※この作品はR-18です。

轍の向こう   作:影の設計士

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第八話:蘇る血

 春の嵐が嘘のように去り、夜空には早春の星が瞬いていた。

 嵐の夜から二日。限界まで理性を張り詰め、触れまいと距離を置いていた時間は、二人の内側にどうしようもない熱を燻らせていた。

 明日の朝には崩落した国道の土砂が完全に撤去され、道が繋がる。それはつまり、気仙沼へ向かう美希と、役割を終えて茨城へ帰る野上の、永遠の別れを意味していた。

 道の駅から少し車を走らせた海沿いにある、鄙びたモーテル。

 波音が壁越しに響くその部屋は、ところどころ壁紙が剥がれ、潮風と埃の匂いが染み付いていた。

 どちらから誘ったわけでもない。ただ二人の孤独な魂が、どうしようもなく引かれ合った結果だった。

 薄暗い部屋の中、カチリと野上がベッドサイドのランプを点けようとした瞬間、美希はその無骨な手をきつく握りしめて止めた。

「……点けないで」

「ん……」

「お願い。明るくしないで」

 美希の声はいつもの凛とした響きを失い、ひどく掠れて震えていた。

 野上は四十歳。男として最も脂の乗った時期だ。対する美希は、今年で五十八歳になる。

 化粧の気配すらない雨風に晒された顔には、長距離ドライバーとしての過酷な生き様が刻まれている。一七〇センチの長身と涼やかな顔立ちには、一人で生き抜いてきた女特有の凄みすら漂う美しい輪郭があったが、美希自身は自分のことを「人生の秋を過ぎた、枯れた女」だと卑下していた。我が子ほども歳の離れた若い男に、この身体の隅々までを見られることが恐ろしくて、たまらなく恥ずかしかった。

 暗闇の中で逃げ出したい衝動に駆られる美希の肩を、野上の大きくて温かい手が優しく包み込んだ。

「俺は、あんたが何歳だろうが関係ない。俺が触れたいのは、あんた自身だ」

 野上は美希の強張った身体をそっと抱き寄せて口づけをした。泥と煙草の匂い、そして確かな男の体温。不器用だが誠実なその手つきに、美希の頑なだった結界が音を立てて崩れていく。

 野上の手が美希の背中へと回り、下着のホックへ指を掛けようとした瞬間だった。

 美希は弾かれたように身を強張り、両腕を交差させて自らの胸元をきつく抱え込んだ。

「……ダメ、」

「……」

「これだけは、取らないで……お願い」

 美希の懇願するような声に、野上は戸惑うように動きを止めた。

 五十八歳の残酷な現実。かつて男を狂わせた胸の張りはとうに失われ、今は重力に負けて無惨に垂れ下がっている。その哀れな肉の崩れを晒すことなど、美希の女としての自尊心が絶対に許さなかった。

 服を脱ぎ捨ててもなお、彼女は自らの老いを隠す最後の防壁として、汗ばんだ下着だけは頑なに身につけたまま、男の首にすがりついた。

 野上が美希の上に身を重ね、ベッドのヘッドボードから避妊具の包みを取ろうと身を捩った時だった。

 美希は再び彼の手首を掴み、ゆっくりと首を横に振った。

「……いらないわ」

「でも……俺は、」

「避妊なんて、しなくていいの」

 美希は自嘲するように、暗闇で哀しい微笑を浮かべた。

「私をいくつだと思ってるの。……世間じゃもう、おばあちゃんと呼ばれる歳よ。とっくに月のものはないし、子供なんて……宿るはずのない身体だもの。だから……何もつけずに、直接あなたを感じさせて」

 それは、女としての生殖機能が終わっているという、残酷な自己宣告だった。野上は一瞬動きを止めたが、美希のその痛切な覚悟を受け止めるように深く頷き、その包みを床へ投げ捨てた。

 野上の重い身体が、完全に美希の上へと沈み込む。

 三十二年の歳月を経て、再び男の身体を真っ直ぐに受け入れた瞬間。長く封印されていた美希の身体に、雷に打たれたような鋭い痛みが走った。思わず息を詰め、シーツを固く握りしめる。

 だが、その痛みはすぐに、信じられないほどのすさまじい熱量へと変わっていった。

 ——あああっ……!

 美希の奥底で、完全に死に絶えていたはずの狗神筋の血が、男の生の血潮を直接浴びたことで狂喜の産声を上げた。

 細胞の隅々までが沸騰するような熱。野上の不器用な愛撫と規則正しい律動に合わせて、美希の身体は自らの意志を離れて激しく波打ち始めた。息は荒れ、暗闇の中で自分を見つめる男の視線を交わすように、横に向けた口を二の腕で押さえる。

 美希の顔が涙でにじむ。自分が年嵩の女であるという恥じらいは血の沸騰とともに跡形もなく吹き飛び、ただ雄を貪り、交わる歓喜だけが美希の脳髄を白く焼き尽くしていった。

 やがて、野上が低くうめき声を上げ、二人は深い絶頂の底へと沈んでいった。

                  ・ 

 窓枠がうっすらと白み始めた明け方。美希は、隣で泥のように眠る野上を起こさないよう、そっとベッドを抜け出した。下腹部にはまだ彼の残した微かな熱が燻っている。

 洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗おうとして鏡を見上げた瞬間——ハッと息を呑み、思わず鏡に顔を近づけた。

 見間違いだろうか。いや、違う。昨日まで顔を覆っていた冬の枯木のような気配が、ふっと薄らいでいる。

 おそるおそる頬に指先を這わせると、極限まで薄く骨張っていた皮膚の下に、失われたはずの微かなクッションを感じた。削げ落ちていた輪郭に、真綿を忍ばせたようなふっくらとした質感が戻っている。

 深く落ち窪んだまぶたの影は浅くなり、目尻に刻まれた幾筋もの年輪は、軽くアイロンを当てたように後退している。乾燥しきっていた肌理には水分が宿り、蛍光灯の下でもどこか温みのある仄かな血色が透けていた。

 視線を下げれば、首筋や鎖骨のラインも違う。そして、手の甲に浮き出ていた青い静脈は沈み込み、節くれ立っていた指先には艶やかな潤いが戻っていた。一七〇センチの華奢な骨格はそのままに、それを覆う皮膚が透き通るような和紙の繊細さを持ちながら、確かな張りを取り戻していた。

「これって……」

 鏡に映るのは、全てを削ぎ落として重力に抗っていた昨日までの自分ではない。閉経という波を迎え、揺らぎの中で必死に美しさを保とうとしていた——あの五十歳の頃の自分だ。

 たった八年。その歳月が巻き戻っただけで、これほどまでに生命力が違うのか。美希は、自身の奥底からふつふつと湧き上がる瑞々しい細胞の熱に侵されると同時に、芯から凍りつくような寒気に震えていた。

 ドクン、ドクン、と心臓が早鐘のように鳴り響く。

 呪いは終わっていなかったのだ。野上と交わったことで、この肉体は若さという名の悍ましい脱皮を遂げてしまった。

 もしこのまま彼と交わり続ければ、私はまた、男の命を奪う化け物へと成り果てるかもしれない。

(……逃げなきゃ)

 美希は無造作に衣服を身につけると、ベッドですやすやと眠る野上に背を向けた。

 彼にもらった一晩だけの温もりと、忌まわしい若さを抱え、美希は逃げるようにモーテルを飛び出し、冷たい夜明けの風の中、自らの繭であるトラックへと走り出した。

(第九話へ続く)

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