※この作品はR-18です。

轍の向こう   作:影の設計士

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第二十話:純白の契りと、溶け合う想い

 深い闇に沈んでいた茨城の家に、白々と朝の光が差し込み始めていた。

 美希は居間のソファの上で、野上の脱ぎ捨てた作業着のジャケットを抱きしめたまま、いつしか気を失うように眠りに落ちていた。

 重い瞼を開けると涙はすでに枯れ果て、残されたのはぽっかりと胸に空いた巨大な欠落感と、下腹部で微かに脈打つ命の熱だけだった。

(私……これから……どうしたら……)

 美希はまるで深い泥濘に足を取られているかのような、おぼつかない足取りでゆっくりと立ち上がった。虚ろな脳裏に、サトが別れ際に言った遺品整理という言葉が蘇る。

(美希……しっかりしなさい)

 美希は野上の生きた証をこの目に焼き付けようと、静まり返った部屋の彼の痕跡を確かめ始めた。

 居間の隅にある大きな木製の机の前に来た時、上に置いてあった一つの封筒に目が止まった。

 封筒の表には、『美希へ』と書かれていた。一目見て、美希はそれが手漉きの和紙で作った封筒だと分かった。三双だろうか。薄く漉いた和紙を何双か重ねて取り、乾燥させることで一枚の丈夫な和紙にするのだ。紙の用途によって何双で仕上げるかを決め、封筒のようなものは二双か三双重ねた和紙で作る。

 その厚手の和紙で作られた生成りの封筒を美希は手に取った。分厚く、少しざらついた、素朴な手触りの白い封筒。自分が昔作っていた土佐和紙とは違う。野上が前に言っていた「西ノ内和紙」かもしれない。松島からの帰り道、「過去の泥を全部洗い流して、真っ白な和紙になりたい」と自分が語った言葉を、彼はしっかりと受け止めてくれていたのだ。

 美希は震える指先で封筒を開けた。

 中には綺麗に折り畳まれた二枚の紙――縁が茶色に彩られた婚姻届と、和紙でできた一枚の便箋が入っていた。

 婚姻届の夫の欄には、すでに野上の署名が記されていた。

『夫になる人 氏名:野上 有介 生年月日:昭和六十年 五月 五日生……』

 力強い男の文字。

(五日……、今日で四十一歳……)

 あの時あれだけ酷く拒絶し深く傷つけた女を、そして交わるたびに若返る化け物の女を。すべて引き受ける覚悟をこの一枚の紙に込めて、彼は私がここに来る日をずっと待っていたのか。

「……馬鹿よ、あなたは……本当に、大馬鹿よ……」

 美希は息を詰まらせながら、机に置かれていたボールペンを手に取った。

 そして、婚姻届の妻の欄に、迷いなく文字を刻み込んだ。

『妻になる人 氏名:坊之宮 美希 生年月日:昭和二十八年 一月 八日生』

「野上、ごめんなさい。……私……あなたに嫌われるのが怖くて、最後まで打ち明けられなかった……」

 実年齢七十三歳の長く生きすぎてしまった女と、永遠に四十歳の早く死にすぎてしまった男。

 美希がこれまで生きてきた七十三年の人生を、愛する男の隣に並べる。狗神の呪いによって三十九年分若返った、三十四歳の偽りの肉体。彼より三十二年も早くに生まれ、泥にまみれながらも必死に生き抜いてきた自分のすべてを、その瑞々しい指先で男に告白した。

 妻の欄を書き終えると、続けて美希は便箋を開いた。そこには、たった一行だけこう書かれていた。

『美希さん、ここで一緒に和紙を作ろう』

 その自分との未来を明るく記した野上の文字を読んだ時、外で見た作りかけの小屋が何だったのかを悟り、視界が滲むのを感じた。

――二つの違う植物が混じり合い、強靭な一枚の和紙になる――

 かつて美希が一人で強く生きていくために語った言葉が、違う意味を持って彼女の胸に突き刺さる。

 美希は男の問いかけの隣に、静かに、そして確かに、短い返事を書いた。

 

『はい。野上 美希』

 

 どんなに強く引っ掻いても破れない和紙に刻む、何百年も続く契りの言葉。

 それは、野上の不器用なプロポーズへの遅すぎる返信であり、自分自身の魂への誓いだった。

 美希は封筒の横に置いてあったビロードの小箱を開けた。そこには、気仙沼の駐車場で受け取ることを拒絶したプラチナリングが入っていた。

「ありがとう。あなたはずっと、私を信じて……待っていてくれていたのね」

 美希は溢れ出る涙で三十四歳の顔を歪ませた。指輪にそっと口づけし、左手の薬指にゆっくりと嵌めた。サイズはまるで計測したかのようにぴったりだった。

 そして涙を拭うと、慈愛に満ちた女の顔を取り戻して言った。

「野上、私はあなたの妻としてここで生きるわ。あなたの分まで。そしてあなたの子供を……ここで産む」

 それは、美希が初めて自らの意思で、呪われた坊之宮の姓と決別し、「野上 美希」として新たな名前を纏い生きていくことを決意した瞬間だった。

                 ・

 美希は家の外に出ると、吸い寄せられるように南の土地に建つ和紙小屋へと向かった。野上のようにガッシリとした屋根と壁。真新しい木の香りが、朝の空気に混じって鼻腔を突く。

