宮城県北東部を震源とした地震が発生してから、すでに半日が経過していた。傾きかけた冬の陽射しの中、時折吹く海からの強風が、泥と粉塵の混じった空気を運んでくる。
野上有介(のがみ ゆうすけ)は、無惨にひび割れたアスファルトの上に立ち、目の前に広がる土砂の山をただ呆然と見上げていた。
山肌を覆っていたはずの巨大なコンクリートの擁壁が根本から崩れ、何千トンという赤茶けた土砂とともに道路を完全に飲み込んでいる。
四十歳の野上にとって、この崩落現場は単なる自然災害の爪痕ではなかった。十二年前、大手ゼネコンの若き現場監督として、彼自身が心血を注いで築き上げた擁壁だったのだ。
「間違いない。……俺が、造った壁だ」
誰にともなく呟いた声は、遠くに聴こえるサイレンの音にかき消された。
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今朝早く、茨城県の自宅で無為な日々を過ごしていた野上のスマートフォンが鳴った。かつての古巣であるゼネコンからの、悲痛な応援要請だった。
お前が担当した宮城の擁壁が崩れた。人手が足りない。現地の地盤を知っているお前の力が要る。電話越しの元上司の声に、野上は露骨に顔を歪め、舌打ちをした。
野上はとうの昔に土木の世界から足を洗っていた。
理由は、左脚の怪我だ。五年前、トンネル工事現場での崩落事故に巻き込まれ、左の大腿部から膝にかけて複雑骨折を負った。度重なる手術とリハビリの末に、日常的な歩行はできるようになったものの、エリート街道からは完全に外れた。
普段は普通に歩ける。だが、今日のような芯から冷え込む二月の寒風や、足場の悪い泥濘、そして何より極度の精神的ストレスが重なると、その時の手術の大きな傷跡が焼け付くように疼き出し、どうしても左脚を引きずってしまうのだった。
――冗談じゃない。俺はとうに足を洗った人間だ。現場を指揮する気など毛頭ない。
電話口でそう冷たく断りかけた。だが、崩れ落ちたのが他でもない『自分が造った壁』であり、それが人々の命綱である物流の動脈を切断していると聞かされれば、不器用な土木屋としての最後の業が彼を縛り付けた。
野上は酷く嫌々ながらも、埃を被った作業着を納戸から引っ張り出し、茨城からこの被災地へと車を走らせてきたのだ。
野上はズボンの上から左の太腿を強くさすり、忌々しげに顔をしかめた。ズキズキとした痛みが神経を逆撫でする。脚の痛み以上に、自分の仕事が自然の力の前にあっけなく敗れ去ったという圧倒的な無力感が、彼を泥の底へと引きずり込もうとしていた。
「野上さん! 二次被害の危険があります! 向こうに駐車している車両を、もっと後方へ下げさせてください!」
後輩の作業員が泥だらけのヘルメット越しに叫んだ。
野上はハッと我に返った。過去の感傷に浸っている場合ではない。崩れた擁壁の斜面からは、今もボロボロと乾いた土塊が落ちてきている。
「わかった、俺が前の車から誘導する!」
野上は痛む左脚を引きずりながら、冷たいアスファルトの上を歩き出した。
崩れた土砂の山に阻まれ行き場を失った一台の大型トラックが、百メートル手前の谷側の広い路肩スペースに駐車していた。野上は停まっていた車へと向かった。
それは、白銀の車体に青のラインの入った十トン・ウイング車だった。
素人目には安全な場所に駐車しているように見えるが、長年土木に携わってきた野上の目から見れば違っていた。度重なる余震でできたのだろう。アスファルト表面に微細な亀裂が走り、路盤を下から支える盛土そのものが谷底へと滑り落ちようとしている、危険な場所だった。いつまでこの巨大な重量を支えきれるか分からなかった。
「おい、運転手! 窓を開けてくれ! ここは危ない!」
野上は見上げるほど高い助手席のドアに近づき、凍えた拳で分厚い鉄板をバンバンと叩いた。
反応はない。遮光用の分厚いカーテンが引かれており、中の様子は全く見えなかった。まさか、地震のショックで意識を失っているのではないか。
「頼む、開けてくれ!」
野上がさらに強くドアを叩き、よじ登るようにしてドアハンドルに手を掛けようとしたその時だった。
カチッ、と車内でキーが回される音が鳴り、モーターの駆動音とともに助手席の窓がゆっくりと下がり始めた。
野上は動きを止めて見上げた。
開いた窓の隙間から、暖房の余熱と微かなコーヒーの匂いが冷たい外気へと流れ出してくる。そしてカーテンの隙間から現れたのは、彼の予想に反して、一人の女の顔だった。
年齢は五十代の後半だろうか。顎のラインで無造作に切り揃えられた白髪混じりの黒髪に、陽に焼けた肌、目尻に深く刻まれた皺。化粧の気配は一切ない。
だが、野上は自分を上から見下ろしているその顔を見て、思わず息を呑んだ。
痛みに耐え、無力感に押し潰されそうになりながら泥まみれで立っている自分とは正反対の、圧倒的な強さが感じられた。
彼女の漆黒の双眸は、ただ静かに、そして鋭く、眼下の野上を射抜いている。
「……何?」
低く、よく通る声だった。
総重量二十トンもの鉄の獣に乗るその女——坊之宮美希と、過去の傷に苦しみながらも現場に駆けつけた土木技師――野上有介。
二月の冷たい風が吹き荒れる崩落現場で、決して交わるはずのなかった二人の視線が、初めて真っ直ぐにぶつかり合った。野上の左脚の奥で、痛みとは異なる、奇妙な熱が小さく跳ねていた。
(第五話へ続く)