※この作品はR-18です。

轍の向こう   作:影の設計士

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第五話:砂上の誘導と、敗北者の告白

「……何?」

 見上げるほど高い運転席から見下ろす女の瞳は、二月の冷たい海のように静かで、底知れなかった。

 野上は左脚の古傷の疼きに顔をしかめながらも、声を張り上げた。強風に負けないよう、腹の底から絞り出す土木屋の怒声だ。

「ここは路盤が崩れ始めている! あんたのトラック、積荷と合わせて二十トン近くあるだろう。アスファルトの下はもうスカスカだ、いつ路肩ごと崩れ落ちてもおかしくない! 」

 美希は眉一つ動かさなかった。ただ、サイドミラー越しに自分のトラックの足回りを一瞥し、再び野上へと視線を戻す。

「降りろ! トラックを捨てて、今すぐ俺と逃げるんだ!」

 野上の怒声に、美希は静かに首を横に振った。

「……それはできないわ」

「あんた正気か!? 荷物より命の方が——」

「出来ないと言っているの」

 美希は理由を語らなかった。その瞳には、路肩が崩落して谷底へ落ちる恐怖よりも、もっと深く暗い何かが横たわっていた。

 野上は息を呑んだ。現場で何人もの職人を見てきた彼にはわかる。この女は、本気だ。理屈で動かせる人間ではない。

「……クソッ。死にてえのか、あんたは」

 野上は忌々しげに舌打ちをし、トラックから数歩離れて大きく腕を振り上げた。

「百五十メートル後ろの『もしもしピット』まで下げるぞ! 俺が誘導するから、死んでも俺の合図を見落とすなよ!」

 埃にまみれた作業着。無精髭。そして何より、彼が左脚を不自然に庇って立っていることに、美希の鋭い観察眼はすぐに気づいた。普段なら「素人が何を言うか」と窓を閉めるところだが、眼下の男から漂う土の匂いと、切羽詰まった瞳の奥にある現場の人間特有の凄みが、美希に理屈抜きの信用を抱かせた。

「……わかった。誘導を頼む」

 美希は短く応えると、開いた窓から吹き込む風を意に介すことなく、鋭い視線をサイドミラーへと移した。直後、日野プロフィアの巨大な直列六気筒ディーゼルエンジンが、地鳴りのような咆哮を上げて目を覚ました。

 野上は痛む左脚を引きずりながら、トラックの後方へと小走りで向かった。

 道幅は狭く、所々に亀裂が走っている。野上は飛散した土砂が薄く積もるアスファルトの上に立ち、大きく腕を振ってバックの合図を送った。

「オーライ、オーライ! ゆっくりだ、右に寄り過ぎるな!」

 美希の運転は、野上が舌を巻くほど正確で、繊細だった。

 総重量二十トンの巨体を後退させるのは、並の技術ではない。少しでもクラッチの繋ぎを誤れば、表面の砂にタイヤを滑らせるか、最悪の場合は目に見えない路盤の緩みを踏み抜いて横転する。しかし美希は、巨大なハンドルを捌く腕と、繊細なクラッチワークを刻む足先を人外の精度で操り、野上の手の動き一つ一つに寸分の狂いもなく車体を同調させていった。

 白銀の鉄の塊は唸りを上げながら、まるで実体のない黒い雲が形を変えるような不気味なまでの滑らかさで、崩落の淵を泳いでいく。

 ……なんて見事な腕だ。

 野上は誘導しながら、サイドミラーの向こうで真剣な横顔を見せる美希に、土木技師としての純粋な感嘆を覚えていた。

 だが、二月の容赦ない寒風が野上の体温を奪い、左脚の傷が肉体をギリギリと締め上げる。痛みに顔が歪み、足取りが大きく乱れた。路面に散乱した土塊に足を取られ、野上は思わず硬いアスファルトに膝をついた。

 その瞬間、トラックの動きがピタリと止まった。

 ミラー越しの美希が、野上の不調を察知して即座にブレーキを踏んだのだ。彼女は決して無理をしない。機械だけでなく、外にいる人間の限界すらも見極めている。

「……大丈夫だ! オーライ!」

 野上が痛みを堪えて立ち上がり、再び右手を大きく回す。トラックは低い唸り声を上げ、再び後退を始めた。

 

