野上有介の四十九日が過ぎる頃には、茨城の森は深い緑に包まれ、初夏の湿り気を帯び始めていた。
美希は、野上が遺した平屋で「野上美希」としての生活を静かに始めていた。日中は彼が遺した畑を世話し、時折、未完成の和紙小屋の柱に触れては、そこに宿る男の気配を確かめた。その静謐な時間の中で、美希の下腹部は、確かな主張を持って少しずつ膨らみを増していた。
隣人のサトは、八十代半ばという高齢ながら、今も背筋の伸びた矍鑠(かくしゃく)とした老婆だった。彼女は独り身になった若い美希を放っておけず、事あるごとに煮物の皿を手にやってきた。
二人の交流は、猫の世話や野菜作りの相談を通じて少しずつ深まっていった。しかし、サトは美希と接するうちに、ある奇妙な違和感を拭えなくなっていた。
美希の立ち居振る舞い、野菜を洗う手つき、あるいは縁側でお茶を啜る時の遠くを見るような眼差し。それは、到底三十代の娘のそれではない。自分と同じか、あるいは自分以上に長く険しい道のりを歩んできた女の重みを感じさせるのだ。
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季節が秋へと移り、美希の腹が隠しようもなく大きくなったある日のことだった。
「美希さん、……あんた、どこの病院にかかってるんだい? 母子手帳はもらったのかい」
サトが心配そうに尋ねたが、美希は「大丈夫、自分なりに気をつけています」と言葉を濁した。
しかし、病院へ通っている形跡が一切ないことに、サトの疑念は怒りに変わった。
「馬鹿言っちゃいけないよ! あんた、自分の身体だと思って甘く見てるんじゃないよ。何かあったら腹の子はどうなるんだい!」
老婆の叱咤は、美希を心から案ずるがゆえの激しさだった。美希は、サトをこれ以上欺き続けることはできないと悟った。そして何より、一人で出産することへの不安。野上の遺した命を無事に産むためには、彼女の助けが必要なのだと本能が告げていた。
美希はサトを居間に招き入れると、居住まいを正して正座した。
「サトさん……。驚かないで聞いてください。私は本当は、七十三歳なんです」
美希は、淀みなくすべてを告白した。自身に染み込む忌まわしい血筋、過去の妊娠と堕胎、故郷の土佐から逃げ、三十年以上大型トラックのキャビンで孤独に生きてきたこと。そして、野上と出会い、彼と肌を重ねるたびに肉体が若返っていった狗神の呪いのこと。
「病院に行けば、私は化け物として怖がられるでしょう。そうなれば、この子を産ませてはもらえない。……でも、私はこの子を、彼との間にできたこの命を、どうしても産みたいんです。この家で。あなたの力を貸してください……」
長い沈黙が流れた。秋の虫の声が部屋の空気を震わせる。
サトは美希の姿をじっと見つめていたが、やがて、深く、重いため息をついた。
「……やっぱりそうだったかい。初めてあんたを見た時から、普通の若い娘じゃないと思ってたよ。あんたの目には、私と同じか、それ以上の長い地獄を歩いてきた年寄りの色が住み着いてる」
サトは自らの節くれだった、大きな掌を見つめた。
「私はね、昔この村で産婆をやってたんだ。この手で多くの赤ん坊を取り上げてきた。……神の呪いだか何だか知らないが、腹の中の赤ん坊には何の罪も汚れもない。あんたが背負ってきた地獄の泥、私が半分持ってやる。……ここで産みなさい。私が取り上げてやるよ」
サトは美希の若々しい、しかし小さく震える肩を力強く掴んだ。
老婆の掌の温かさに、美希は子供のように声を上げて泣いた。七十三年の人生で初めて、美希は母親という存在の慈愛に触れた気がした。
それからの日々、二人は血の結託をしたかのように出産への準備を着々と進めた。
未完成だった和紙小屋も、サトの親戚の大工が野上が遺した図面通りに建築してくれていた。小屋には十畳の土間の作業スペース、作業の合間の休憩用に小上がりの四畳半の畳間、土間と畳間の堺には野上の意思のような無骨な太い大黒柱が立ち、茶を入れるための簡単なキッチンも設えられた。
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本格的な冬を間近に控えた十一月二十四日の夕刻。茨城の空は、日没を前に赤黒く沈みかけていた。
臨月を迎え、腹がはち切れんばかりに膨らんだマタニティパジャマ姿の美希は、来年から始める予定の和紙づくりの準備をしに、出来たばかりの和紙小屋に来ていた。
「シロ、……帰るよ」
空気が急に冷え始め、美希は土間のストーブを消して母屋へ戻ろうと身体を屈めた。その瞬間だった。
腰の骨を巨大な万力で砕かれるような、暴力的な激痛が美希を襲った。
「うっ……!」
