その日の早朝の空は、重く垂れ込めた鉛色をしていた。
美希は福島県を抜け、宮城県に入る。仙台港の工業地帯を過ぎ、三陸道へルートを変えた。
窓から見える景色は、両側に冬枯れの樹木が広がる低い丘陵地へと変わっていく。いつもと変わらない静かで単調な道のりだ。
終着地の気仙沼まであと約七十キロという地点、石巻付近を通過しようとしたその時だった。
『ピロロン!ピロロン!地震です!』
突如、ダッシュボードに固定していたスマートフォンからけたたましい電子音が鳴り響き、キャビンの静寂を切り裂いた。『緊急地震速報』だ。画面が毒々しい赤色に点滅している。
直後、前方に架かる巨大な電光掲示板もまた、不吉な朱色に切り替わった。
『三滝堂IC付近・道路損壊』
『 地震 ・ この先 通行止め 』
血のような赤文字が目に飛び込んでくる。少し遅れて、美希の足元にも小さな振動が伝わって来た。
(震源は私が行く方角だわ……)
美希はブレーキペダルに足を置き、プロフィアを僅かに減速させながら無線のスイッチを入れた。
ノイズの向こうから、顔見知りのドライバーたちの切羽詰まった声が飛び込んでくる。
『……おい、聞いたか!? 三陸道、通行止めになったぞ!』
『……三滝堂の盛土が崩れているらしい!』
『……美希さん、そっちは大丈夫か?』
美希は情報を頭で素早く整理しながら、短く応える。
『……こっちは今、石巻。無事よ。私は河北から国道に降りることにするわ』
美希は短く舌打ちをすると、迷うことなく河北インターチェンジの出口ランプへとプロフィアの巨体を滑り込ませた。三陸道での足止めを避けるため、国道45号線へ迂回して気仙沼を目指す。それが、彼女が弾き出した最善のルートだった。
北上川沿いを暫く北上し、東浜街道へ入って十キロほど進んだ時、 美希は大きく息を呑んだ。
ブラインドカーブを抜けた美希の前方に、突如、巨大な灰色の壁が出現したのだ。
その瞬間、下から突き上げるような暴力的な衝撃が、美希のトラックを襲った。余震だ。
「っ……!」
美希は咄嗟にハンドルを両手で強く握りしめた。総重量二十トンの鉄の獣が、まるで見えない巨人の手に掴まれて揺さぶられているかのように激しく左右に振られる。背後の荷台に積まれた精密機器と建築資材が重々しい軋み声を上げる。
美希の身体は長年の経験に従って無意識に正確に動いていた。ハザードランプを点灯させ、暴れるステアリングを腕力でねじ伏せながら、ブレーキを一定の力で踏み込んでいく。
そして、後続車に追突されないように慎重に減速し、プロフィアの巨体を完全に停止させた。
美希は停止した車の中で軽く息を吐き、ただひたすらに、フロントガラスの向こうでアスファルトがのたうち、電柱が鞭のように大きく波打つ光景を睨みつけていた。足元からは大地の呻き声のような地鳴りが、エンジンの振動をかき消すように響いてくる。
数秒後、狂ったような大地の揺れがゆっくりと収束していった。
道が、完全に断たれていた――。
山肌を覆っていた大型のコンクリートの擁壁が、地震の暴力的な力によって無惨にも崩落していたのだ。見上げるほど巨大な灰色の塊と、赤茶けた大量の土砂がアスファルトを飲み込み、その先の風景を完全に遮断していた。
それはまるで、外界との接触を拒絶する美希の冷徹な意志そのものが、物理的な壁となって具現化したかのような、圧倒的な絶望の光景だった。
「ここまで、か……」
美希の後ろには数台の乗用車が続いていたが、先に進めないと判断すると、次々とUターンをして今来た道を引き返していった。物流の動脈が完全に断絶した瞬間だった。
目の前には崩れた擁壁と滑落した土砂の山があり、上からは土塊がぽろぽろと転がり落ちて来ている。
(ここから少しでも離れなくては……)
美希は後続車がいなくなったことを確認すると、崩落現場から百メートルほど手前――対向車線側にあった幅広の路肩スペースへ、トラックをゆっくりと後退させた。
全長十二メートルにもなるプロフィアでは、片側一車線しかないこの道幅でUターンすることは出来ない。山肌から離れた避難場所をひとまず確保した美希は、ようやくエンジンキーを左に回した。
プシューッ、とエアの抜ける音とともにエンジンの低い振動が止まった時、キャビンの中は異様な静寂に包まれた。
いつもなら、静寂は美希にとっての安らぎだった。走り続けることで過去から逃れ、この冷徹な繭の中で自分を守り続けてきた。しかし、今は違う。自分の意志に関係なく、走ることを強制終了させられたという事実が、美希の胸の奥に得体の知れない不安を掻き立てていた。心臓の鼓動が早鐘を打つ。
暖房の切れたキャビンには、二月下旬の刺すような冷気が床下からじわじわと這い上がってくる。
美希は遮光カーテンを引き、ベッドスペースに潜り込んで毛布を被った。目を閉じると、先ほどの地鳴りが耳の奥深くで、あの日の猟銃の轟音へとすり替わっていく。
(止まってはいけない。止まれば、過去の亡霊が追いついてくる……)
毛布の中に身を置きながら、美希はただ時間が過ぎ、道が再び開かれることだけを祈っていた。
だが、この崩落した擁壁の向こうから、美希の凍りついた三十二年の時を打ち砕くことになる一人の男——左脚を引きずった土木技師が、泥にまみれてやって来ることを、この時の彼女はまだ知る由もなかった。
(第四話へ続く)