車道へ飛び出し、シロの前に立ち塞がった。
「止まれーーーッ!!」
昼間の太陽で熱せられたアスファルトに数分前から降り始めた大粒の雨が打ちつけたため、道路上にはモワリとした蒸気が白く立ち上っていた。
急激に広がった真っ黒な雨雲と、視界を遮る激しい雨と蒸気。その薄暗がりの向こうから、大型トラックの巨大な影が迫る。
野上はトラックに向けて両手を大きく振り上げながら、シロを道路の反対側に建つ家の庭先へと歩かせた。横目でシロが無事に垣根の中へ逃げ込んだのを見届け、歩道に戻ろうとした、その刹那。
――野上……!
雨音に混じって、背後から自分を呼ぶ美希の声が聴こえた。
(――美希! ――どこだ?)
野上が振り返る。
キィィーッ! キィィーーッ!
トラツグミの鳴き声に似た、凄まじいブレーキ音が鳴り響いた。
大粒の雨と路面からの蒸気が、トラックのフロントガラスを曇らせ、道路に立つ男の姿の発見を決定的に遅らせていた。運転手が慌ててペダルを踏み込んだが、ブレーキは間に合わない。雨に濡れた路面で、巨大な鉄の塊は決して止まらなかった。
ドンッ!
重い物がぶつかる鈍い音が、夕暮れの県道に響き渡った。
降りしきる雨が白い闇を煙らせる。その闇の向こうから、聞くものを不安にさせる波音と血のような赤色灯の光が近づいていた。
(第四部完 第五部へ続く)