ついに、その時が来たのだ。美希は身動き一つ取れなくなり、冷たい土間に崩れ落ちて荒い息を吐いた。一緒に小屋に来ていたシロが主の異変に気づいて顔を寄せる。
そこへ、小屋の引き戸がガラリと開いた。
「美希さん、明日からぐんと冷えるよ。大根煮たからさ……」
煮物の入った小鉢を手にしたサトが立ち寄ったのだ。冷や汗を垂れ流し、青白い貌で土間に這いつくばっていた美希は、サトに気づくと助けを求めて手を伸ばし、どうにか立ち上がろうと足に力を込めた。
バシャッ――。
美希の股ぐらから、大量の羊水が土間へと流れ落ちた。破水だった。
「おや! 始まっちまったね!」
サトの顔から世話焼きの隣人の表情が消え去った。
「家へ戻るよ、肩を預けな!」
サトが駆け寄るが美希は首を横に振った。陣痛の波が激しく、母屋までのわずかな距離すら歩ける状態ではない。それに何より、美希は野上が自分のために建ててくれた和紙小屋――真新しい木の香りがする、この『木の繭』の中で産みたいと思った。
「サトさん……動けないわ。私、……ここで産む」
美希の決死の眼差しを受けたサトは即座に腹を括った。
「……分かったよ。そこまで言うなら、ここを産室にしてやる。その代わり、あたしが戻るまで絶対にいきむんじゃないよ!」
夕闇が迫る中、野上が遺した和紙小屋が、命を産み落とすための産小屋へと変わった。
そこからのサトの動きは、八十代半ばとは思えないほど迅速だった。彼女は完全にプロの産婆の顔に戻っていた。
サトは母屋と小屋の間を息を切らせて何度も往復し、母屋に準備していた清潔な古布やさらし、湯を沸かすための大鍋や木桶を運び込む。その手には、何十年も村の女たちの命を繋いできた、使い込まれたハサミや絹糸といった産婆の道具も握られていた。真新しい和紙小屋に、サトが古い命の知恵と技術を運び込んでいく。
サトは土間にうずくまる美希の身体を力強く支え、小上がりの四畳半の畳間へと運び上げた。美希を畳に寝かせると、消えたばかりのストーブに再び火を入れ、室内の温度を一気に上げる。
湯を沸かす準備を済まし、サトは美希のパジャマのボタンをパチパチと弾き飛ばすように全て外した。美希の重い腰を抱え上げるように浮かせ、畳と背中に挟まれたパジャマをずりずりと肩甲骨の下までたくし上げる。剥き出しになった美希の胸は青い静脈を浮き立たせ、はち切れんばかりに張っている。サトはその母の器官を冷気から守るように、タオルケットを手早くバサリと掛けた。
大鍋からはゴウゴウと湯気が立ちのぼり、小屋の中は新畳の香りと、鉄錆に似た血の匂いが混じり合い始めていた。
美希にとって、これは三度目の分娩だった。
一度目は、十五の冬。雪の中で、実兄との間にできた晃を産んだ。母に死産したと嘘をつかれ、ただ痛みと悲しみの中で絶望した。
二度目は、晃との間に宿した禁忌の命。三十二年前、徳島の冷たい手術台の上で掻き出された、名もない胎児の拭えぬ記憶。
そして今、三度目。初めて血の繋がりのない男を愛してできた子供の出産は、かつてのどの痛みよりも凄絶だった。
破水から七時間が経過していた。
ストーブの熱気と大鍋からシュンシュンと沸き上がる湯気が小屋のガラス窓を白く曇らせる。
美希の陣痛はもはや波ではなく、絶え間なく押し寄せる暴力的な圧力へと変わっていた。
魂は過去のお産を覚えている。だが、三十四歳まで急激に巻き戻された今の美希の肉体は、まるで一度も開いたことのない堅木のようだった。
「いいかい、美希さん。焦るんじゃないよ。赤ん坊が自分の力で旋回して降りてくるのを、あんたの体が『道』になって迎えてやるんだ」
サトの声が冷徹なまでに響く。美希は野上が魂を込めて立てた大黒柱に、文字通りしがみついていた。
「……んぐぅ、あああああ……っ!」
腰から下がバラバラに千切れるような感覚。強烈な排便感に似た圧力が、肛門と産道を内側から容赦なく押し広げる。サトは手際よく美希の膝を立て、腰の下に何枚も重ねた古布を敷き、その股の間をじっと見据えた。
「頭が見えたよ。……まだだ、まだいきむんじゃない。息を吐いて、力を逃がしな!」
美希の股の間から、血と粘液に濡れた黒い髪が、数センチだけ顔を覗かせる。だが陣痛が引くと、それは再び奥へと吸い込まれていく。この進んでは戻るというもどかしい工程――排臨が、産道を赤ん坊の頭の形に整えるために必要な命の研磨だった。
一時間後。ついに赤ん坊の頭が戻らなくなる。発露だ。
「よし、次で出すよ! 長く、細く、腹の底から絞り出すんだ!」
美希は柱に指を食い込ませ、獣のような咆哮を上げた。
「ああああああああああああああああああっ!!!」
火を吹くような焼ける熱さが股間を走り、ミシリと会陰が裂ける感覚。その直後、ヌルリとした何とも言えない解放感と共に、重い塊が滑り出した。