 美希は小屋の中へ足を踏み入れた。コンクリートで打たれた床の上には、野上が使っていたであろう丸鋸や玄翁、そして丁寧に積まれた木材の切れ端の山が、最後に作業を切り上げた瞬間のままそこにあった。

 見上げれば、途中まで取り付けられた窓の向こうに、茨城の広い空が見える。

(私のために、あなたはここを造ってくれていた。私が大地に根を張るための場所を)

 野上が自分を思いながら一打ち一打ち釘を打っていた姿が、窓から射す光の中に幻影となって浮かぶ。その圧倒的な愛の質量に、美希はふらりと小屋の中央に立つ柱に寄りかかった。

 ここが、私の居場所よ。

 私は今日から「野上 美希」として、あなたの家で生きていく。和紙小屋を完成させて、あなたの人生の続きを私が引き継ぐ。薬指にはめた指輪の輝きと下腹部の熱を確かめながら、美希は静かに、しかし鉄のように強靭な決意を固めた。

 美希は顔を上げると、昨日出会ったサトの家へと向かった。

「あんた……どうしたの? こんなに朝早くに」

 サトは、女の薬指に光る指輪を見つめて言った。

「サトさん、ちょっとお聞きしたいことがあって……」

 美希はサトを真っ直ぐに見据えて尋ねた。

「野上さんの遺体は今、どこにあるかご存じでしょうか? 」

 美希の質問に、サトはその真剣な目を見て口を開いた。

「誰も引き取り手がいなかったからね。恐らく役所の手で火葬されて、遺骨の状態で保管されてるんじゃないかな……」

 その言葉を聞いた瞬間、美希の血が熱くなるのを感じた。

 野上が無縁仏として、冷たいコンクリートの棚に押し込められている。あんなにも家を愛し、温かく、土を慈しんだ彼が。

 美希はサトに礼を言うと、すぐに家に引き返した。

(野上、あなたを必ず家に帰してあげるからね……)

 誰にともなく呟いた美希の声には一切の揺らぎがなかった。

 美希はすぐさまフリードに乗り込むと、市内のドラッグストアへと向かった。

 遺骨を引き取るためには身分を証明する必要がある。美希の手元にあるのは、十年前に大型免許を更新した際に作った運転免許証だけだ。そこには「昭和二十八年生」と記載されている。

 しかし、今の美希の肉体は三十四歳の若さと美貌に満ちている。この姿で窓口に行けば、確実に怪しまれ、最悪の場合は警察沙汰になる。野上の遺骨を取り戻すためには実年齢である七十三歳の坊之宮美希にならなければならない。

 美希は化粧品コーナーで、濃い目のファンデーション、茶色のシャドウ、そして髪染めのスプレーをカゴに放り込んだ。

 家に戻った美希は、洗面所の鏡に映る瑞々しい三十四歳の自分の顔を冷徹に見つめた。

(狗神……お前の呪いには屈しないよ)

                  ・

 翌日、美希は購入したファンデーションを顔全体に厚く塗り、肌の透明感を完全に殺した。茶色のシャドウを使って、目尻、口元、そして首筋に深いシワの影を一本一本丁寧に描き込んでいく。頬骨と額には染みを書き足し、唇からは血色を奪う。最後に、艶やかな黒髪にシルバーのスプレーを吹きかけて白髪混じりの髪にし、自分が持っている中で一番老けて見えそうな衣服を身に着けた。

 一時間後。鏡の中にいたのは、美しい三十四歳の女ではなかった。長年トラックの運転席で日射しに晒されて生きてきた、野上と出会った五十八歳の頃の自分を更に老けさせた、老女の姿だった。

 老けメイク――それは変装という易しいものではなかった。美希は自らの手で、狗神に引き戻された三十九年の時間の蓄積を、若い肉体に上書きしたのだ。美希は帽子を目深に被り、免許証をポケットに忍ばせると、脚が不自由な振りをして役所へと向かった。

 市役所の窓口はゴールデンウィーク明けの初日で混雑していた。

「野上有介の遺骨が、こちらで保管されていると聞きまして……引き取りたくて参りました」

 七十三歳の姿をした女が、低くしゃがれた声で告げる。窓口の若い担当者は、彼女が差し出した運転免許証と目の前に立つ老婆の顔を交互に見比べた。

「坊之宮……美希様ですね。確認しますので、お待ちください」

 担当者は自分の席に戻り、コンピューターの画面を見た後に戻ってきた。

「お待たせしました。確認できました。野上有介さんですね。失礼ですが、故人とのご関係は? 」

「遠い親戚です。昔、有介さんには大変お世話になりまして……」

「そうですか。死亡日は四月二十四日です。警察で身元確認をした際に親族と連絡が取れないとのことで、市役所に連絡がありました。……こちらで火葬を済ませまして、野上さんの遺骨を保管しております」

