第六話:湯気越しの交わり
あの大規模な擁壁崩落から、一日が経過していた。
道路の復旧にはまだ時間がかかる。会社からの指示で待機を命じられた美希は、崩落現場から数キロ手前にある道の駅にプロフィアを停め、車中泊を続けていた。
夜の八時を回った頃。美希はキャビンを出て、道の駅に併設された古びた食堂の片隅に座っていた。
壁掛けのテレビが震災の被害状況を無機質な声で報じている。美希の目の前には、湯気を立てる素朴な蕎麦が置かれていた。冷え切った身体に、鰹出汁の香りと山菜の苦味がじんわりと染み込んでいく。箸を進めながらも、美希の心はどこか所在なく宙を浮いていた。走ることを奪われた時間は過去の亡霊を呼び覚ますようでひどく居心地が悪い。
——カラン、と入り口のドアベルが鳴った。
冷たい夜風と共に食堂に入ってきたのは泥とコンクリートの粉塵にまみれた作業着姿の男だった。
野上有介だ。徹夜続きなのだろう、無精髭はさらに伸び、目の下には濃い隈が落ちている。そして、昨日会った時よりも明らかに左脚を重そうに引きずっていた。
食堂はこの時間にしては珍しく混んでいた。野上は店内を見渡し、美希の姿に気づいてわずかに視線を止めた。彼は少し躊躇った後、美希のテーブルへと歩み寄り、痛む左脚を庇うようにして向かいのパイプ椅子に腰を下ろした。
「……相席、いいか。知った顔があんたしかいなくて」
「どうぞ」
美希は短く応え、再び蕎麦に視線を落とした。
初老の店員が注文を取り、やがて野上の前にボリューム満点の生姜焼き定食を運んできた。山盛りの千切りキャベツと、濃いタレの絡んだ豚肉。過酷な肉体労働を乗り切るための労働者のための食事だ。
野上は無言で割り箸を割り、生姜焼きを白飯にバウンドさせて豪快に口へ運んだ。しかし、その食べっぷりとは裏腹に、咀嚼する彼の横顔には深い疲労と、どこか虚無的な影が張り付いていた。
「……現場、どうなの?」
美希はすでに蕎麦を平らげ、熱いお茶をすすりながらぽつりと尋ねた。
「少しずつだが進捗はしてる。ガラと土砂を撤去して。……あんたのトラックが通れるようになるまでは、あと三日はかかるな」
野上は味噌汁で飯を流し込むと、大きく息を吐き、自嘲するような笑みを浮かべた。
「自分の造った壁の残骸を片付けてるなんて、滑稽だよな? 昔の同僚は俺に気を使ってくるし、脚の古傷は寒さで悲鳴を上げてる。正直今すぐ逃げ出して、家の布団に潜り込みたい気分だよ」
「茨城、と言っていたわね」
「ああ」
野上は箸を置き、店員が運んできた熱いお茶の入った湯呑みを両手で包み込んだ。湯気の向こう側で、彼の瞳が遠くを見るように細められる。
「五年前にゼネコンを辞めた後、茨城に安い土地を買って、東京から移住したんだ。退職金と、事故の傷害保険金を使って、小さな家を建てた」
「そこで、何をしてるの?」
「何も。……ただ、息をしてるだけさ」
野上は自嘲の笑みを深めた。
「あんたも見ただろ? 左脚に爆弾を抱えた俺は、もう土木屋として、昔のように最前線に立つことはできない。それが惨めでな。ありふれた言葉で言えば、挫折ってやつさ」
美希は黙っていた。
「それで……、誰の目にも触れない場所に引きこもることにした。今は敷地の隅に小さな畑を作って、果樹を植えてる。最近は食い物も高いからさ、できることは自分でやろうと思ってね。話し相手なんて、元野良の二匹の猫と近所の婆さんぐらいさ。世間的に見れば、立派な負け犬だよ」
百パーセントの力で戦えない挫折感。だからこそ、外界との関わりを断ち、自分にできる最小限のことだけをして、静かに傷を舐めるように生きている。それが野上有介の、現在の生活だった。
美希は向かいの席に座る男の顔を見つめながら、彼の茨城の家に自分がいる景色を想像してみた。小さい家と畑と果樹、そして二匹の野良猫。
野上の語る今の生活。それは形こそ違えど、美希自身がこの三十年近く続けてきた生き方そのものではないか。
過去の罪と呪われた血から逃げ出し、人間として百パーセントの生を謳歌することを諦め、厚い鉄板で覆われたトラックのキャビンに引きこもる。誰とも深く関わらず、ただハンドルを握るだけの孤独な日々。
自分はトラックという『動く繭』に。
この男は茨城という『動かない繭』に。
不器用に、そして惨めに外界から身を隠している敗北者同士。美希の胸の奥で、長年凍りついていた何かが微かな音を立ててひび割れるのを感じた。
「……負け犬なんかじゃないわ」
美希の口から、自分でも驚くほど静かで、柔らかな声がこぼれ落ちた。
「あんたは今、痛む足を引きずりながら、私の道を開くために泥まみれになってる。……立派な土木屋よ」
野上は目を見開き、美希を真っ直ぐに見つめた。
食堂の蛍光灯の下、化粧っ気のない五十八歳の女の瞳の奥に、自分と同じような深い孤独と、それを抱えて生き抜いてきた真の優しさを見た気がした。
野上は照れ隠しのように鼻の頭を掻き、残ったキャベツを口に放り込んだ。外では、二月末の強風がゴォォと音を立てて食堂の窓を揺らしていたが、二人の間にあるテーブルの上の空気だけは、不思議なほどに熱い温もりを帯び始めていた。
(第七話へ続く)