夏休みが終わった。
九月。
学生たちが学校というモラトリアムに戻っていく季節だ。フリーターの俺にとっては、カレンダーの数字が変わるだけで何ひとつ生活は変わらない。明日もコンビニの夜勤があるし、明後日は倉庫の棚卸し。そのルーティンは八月だろうが九月だろうが関係ない。
だが、世間は変わる。
ことぶき荘の前を、小学生たちの群れがきゃいきゃいと甲高い声で騒ぎながら通り過ぎていく。黄色い帽子にランドセル。残暑の朝日に額の汗を光らせて、笑い声を撒き散らしながら集団登校の列を成している。
手を振り合い、ランドセルを揺らし、何がそんなに面白いのかわからないが腹を抱えて笑っている子がいる。
二〇一号室の窓際で缶コーヒーを啜りながら、俺はその光景をぼんやり眺めていた。
築四十年の木造アパートの窓ガラスは、朝日を受けてうっすら黄ばんでいる。九月とはいえ残暑は容赦なく、エアコンを切った部屋にはじっとりとした湿気が漂っていた。
俺にも、あんな時期があったはずだ。
友達とくだらない話をしながら登校した朝。給食のカレーが世界一美味いと本気で信じていた昼休み。放課後の校庭で夕暮れまで転げ回って、チャイムが鳴るまで帰りたくなかった、あの底なしに自由だった時間。
あの頃にもう少し真面目にやっていたら、三十八でフリーターなんてやっていなかったかもしれない。彼女の一人くらい、出来ていたかもしれない。
そんなことを考えても仕方がないのはわかっている。わかっているが、朝のランドセルの群れを見ると、どうしても考えてしまう。
義務教育まで遡れば、仲の良い女の子だっていた。
隣の席の、きつねの獣人の少女。
名前は覚えている。覚えているが、ここで口にする気にはなれない。金色の獣耳に、ふさふさの小さな尻尾。教科書を忘れた俺に自分のを見せてくれて、消しゴムを貸してくれて、俺がそれを一週間も返さなくても笑って「別にいいよ~消しゴムなんていくらでも貸すよ~?」と言ってくれた子だ。
休み時間になると隣の席で文庫本を読んでいて、たまにこちらを見て「何か用?」と首を傾げた。そのたびに金色の耳がぴくりと動くのが、妙に記憶に残っている。
最後に会ったのは卒業式の日、「中学は別々だけど、お互い頑張ろうね」と言われた。俺は「おう」としか返せなかった。もう少し何か言えただろう。「頑張ろう」でも「また会おう」でも、何でもよかったのに。
あの子は今頃、何をしているだろうか。
まともな仕事に就いて、ちゃんとした相手と結婚して、子供がいるのかもしれない。きつねの獣人なら、この歳で母親になっていてもおかしくはない。幸せに暮らしていてくれればいい。少なくとも、隣の席で消しゴムを返さなかった間抜けなガキのことなんか、とっくに忘れているだろう。
……まあ、いい。過去の自分を責めても遅い。あの時素直になれなかった自分は、三十八年後の今の俺と、確実に地続きだ。
ここで少し、獣人というものについて考える。
獣人。この世界で人間と当たり前に共存している種族。それ以外にもこの世界にはいろいろなものがいるらしいが、最近俺が日常的に関わるのはもっぱら獣人ばかりなので、ここではそれに絞る。
彼ら彼女らは、人間よりも肉体的に優れている。腕力、脚力、反射神経。野生の名残を色濃く残した身体能力は、種族差こそあれ概ね人間を凌ぐ。繁殖力も高い。発情期という本能のシステムがあることからもわかるように、早くに元気な子を産み、肉体で世の中を支え、比較的短い一生を全力で駆け抜ける。それがかつての獣人の在り方だった。
獣人の男女比は、圧倒的に女性が多い。昔はオスの獣人がとにかく短命で早々に命を落としたことと、ハーレム型の繁殖文化――いわば一頭のオスが複数のメスを抱える様式が主流だったことから、長い進化の過程でオスの出生数そのものが少なくなったのだろう。一夫多妻が当たり前の種族では、オスの数はそこまで必要ない。自然淘汰というやつだ。
しかし、それは遠い昔の話だ。
今は現代社会。肉体より頭脳が重んじられ、秩序と個人の権利が尊ばれる時代。
そんな世の中では、知力で戦えない獣人は辛い。育った環境の格差、発情期に人生を狂わされるリスク、「獣の延長」という根深い偏見。いろいろなものが絡み合って、社会の低い層に沈んでしまう獣人は少なくない。
琴音は大学に通い優等生を演じているが、ストレスで泥酔とオナニーに溺れている。瑠衣は転落の果てに風俗からコンビニバイトに這い上がった。凛は友達も居場所もない学校生活の中で、ネットで覚えた金の稼ぎ方に手を出したらしい。
それぞれの事情で、それぞれの形で、この社会の構造に足を取られている。
……なんでこんなことを考えているかって?
