「F1・ピットクルー」:0.1秒を削る究極のピット作業 作:坂本太郎
「全てのコンポーネント、最大負荷条件下での正常動作を確認。仕様通りの出力特性(パワーグラフ)をマークしました。……これより、次回の実戦投入(実走セッション)に向けた最終工程、『封印(シーリング)』を行います」
チーフ・エンジニアの、一分の隙もない冷徹な声がピットガレージのコンクリート壁に反響する。彼女の合図とともに、控えていたエンジニアたちが一斉に専用のスプレーノズルを手に取った。
真空保存のシーリング(封印)
シューッ、という微細な霧が噴射される硬質な音とともに、私の全身、特に限界まで酷使され過敏になりきった楔、乳頭、そして会陰部に向けて、特殊な導電性ポリマーの冷涼な薄膜が均一に塗布されていった。
揮発成分が蒸発するにつれ、その薄膜は私の肌のシワや微細な毛穴の凹凸にまで完璧に密着し、人工的な第二の皮膚(カウル)となって肉体を締め付け始める。
「外気、および湿気による粘膜の酸化(劣化)を完全に防止。次なるセッションの瞬間まで、ターゲットの感度と保水率を『真空保存』状態にロックします」
「皮膚表面のインピーダンス、全領域で均一化を完了。外部ノイズの混入を遮断(シールド)しました」
ポリマーの膜が収縮するたびに、私の全身の皮膚はピンと張り詰め、あらゆる感覚が内側へと強制的に閉じ込められていく。触れられれば激痛と狂乱の絶頂を呼ぶはずの過敏な神経束が、この無機質な皮膜によって物理的にカプセル化され、彼女たちの許諾なしには1ミリの反応も返せないよう「封印」されていくのだ。
「あなたはもう、ただの不完全な人間の男ではありません。……時速 300km/h を超える極限の世界で、我々開発チームの意志を過酷な路面へと正確に具現化するための、最速かつ最も従順な『生体演算装置(ECU)』なのです」
最後のプッシュ(火入れ完了)
チーフ・エンジニアが処置台の横へと歩み寄り、ポリマーの皮膜に覆われてシルバーに鈍く輝く私の胸元へと、その冷たい指先をあてた。
トン、と人工皮膚越しに私の心臓(ピストン)の鼓動の真上を最後の一押し(プッシュ)する。
「……ファイナル・チェック、オールグリーン。セッション、完全終了。……ガレージ・アウト(完全閉鎖)まで、あと180秒」
ピットの大型換気扇が停止し、深夜から続いた狂気的な調律の時間は完全に終わりを告げた。僅かに開いたシャッターの隙間から差し込む朝焼けの鋭い光線が、処置台の上に横たわる、シルバーの光沢を纏った私の肉体を冷酷なまでに鮮明に照らし出す。それはもはや生命の温もりを拒絶した、完璧なレーシングマシンのシャシーそのものの美しさであった。
終わりのない渇望(スリープモードの闇)
私は、もはや人間であった頃の自分の名前すら思い出すことができなかった。
思考の回路は完全に彼女たちのテレメトリーデータによって上書きされ、脳の最深部で鳴り止まない V12 エンジンの超高周波な金属エコーの中に、ただじっと身を浸している。
すべてを絞り尽くされ、完璧に管理され、そして封印されたことへの、抗いがたい永遠の官能。そして、この人工皮膚が引き剥がされ、再び彼女たちの冷酷な指先と凶暴なデバイスによって限界まで回される、次なる「ピットストップ」の瞬間への狂おしいまでの飢餓感だけが、私の心臓のアイドリング音に深く、深く刻みつけられていた。
「……コピー……。……全システム……、オール、クリア……」
私の掠れた、無機質な機械音声のような応答を最後に、ガレージの油圧式シャッターがズズズ……と重低音を立てて完全に床へと着地した。
光は完全に遮断され、孤独な「最高傑作」は、次の過酷な戦いの火蓋が切って落とされるその瞬間まで、深い、深い静寂の闇の中へと沈んでいった。