食堂での会話から二日後の夜。季節の変わり目を告げる春の嵐が、三陸の海岸線を猛烈な勢いで叩きつけていた。
復旧作業は暴風雨のため危険と判断され、全面中断となった。現場のプレハブ小屋は作業員たちで溢れかえっていたが、野上はその空気に耐えきれず、激痛の走る左脚を引きずりながら、数キロ離れた道の駅まで避難してきていた。
野上が車を止め、駐車場を横切って食堂へ向かおうとした矢先のことだった。不意に方向を変えた突風が彼の背中を押し倒し、泥濘の地面に沈めさせた。寒さと疲労、そして左脚の古傷から来る激痛が、ついに野上の肉体の限界を越えたのだ。
「……何してるの? こんなところで凍死でもされたら、夢見が悪いわ」
意識が遠のきかけた野上の耳に、あの低く通る声が響いた。
見上げると、すぐ横で巨大な白銀のトラックのドアが開かれ、ずぶ濡れの男を見下ろす美希が立っていた。彼女は野上の腕を掴み、これまで誰一人として入れたことのない、自らの絶対の聖域であるキャビンの助手席へと彼を引き入れた。
「……すまない」
野上は掠れた声で呟くと、美希が渡したタオルを握りしめ、暖房の効いた助手席のシートに深く沈み込んだ。限界だったのだろう。雨に濡れた作業着のまま、野上は数分と経たずに、深い、死んだような眠りに落ちていった。
キャビンの中は外で吹き荒れる雨と風の轟音に包まれながらも、奇妙なほど密閉された静寂があった。
美希は運転席に座り、すぐ隣で規則正しい寝息を立てる野上の横顔を見つめた。雨に濡れた男の髪と泥の匂い、そして微かな煙草の残り香。それらが狭い車内に充満し、美希の冷え切っていた細胞の奥底へ、容赦なく染み込んでくる。
——ドクン、と。
美希の下腹部で、熱い塊が重く跳ねた。
三十二年、枯れ木のように沈黙していたはずの女の肉体が、すぐそばにある男の体温と匂いに反応し、勝手に悲鳴を上げ始めていた。
馬鹿な。私はただの老いた女のはずだ。美希は必死に理性を総動員して、湧き上がる熱を冷まそうとした。
だが、食堂で野上が見せた敗北者の顔と、不器用な正直さが脳裏をよぎるたび、その熱はさらにどす黒く、狂おしいほどの欲情となって全身の血流を逆流させた。
これが、狗神筋の血。
男を求め、交わり、若返ることを渇望する忌まわしい呪い。
美希は息が荒くなるのを必死に堪え、そっと運転席から立ち上がると、シートの後ろにある仮眠用のベッドスペースへと身を滑り込ませた。厚いカーテンを引き、助手席の野上から完全に姿を隠す。
暗闇の中。数十センチ先には、野上が眠っている。彼の僅かな寝返りの音や布擦れの音が聞こえるたび、美希の身体はビクッと痙攣した。
耐えきれなかった。
美希は震える手で枕元の小物入れから小さな写真入れを取り出した。
そこにあるのは三十二年前、最後に自分の身体の奥深くまで入り込んだ男——実の息子であり、狂おしいほどに愛した晃の、色褪せた写真だ。あの日以来、彼女が自らの罪を戒め、同時に女としての孤独を慰めるために、幾度となく見つめ続けてきた枷鎖だった。
美希は毛布を被り、息を殺して自らのズボンの中に手を滑らせた。
乾ききっていたはずの美希の溝は、恥ずかしいほどに濡れそぼり、熱を持っていた。
美希は目を強く閉じ、頭の中にあの日の晃の記憶を呼び起こす。
彼の下唇の感触、泥の匂い、激しい疼き。
その生々しい記憶の中に、すぐ隣で眠る野上の体温が、男の匂いが、容赦なく混じり込んでくる。
(違う……私は、化け物にはならない。誰とも交わらない……!)
美希は声なき声を上げながら、晃の写真を胸に抱きしめ、自らの指で必死にその狂おしい熱を鎮めようと擦り続けた。外の春雷が空を裂き、猛烈な雨がトラックの天井を叩きつける音が、彼女の荒い吐息と、かすかな水音をすべて掻き消してくれた。
それは、三十二年の孤独の結界が内側から崩壊していく、残酷で、しかし抗いがたい、生々しい肉の儀式だった。
(第八話へ続く)