数時間の仮眠を終え、再び常磐自動車道を北へ走り出した頃には、暴力的な夜の風は嘘のように凪いでいた。
夜明け前の深い闇の中を、白銀の巨大な車体が息を潜めて滑っていく。ヘッドライトの冷たい光を受けた路肩の残雪だけが、氷山のように連なり青白く輝いていた。
美希の操る日野プロフィアは、背後の荷台に十トンの精密機器と建築資材を背負っている。車両そのものの重さと合わせれば、総重量は二十トンに迫る。
下りになるとその巨大な質量が背中を力強く押し出して来る。美希は勾配に差し掛かる前にクラッチを踏み込み、プシューという鋭い圧縮空気の音とともにシフトレバーを的確な段数へと叩き込む。左手をステアリングの脇へ滑らせて排気ブレーキのレバーを弾くと、猛獣が喉を鳴らすようなエンジンブレーキの重低音がキャビンを満たした。
この物理的な重さと、それを自分の手足でねじ伏せているという確かな手応えだけが、美希を今、この現実の世界に繋ぎ止めている。
時刻は午前四時過ぎ。二月の空はまだ完全な夜の底に沈んでいる。
連続するオレンジ色の街灯が薄暗いキャビンの中を滑っていく。ふと右のサイドミラーへ視線を向けた時、真っ暗な外の景色を背にしたサイドガラスに、街灯の光を浴びた自分の横顔が浮かび上がっているのが見えた。
目尻に刻まれた深い皺。長年の不規則な生活と紫外線で乾燥した肌。五十八歳の年齢相応に老いた自分の顔を見るたび、美希は奇妙な安堵を覚える。
普通に老いていくこと。それが、彼女がこれまでどれほど渇望した「人間としての証明」であるか、他人は誰も知らない。
・
——坊之宮。
その名を口の中で転がすだけで、むせ返るような湿気を帯びた高知の空気が蘇ってくる。
三十二年前。四国の深い山間に位置するその村で、坊之宮家は古くから畏怖と嫌悪の対象だった。『狗神』を憑かせ、使役する血筋。村人たちは表向きは美希たち一族を敬いながらも、裏では「狗の血が混じっている」「関われば呪われる」とひそひそと囁き合っていた。
狗神の生成過程は極めて冷酷なものだ。
生きた犬を首だけ地上に残して土に埋め、目の前に食物を置く。数日が経ち、極限まで飢えた犬の意識がその食物に完全に集中した一瞬を狙って、背後から刃を振り下ろし、その首を刎ね落とす。
食物への執着と、満たされなかった飢え。人間がその最期の怨念だけを抽出し、呪いの道具として封じ込めたものが狗神である。
狗神筋の女が誰かを羨んだり、激しく憎んだ時、狗神はそれを餌として動き出し、呪った相手を殺して主人の願いを叶える。坊之宮一族の歴史は、そうして他者の命や財産を喰らい尽くして繁華し、狗神もまた自身の依代となる女の血脈の維持を求める、血塗られた業の記録でもあった。
美希自身、その迷信をどこかで軽蔑し、自分は普通の女だと信じようとしていた。だが、血の呪縛は最も残酷な形で彼女の前に正体を現した。
街に赴任してきた青年の名は、晃。二十六歳になる彼は、美希が十五の冬に産み落とし、死産したと聞かされていた実の息子だった。
どうしてあの一線を越えてしまったのか、今でも明確な理由はわからない。ただ、逃れられない血の引力のようなものが確かに二人の間に存在した。互いの孤独と、村の閉塞感。そして、同じ濃い血を分け合った者同士にしか分からない、狂おしいほどの共鳴。
初めて息子と身体を重ねたあの日、数十年ぶりに感じた絶頂の中で、美希は女としての幸福感と本能の欲望の沼に、ただ深く溺れていた。
翌朝、鏡の前に立ち、自分の肉体の変化に息を呑んだ。
四十一歳の女の顔から、生活の疲れや微かな老いの兆候が、一夜にして消え去っていたのだ。肌は異常なほどの張りを取り戻し、身体の奥底から得体の知れない生命力が湧き上がっていた。
狗神筋の女は、男と交われば血が歓喜し、肉体が若返る。
伝承でしかなかった狗神の呪いが、紛れもない現実として自分の細胞を書き換えていく悦びと恐怖。もしこのまま晃と交わり続ければ、自分は若さを貪る化け物になってしまう。
だが、その恐怖に戦慄する暇すら運命は与えてくれなかった。狗神の祟りを恐れた村人たちの狂気が、禁忌を犯した二人を容赦なく追い詰めたのだ。
——ダァーン!
今も耳の奥底にこびりついている、鼓膜を劈(つんざ)く猟銃の轟音。目の前で鮮血を吹き出し、泥の中に崩れ落ちた晃の重さ。
「美希さん……」
血の泡を吐きながら――最後に交わった男は、理不尽な暴力によって命を散らした。若さを取り戻した忌まわしい肉体を抱えた自分だけが生き残った。
だから、逃げた。
呪われた因習に縛り付けられていた自分の過去から。そして、愛する者を平気で撃ち殺す外界から。
二度と誰とも関わらず、誰も自分の領域に踏み込ませないために。分厚い鉄板とガラスに守られたこの十トントラックのキャビンは、美希にとって外界の悪意を弾き返す絶対の防壁であり、同時に、亡き晃の記憶を乗せて彷徨い続ける、動く墓標だった。
美希はフロントガラスの向こう、白々と明けていく冬の空を見つめ、ハンドルを握る手に力を込めた。革手袋の下の掌にじわりと汗が滲む。
三十二年間、誰にも肌を許さず、このトラックのキャビンだけを城として生きてきた。孤独は呪いを封じ込めるための唯一の鍵だ。総重量二十トンの鉄の塊を走らせながら、美希は自らの過去ごと、アスファルトの彼方へ置き去りにしようとアクセルを前へ踏み込んだ。
(第三話へ続く)