 十五分後。

 左手の山肌がすり鉢状に後退し、道幅が十三メートルほどに広がる『もしもしピット』へと差し掛かった。ひび割れのない、強固な地盤だ。

 野上は大きく両腕を交差させ、一度トラックを停止させた。

「ここで頭を反対に向ける! 転回だ!絶対に落とさねえから、俺の誘導を信じて踏め!」

 吹き荒れる風の中、野上の怒声がキャビンへ届く。美希は無言で頷き、ギアを前進へと叩き込んだ。

 十三メートルの道幅は、乗用車なら広大だが、全長十二メートルの十トン車にとっては息が詰まるほど狭い。

 野上は反対車線——下は十数メートルの崖が落ち込む谷側の路肩——のギリギリに立ち、誘導の腕を大きく振った。

「右へいっぱいに切れ! 谷側へ頭を突っ込め!」

 美希は巨大なステアリングを素早く回し、プロフィアのキャブを谷側へ向けて前進させる。フロントガラスの目の前に、何もない空と、深い谷が迫ってくる。普通なら恐怖でブレーキを踏みしめるところだが、美希の横顔に一切の焦りはない。

 崖っぷちに立つ野上の「ストップ!」の声と完全に同調するタイミングで、ガードレールすれすれの位置で完璧に車体右前輪を止めた。プシューッ、と鋭いエア音が鳴り、即座にギアがバックに入る。

 ここからが神業だった。

「次は左だ! 山側へケツを振れ!」

 野上の誘導に従い、美希は半クラッチでじりじりと後退する。二十トンの車体が斜めに動き、見えない荷台後部の長く突き出たオーバーハングが、そびえ立つ杉山の数センチ手前へと吸い込まれていく。

 深いタイヤの轍を刻みながら、前進と後退が三度、繰り返される。谷を見下ろし、山を背にする。野上の的確な空間認識と、美希の手足のようなクラッチワーク。二つのプロフェッショナルの呼吸が完全に重なり合い、息を呑むような切り返しの末に、プロフィアの頭は完全に反対車線――西向き――へと方向を変えた。

 強固な地盤の道路の真ん中に、巨体がすっぽりと収まった。プシューッ、と安堵のため息のようなエアブレーキの音が響き渡り、ディーゼルエンジンが切られる。

 野上が泥混じりの手で額の汗を拭っていると、運転席の分厚いドアが開き、美希がステップに足を掛けて地上へと降り立ってきた。

 身長一七〇センチ。紺色の作業用ブルゾンに身を包んだ彼女は、近くで見るとさらに凛とした威圧感を放っていた。しかし、野上に向けられた声は、先ほどよりも僅かに温度を含んでいた。

「的確な誘導だったわ。あんたがいなけりゃ、明日の朝にはトラックごと崖下だったかもしれない」

「……いや。あんたの腕が良かっただけだ」

 野上は自嘲気味に笑い、ポケットから先の折れた煙草を取り出して火をつけた。紫煙が風に流されていく。

「あんた、ただの誘導員じゃないわね」

 美希の問いかけに、野上は崩れ落ちた巨大な擁壁の方へと視線をやった。その背中は、ひどく小さく、そして疲弊しきって見えた。

「俺は、元ゼネコンの土木屋だ」

 野上は煙を細く吐き出しながら、ぽつりと呟いた。

「……あそこの崩れた壁。十二年前に、俺が造ったんだよ」

 美希は目をわずかに見開いた。

 男は自分の弱さや失敗を女の前で隠したがるものだ。しかし、目の前の男は、自分の仕事が自然に敗北したという決定的な無力感を、一切の言い訳をせずに晒け出した。

「嫌々呼び出されて来てみれば、あのザマだ。結局、俺のやった仕事なんてその程度のものだったのさ」

 卑屈に歪んだ野上の顔。自分は敗北者なのだと宣言するような、乾いた声。

 美希は何も答えなかった。ただ、男の左脚が小刻みに震えていることと、その瞳の奥に、かつての自分と同じ、過去の傷に押し潰されそうになっている人間の色を見た。

 外界を拒絶し、トラックのキャビンに引きこもることで自分を守ってきた美希。

 それはきっと、この男が抱えている何かと、ひどく似ているのではないか。

 二月の冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。決して交わるはずのなかった二つの孤独な轍が、崩落した道路の只中で、重なり合おうとしていた。

(第一部 完 第二部へ続く)

 

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