※この作品はR-18です。

轍の向こう   作:影の設計士

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第一部
第一話:冷たい繭


 二月の風は、見えない刃となって容赦なくフロントガラスを打ち据えていた。

 ごうごうという低い唸り声が、外の世界を支配している。常磐自動車道を北上する十トン・トラックの巨大な車体が、横殴りの突風を浴びて微かにぐらりと揺れた。

 運転席に座る坊之宮美希のハンドルを握る手は、微塵もブレることはない。革手袋に包まれた指先には、長年この巨大な鉄の獣を御してきた、確かな力と経験が宿っていた。

 

 美希は今年で五十八歳になる。身長一七〇センチメートルの長身を持て余すことなくシートに沈め、前方のアスファルトを睨みつける横顔には、年齢相応の深い皺が刻まれている。陽に焼け、化粧の気配すらない乾いた肌に骨張った細い身体。だが、その背筋は凛と伸び、射抜くような鋭い瞳には一切の淀みがなかった。屈強な男たちがひしめく長距離運送の世界で、三十年近くたった一人で生き抜いてきた女の、研ぎ澄まされた美しさがそこにはあった。

 暖房の効いたキャビンの中は、外の暴力的な風切り音とは対照的に、奇妙なほどの静寂に包まれている。漂うのは、缶コーヒーの微かな匂いと、ダッシュボードに染み付いた埃の匂いだけだ。

『——美希さん、今日の風はヤバいね。そっちの状況はどう?』

 突然、沈黙を破って無線機からノイズ混じりの男の声が響いた。同じルートを走る顔見知りのドライバーだ。美希は視線を前方から外さぬまま、片手でマイクを手に取った。

「ええ、煽られてるわ。横風注意報が出てる。気をつけて」

 短く、用件だけを返し、すぐに通信を切る。相手も美希の無愛想には慣れているのか、それ以上言葉を繋いでくることはなかった。

 誰とも深く関わらない。誰にも踏み込ませない。この幅二メートル強、長さ数メートルの狭いキャビンこそが、美希にとってこの世で唯一の城だった。外の世界がどれほど荒れ狂っていようと、分厚い鉄板とガラスに守られたこの空間にいる限り、彼女は安全だった。

 

 三十二年前の五月、二十六歳の美希は何もかもを捨て、四国の土佐から逃げるように上京した。

 捨てたのは、故郷の風景ではない。自らの血管の奥底に泥のように沈む『狗神筋』の忌まわしい血と、それを恐れ、あるいは蔑む人々の湿った視線。そして何より、自らの腹を痛めて産んだ息子と交わってしまったという、罪の記憶だ。

 坊之宮の血を引く女は、男と交われば若返る。それは世間から見れば明らかな異形であり、化け物の証明だった。特定の場所に根を下ろせば、必ず人と関わり、いずれ過去や秘密が暴かれてしまう。

 いや、それ以上に恐ろしいのは、自分自身の心が揺れることだ。

 他人の温かな暮らしを羨み、あるいは理不尽な悪意を抱く。もしこの心に一滴でもどす黒い感情が滲めば、取り返しのつかない悲劇が起きてしまう。 その連鎖を断ち切る術はただ一つしかない。誰とも関わらず、感情の波風が一切立たない、徹底した孤独の中に身を隠すこと――。

 その点、長距離トラックのドライバーという仕事は美希にとっての完璧な隠れ家だった。ひたすらに白線を追いかけ、見知らぬ街から街へと荷物を運んでは、また去っていく。誰かの記憶に留まる前に、アスファルトの上を滑り続ける。この巨大なトラックは、因習という泥沼から美希を隔離し、外界のあらゆるものから身を守る鋼鉄の繭だった。

 

 東京・平和島の物流センターで積み込んだ精密機器と建築資材が、荷台で微かに軋む音を立てている。目的地は宮城県気仙沼。海から海へと走るこのルートを、美希は愛していた。土佐の昏い海とは違う、冷たくて開けた東北の海。その海を前にして潮風を胸いっぱいに吸い込む一瞬だけが、過去を忘れられ、今を生きる普通の人間になれる気がした。

 やがて、美希は福島県内の楢葉パーキングエリアにウインカーを出した。強風のため、一度ここで仮眠を取るべきだと判断したのだ。

 指定された大型枠にトラックを停め、重いエンジンを切る。途端に外の風の音が、さらに際立ってキャビンを打ち付けた。美希は運転席から後ろの仮眠用ベッドへ身体を移し、フロントガラスと左右の窓を覆う厚手の遮光カーテンを隙間なくピシャリと閉め切った。

 完全な暗闇。

 外で吹き荒れる二月の夜の風は、まるでかつて美希を追い立てた尾峰の村人たちの怒号のようにも、あるいは、彼女が封じ込めた情念の遠吠えのようにも聞こえた。

 美希は毛布を引き寄せ、自分の細い肩を両腕で強く抱きしめた。五十八歳の冷たく乾いた肌の感触。手で触れた腕の張りは失われ、女としての柔らかな輪郭も崩れている。初めて四国を出た時には存在していたはずの瑞々しさは今はない。

 これでいいのだと、暗闇の中で自分に言い聞かせる。誰の体温も知らないまま、この繭の中で一人老いていく。それこそが、彼女に許された唯一の贖罪の道なのだから。

 美希は吹き荒れる風の音を聞きながら、浅い眠りへと落ちていった。

(第二話へ続く) 

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