ドバッ、という音と共に、残っていた羊水と血の塊が青い畳の上に一気に噴き出す。
「肩が出たよ……。はい、もういい。力を抜きな」
サトの両手に、ずっしりとした重みのある命が収まった。
日付が変わろうとした、その直前。
「おぎゃあああ!! おぎゃあああ!!」
小屋中の壁に反響する、裂けんばかりの力強い産声。
「美希さん! 元気な男の子だよ!」
美希は荒い息を吐きながら、柱から手を離し、仰向けに崩れ落ちた。
サトの手際はいささかも揺るがなかった。
手早く赤ん坊の口と鼻の粘液を拭い、声を確かめると、指先でへその緒をギュッとしごいて中の血液を母体側へと押し戻し、消毒した絹糸でへその緒を二箇所、男結びで指が白くなるほど力一杯に縛り上げた。
「切るよ」
コンロの火で熱したハサミが、鈍い音を立てて肉の綱を切り分ける。
ブチリッ。
美希と赤ん坊を繋いでいた最後の管が切り離された瞬間だった。サトは赤ん坊の身体を冷やさないように、すぐに柔らかな産着でくるんだ。
だが、作業はまだ終わらない。
「お腹が張るよ、もう一回だ。……胎盤を出すんだ」
赤ん坊を抱きたい一心で両手を伸ばす美希を、再び軽い陣痛が襲う。サトが美希の腹を優しく、かつ的確に圧迫すると、ズルリという重苦しい感触と共に、直径二十センチほどの赤紫色のレバーに似た巨大な肉片が、大量の血の塊と共に外へ滑り出た。
命を育んできた、役目を終えた社の残骸だった。
サトはそれを手早く桶に片付け、お湯に浸したタオルで美希の血まみれの足と腰を丁寧に拭い始めた。
「……終わったよ。よく頑張ったねぇ、美希さん」
ようやく、赤ん坊が美希の胸に抱かされた。
湯気の立つような小さな温もり。野上の目元にそっくりな、紛れもない、彼の息子。美希の顔から苦悶の表情が消え、血の気が引いていた青白い肌に母親としての柔らかな色が戻り始める。
「……野上。見てくれた……? 私、産んだわ」
美希は深く、深く、肺の奥まで空気を吸い込んだ。
生きている。
二人で、生きている。
亡き夫に呼びかける美希の頬を静かな涙が伝う。彼女の背負ってきたこれまでの苦しみは、すべてこの瞬間に報われたかのように思えた。
「仕上げにまだやることがあるよ」
サトは美希の腕から引き離すようにして赤ん坊を引き上げると、長いさらしを手に取った。急に中身だけが空っぽになった、まだ膨らんでいる彼女の身体を安定させる必要がある。
「体を締めるよ。バラバラになった骨盤を元に戻さなきゃ、明日は立ち上がれなくなるからね」
サトは美希の腰の横に深く膝をつき、手際良くその腰下へとさらしを通した。両端を自分の手に巻き付けると、自らの体重をぐんと後ろへ倒すようにして、一気に引き絞った。
「ちょっと我慢しなよ」
メリッ、と綿の布が軋む音が鳴る。腕力ではなく、何十年も命を取り上げてきた老婆の骨と重さが、美希の緩んだ骨盤を容赦なく、そして完璧な塩梅で締め上げていく。
骨盤の底部から胸の下まで、何重にも寸分の隙もなく。それは、崩壊寸前の美希の身体を強固に繋ぎ止めるための補強そのものだった。
さらしが締まるたびに、美希の体の中に一本の芯が戻っていく。
「ふぅ……」
美希は一息つき、深く目をつむった。
サトは、めくれ上げていた美希のパジャマを静かに膝まで引き下ろした。胸の前で左右の身頃を軽く重ね合わせると、その柔らかな布の隙間に産着に包まれた赤ん坊を滑り込ませた。美希の素肌の鼓動を直接伝えさせる。そして、重みのある厚手の毛布を二人の顎のあたりまでそっと掛けた。
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小屋の中には、赤ん坊の安らかな寝息と、サトが片付けをする物音だけが響いている。
ストーブの上では、茶の湯を沸かすためにかけた小さな鍋が気泡を立てて微かに震えていた。
深夜二時。外は風が止み、死んだような静寂が支配していた。
戦いは終わった。そう誰もが信じて疑わない、あまりに清浄な至福の時間だった。
ストーブの柔らかな熱にまどろんでいたシロが、スッと顔を上げ、耳をそばだてた。
直後、遠くでパチッ、と乾いた何かが爆ぜる音がした。続いて、カサッカサッ、と枯れ葉を踏み締めるような足音。
『ウゥゥ……』
小屋の外から、聞く者の骨の髄を凍らせるような低い唸り声が響いた。
美希はハッとして目を開け、遠のきかけていた意識をガラス戸の先へ送った。
白く曇るガラス戸の向こう、闇の中で小屋の前に立つ、あの骨白色の三匹の野犬の気配を感じた。
「……来たのね」
美希は、胸元で乳房を吸う赤ん坊を守るように強く抱きしめた。
呪いは終わってはいない。新しい命の誕生とともに、狗神はその牙をさらに研ぎ澄ませて、再び美希の前に姿を現したのだ。
(第二十二話へ続く)