「それは、大変お世話になりました。私は遠方に住んでいたのですが、先日お家に伺ったら亡くなったと聞いたんです。引き取らせていただけますか。立て替えていただいた費用は私が全額お支払いします」

 担当者は奥に下がり、上役に何やら相談をしていた。

「分かりました。それではこちらの書類にご記入ください」

 担当者の目には何の疑念も浮かんでいなかった。いくつかの書類に記入を済ませると、奥の部屋から白い布に包まれた四角い箱が運ばれてきた。

 美希はその箱を、落とさないように細い両腕でしっかりと抱きしめた。

 ずしりと重い。あんなにも熱を持っていた彼の体温はどこにもなく、ただひんやりと冷たかった。美希は泣き叫びたい衝動を必死に堪え、老女のふりをしたまま静かに役所を後にした。

 空が赤く染まり始めた頃、美希はフリードを運転して、再び静寂に包まれた家へ帰ってきた。

 玄関のドアを開け、家の中へ入る。老婆のメイクをした顔の下で、三十四歳の肉体がホッと安堵の息をついた。

 美希は箱をそっと食卓に置くと、思い立ったように洗面室へと向かった。

 鏡の中に映る、自らが描き込んだ老婆の顔。美希は溢れんばかりのクレンジングを両手に取り、その人工の皮膚を激しく擦り落とした。ドロドロと溶けて流れ落ちていく偽りのシワや染み。お湯で何度も顔を洗い流し、最後に冷たい水で一気に肌を引き締める。

 タオルで拭い、顔を上げた。

 鏡の向こうには、圧倒的な生命力に満ちた三十四歳の素顔があった。

 水分をたっぷりと含んでパンと張った、吸い付くような皮膚の弾力。指で押せば押し返してくる、若々しくしなやかな肉の質量。細く端正に流れる自前の美しい眉の下で、濡れた睫毛が気高くまたたいている。土佐の清流で泥を洗い流した真っ白の和紙のように、一切の濁りがない剥き出しの本物の美希の顔だった。

 美希はそのすっぴんの顔をじっと見つめた後、口紅を手に取った。

 色を乗せるのは、そこだけで良かった。

 鏡に向かい、血色の良い唇の上を滑らせるように、薄く、ほんのりと一筋の赤を引いた。それは、物言わぬ遺骨となって帰ってきた最愛の夫を迎えるための、一人の女としての、そして妻としての、厳かな身嗜みだった。

                  ・

 食堂に戻った美希は、箱を持って居間へ移動した。床に座り、テーブルに置いた箱をしばらく見つめると、白い布を解いて箱からそっと骨壺を取り出した。

 美希は正座し、その冷たい陶器の表面を両手で優しく包み込んだ。

 そして、蓋を開け、一片の骨を取り出して手のひらの上に乗せた。肉を失ったその白い骨は、彼のものとは思えないほど小さく、軽かった。

「野上、お帰りなさい。お家に帰ってきたわよ。……あなたの家に」

 彼女の声はどこまでも穏やかで、澄み切っていた。

「不思議ね……あなたとは一週間も一緒にいなかったのに……こんなにもあなたを……。私はもうどこにも行かないわ。安心して」

 その時だった。居間の壁の隅に付けられていた猫ドアが、カタン、と軽やかな音を立てた。

 一昨日、美希が家に着いた時、弾かれたように逃げていった、あの綺麗な白猫だった。シロは慎重な足取りで美希の方へと近づくと、テーブルの上の骨壷をじっと見つめ、鼻を寄せた。そして、自らの頬を美希の膝にこすりつけて小さくニャッ、と鳴いた。

「……シロ、帰って来たのね」

 美希は顔をわずかに綻ばせた。

「お前も、ずっと……主の帰りを待って」

 美希は震える手でシロの頭を触り、その柔らかな身体を抱き上げた。シロは喉をゴロゴロと鳴らした。腕に伝わる温かい生命の鼓動。野上がかつてここで愛でていた、生きている命の感触。

「主人を連れ戻して来たわ。……もう大丈夫よ。私もここにいるから……ずっとね」

 遺骨の前で微笑む彼女の姿は、もはや呪いに怯える女ではなかった。

 外の闇には、まだ狗神の忌まわしい気配が潜んでいるのかもしれない。それでも美希の心には、もう一切の迷いはなかった。野上美希として、彼が遺した新たな命と一匹の白猫と共に、この地で生き抜く覚悟を決めていた。

「野上、……私たちを守って」 

 女の強い祈りが、夜気と共に茨城の静かな森へと深く溶け込んでいった。

(第二十一話へ続く)

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