第十九話:境界を超える
ゴールデンウィークの五月四日、喧騒に包まれた東京を、美希は白のホンダ・フリードに乗って北へ出発した。
首都高速湾岸線から六号三郷線に入り、常磐自動車道を走った。柏を過ぎ利根川を越えた辺りで、周囲の景色が広大な関東平野へと塗り替えられていく。道幅は広くなり、走る車の数も一気に減る。いつも仕事でここを通っていた時、この変化に美希は安心したものだった。
プロフィアの大型トラックと違い、フリードの乗用車から見る世界は驚くほど生々しく、そして等身大の速さで流れていくように感じられた。美希は左手で自分の下腹部を守るようにそっと撫でた。そこにはまだ膨らみこそないが、確かに一つの命が、熱を持って存在している。
やがて美希は土浦北インターチェンジで高速を降り、国道354号線を東へ進路を取った。暫く走ると、突如目の前の視界が晴れ、全身を飲み込むような巨大な水面が現れた。霞ヶ浦だ。
霞ヶ浦大橋を渡り始めた時、美希は言い知れぬ圧迫感に包まれた。左右に広がる巨大な水面は一切の波を立てず、五月の陽光を跳ね返して、まるで神聖な鏡のように静まり返っている。
(……こんな場所が近くにあったなんて)
美希は直感した。この広大な湖沼群は単なる地形ではない。外の世界と野上の住む町とを完全に切り離す、巨大な分断の溝なのだ。橋の継ぎ目を越えるたびにタイヤが立てる、カチン、カチンという乾いた音が、彼女をこれまでいた世界から切り離し、結界を超えて不可侵の異界へと誘っていくような錯覚に陥る。自分が今まで東京と東北を高速道路で走っていた時には決して出逢うことのなかった、未知の領域。この鏡のような水面を越えた先には全く別の時間が流れている。そんな予感が美希の胸をざわつかせた。
霞ヶ浦を通過し、北浦に到達した。鹿行大橋を渡り、北浦沿いの県道を北上していく。湖面を左手に眺めながら、なんて静かな場所なのだろうと美希は思った。
美希はカーナビの指示に従い、さらに奥まった農村地帯へと車を進めていった。
広大な畑に両側を挟まれた細い市道を走り抜け、生い茂る雑木林を過ぎたところで、無機質な音声が目的地への到着を告げた。
車を停車し、ガラス越しに美希が見上げたその場所には、雑木林と畑に囲まれた小さな木造平屋が建っていた。無骨な金属葺きの外壁と屋根。果樹と畑と手作りの柵。玄関横の駐車スペースには、見覚えのあるメタルグレーのフォレスターが停まっている。
「あった。……ここだわ」
美希は小さく息を吐き、エンジンを停止してフリードから外に降りた。
彼がいる。
その事実に安堵し、美希は軽く家の外観を眺めながら、玄関先へと歩み寄った。
「きゃっ……!?」
その時だった。玄関ポーチにいた何者かが、美希の足音に気付いてハッと顔を上げた。
それは、綺麗な短毛の白猫だった。見知らぬ人間の気配に警戒心を露わにした白い獣は、侵入者である美希を鋭い目つきで一瞥するとサッと身を起こし、弾かれたように向かいの雑木林の奥へと逃げ去っていった。
美希は突然勢いよく飛び出してきた獣に酷く驚いたが、気を取り直して玄関脇のインターホンを押した。
ブゥーー。
旧式のブザー音が家の奥から微かに聞こえる。
しかし、中から何の返事もない。表札には『野上』の文字がある。間違いない。
もう一度押してみるが、やはり扉の向こうからは人の動く気配が全く感じられなかった。
(車はあるし、……近所に歩いて買い物にでも行っているのかしら)
美希は玄関から少し離れて、野上が帰ってくるのを待つことにした。
待つ間に美希は手足を伸ばし、深く深呼吸をした。ゆっくりと歩きながら、家の周囲や庭を眺めた。五月初旬の暖かい風が、茨城の土の匂いと新緑の香りを運んでくる。広い空に白い雲。鳥たちの生の囀りが林のそこかしこから聴こえてくる。家の脇には薪が一杯に積まれた薪小屋があり、屋根には煙突が見えた。
(案外、良いところじゃない……)
裏庭に回ると、そこには丁寧に耕された十坪ほどの畑があった。整えられた畝には、ほうれん草やネギが青々と葉を伸ばし、植えられたばかりの夏野菜の苗が気持ち良さそうに光を浴びている。畑の周りには梅や柿、栗、スモモの果樹が植えられ、キウイ棚もあった。梅の木には青い実が付いている。日当たりの良い南側の庭にはブルーベリーの低木が何本かあり、角には若々しい葉と朱色の小さな花弁をつけた細い苗木が植えられていた。
美希の脳裏に、以前、彼と食堂で交わしたわずかな会話が蘇る。
『茨城に小さな家を建てた。畑を作って、果樹を植えて、猫二匹と暮らしてる』
あの時、彼が照れくさそうに語っていた風景が、そっくりそのまま目の前に広がっていた。
(本当ね……。野上、あなたはここで、こんな風に暮らしていたのね)
美希は野上の、一人の生身の男の生活に触れたような気がして、胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。
さらに視線を移すと、南隣の土地に、作りかけの木造の小屋が建っていた。コンクリートの基礎の上に木の壁が立ち上がり、真新しい窓サッシが途中まではめ込まれている。壁には完成図らしい手書きの図面が画鋲で留められ、周囲には木材の切れ端や工具箱が置かれたままで、ついさっきまで誰かがそこで作業をしていたかのような生々しさがあった。
だが、その生々しい生活の痕跡を眺めているうちに、美希の中に奇妙な違和感が芽生え始めた。
畑も、小屋も、さっきまで人がそこにいたような息遣いを感じる。なのに、家全体を包む空気があまりにも静かすぎるのだ。何かが決定的に欠落している。生活の時間がある日突然、プツリと切り取られてしまったかのような、薄ら寒い虚無感。
(……なにか変ね……)
美希が不安に駆られ始めた頃、私道の向こうから、一人の小柄な老婆がこちらに向かってゆっくりと歩いてくるのが見えた。八十代半ばぐらいの年齢だろうか。手にはビニール袋を提げている。
「……お嬢ちゃん、そこで何やってんだい? 」
老婆は、見慣れない女の姿に不審そうに眉を寄せた。
「あっ……こんにちは、ここの野上さんの友人で、坊之宮 美希と申します。野上さんを訪ねて来たのですが……」
美希が努めて明るい声で挨拶をすると、老婆は手に持っていた袋をギュッと握りしめ、顔の皺を深く刻んで若い女の顔をまじまじと見つめた。
「あんた……野上さんの知り合いかい。……ミキ……ああ、あんたが……」
「はい。宮城の現場で知り合って……。あの……私のことご存じなんですか? ……失礼ですけど……、」
「いや、あぁ……私? 私はサト。そこに住んでる、ただの野上さんの隣人だよ。独り者どうしで親しくしてもらっててね。野上さんがいなくなってから、猫にたまに餌をやりに来てるんだよ」
サトは屈託なく美希に話した。
「猫? あ、そうなんですか。なんか野上さん、お留守のようで……。しばらく待ってたんですけど、彼、今、どちらへお出かけか……ご存じですか?」
サトの瞳に、微かな悲しみの色が浮かんだ。
「彼は、死んだよ」
「え……っ!? 今……なんて? ……なんておっしゃったんですか」
美希の身体が激しく震えた。三十四歳の若々しい顔が青白く染まっていく。
「一週間程前かな。大雨の日、この先の県道で。大型トラックに撥ねられてね。原因は分からないけど、即死だったようだよ。あんた……知らなかったのかい?」
トラック。
その言葉が、美希の脳内で凄絶な鉄の轟音となって鳴り響いた。
視界が、真っ赤に染まる。
自分が愛し、誇り、命を預けてきたあの巨大な鉄の車。愛する男と生きると決めて、自ら降りた城。それが、野上の肉と骨をグチャグチャに漉き潰す光景が網膜に焼き付けられる。それが、愛する男の命を奪ったというのか。どうして? 此処まで。逃げられないのか。
「彼が死んだなんて……、そんなの嘘でしょ、……嘘を言わないでよ。そんな馬鹿なことが、あるわけないでしょう……。冗談だったら許さないわよ!」
美希は狂ったように、サトの胸ぐらを両手で掴んだ。身長一七〇センチメートルの三十四歳の腕力は、老婆を軽々と浮かせる。その貌は、もはや美しい貌ではなかった。ただ絶望を食い破ろうとする、化け物の貌だった。
「……だって、ついこないだ……、野上は……あの人はここで私を待ってるって言ったんですよ。私に家の鍵をくれたんです。一緒に暮らそうって……。だから私、やっと……やっと来れたのに!」
美希はポケットから、マタニティマークの付いた男の鍵を取り出し、すがるような目でサトに見せた。
サトは胸元を掴む美希の手を静かに握って降ろさせた。そして首を振り、美希の腕を節くれだった大きな手でそっと抱いた。
「……気の毒だけど、もう彼はいないんだ。警察の話だと、身寄りは誰もいなかったらしい。私も本当に残念だよ……。仕事から帰って早々、何か小屋を作り始めたりして、やる気を出していたのにね……。あなた、とても親しい関係なのなら、遺品の整理でもしてあげておくれ。家の中は彼が亡くなった時のままだよ。」
サトはそれ以上語らず、美希のお腹にチラリと視線を送った。そして、空になっていた猫の餌皿に持参した餌を補充すると、悲しげな眼差しを残して家へと帰っていった。
美希はサトの言葉を聞いている間、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えていた。
「うぅ……っ!!」
サトの姿が見えなくなると、美希はたまらず激しく喉を震わせ、土の上に胃液を吐き出した。五月の眩しい陽光の下で、三十四歳の瑞々しい肉体が拒絶反応にのたうち回る。
来る途中で食べた食事の残滓が全て吐き出されると、美希は地流しで口と顔を洗った。そして意を決して、震える手付きで家のドアに鍵を差し込んだ。
カチャリ、という冷たい金属音が家内の静かな空気を震わせた。
扉を開けると、そこには美希の知る野上の匂いが満ちていた。
微かな煙草の残り香と汗の匂い。
食卓には飲みかけの珈琲カップが置かれ、ソファの上には彼が宮城で着ていた作業着のジャケットが脱ぎ捨てられていた。つい数分前まで彼がそこにいたかのような、あまりにも生々しい沈黙。すべてが彼が生きていた時のまま、一瞬で凍結したかのように。
「……嘘つき……」
美希は居間に立ち尽くしたまま、声を漏らした。
その声は次第に、喉を掻き切るような慟哭へと変わっていく。
「どうしてよ……どうして待っていてくれなかったの……! ずっと私を待ってるって言ったじゃない! ……お腹には……あなたの子がいるのよ……」
美希は冷え切った床の上に悲鳴を上げて泣き崩れた。今の美希にはただ、それしかできなかった。
また自分が愛する男の命が奪われてしまった。
(……どこまで私から奪えば気が済むの……)
窓の外では、野上が植えたリンゴの苗木が、初夏の風を受けて静かに揺れていた。女の絶叫は、誰にも届くことなく、茨城の森の深い沈黙の中に飲み込まれていった。
(第二十話へ続く)