あと二十分もしないうちに凛が来る。
"デートの約束"なる、俺の寿命を確実に削るイベントが控えていて、そこから全力で現実逃避しているだけだ。
事の発端は、先日の海。
八月の終わり、琴音が提案した「みんなで海に行こう」という計画だ。
レンタカーを借りて日帰り。泳いで、焼きそば食べて、花火して帰ってくる。琴音は「あたしが水着選んであげるからね♡」と上機嫌に尻尾を振り、瑠衣は「うち日焼けしすぎてるから焼けたくないんやけど!日焼け止め三本くらいいるんちゃう!?」と騒ぎ、凛は「べっつに、行ってあげてもいいけど」と言いながらスマホで水着の通販サイトを眺めていた。
俺は俺で、三人の水着姿を妄想して脳内がお花畑だった。
だが、海の前日に俺が三十八度七分の高熱でぶっ倒れた。あえなく中止。
琴音と瑠衣は「また今度ね」と大人の対応をしてくれた。
凛は、そうはいかなかったのだ。
それはもう、不機嫌になった。しばらくの間、俺の部屋に来ても終始仏頂面でゲームをやっていた。キャラ選択は毎回最高火力の爆破系。CPUの敵を全員オーバーキルで消し飛ばし、クリア後のリザルト画面を無言で睨みつけてから電源を切る。あのコントローラーの白い握り込み具合は、間違いなく俺の首を絞める手つきだった。
五日間。五日間その状態が続いた。
凛について、ここで少し触れておく。
あいつは頭が切れる。獣人にしては頭が良い、というレベルではない。同い年の人間の子供と比べても、おそらく上位に入るだろう。その頭脳を活かして、人間が多数を占める学校に中学受験で進学したらしい。獣人の子供向けの学校や普通の公立中学校ではなく、わざわざ私立の中学校を選んだのだ。向上心なのか、見栄なのか、あるいは親の意向なのかはわからない。
だが、獣人が少ない環境では浮く。頭から猫耳が生えていて腰から尻尾が揺れている。それだけで充分に異質だ。教室の中で凛は孤立した。グループに入れず、休み時間は一人でスマホを見て、昼休みは屋上か図書室に逃げ込む。友達と呼べる相手は出来なかった。
そこに発情期が来た。
体が火照り、頭がぼうっとして、授業に集中出来ない。保健室に行っても「獣人の発情期は専門外」と返される。発情期についてネットで調べた時に出てきた「お小遣い稼ぎ」の方法が、いつの間にか日常になった。
……と、これは琴音から聞いた話と、凛自身がふとした瞬間にぽろっと漏らした断片を繋ぎ合わせた俺の推測だ。凛は自分の過去を進んで話すタイプじゃない。聞いても「べつにおじさんには関係撫でしょ」で終わりだ。
で、問題は「友人が少ない」という一点に集約される。
凛にとって、琴音や瑠衣は「歳は離れてるけど一緒にゲームしたり買い物してくれるお姉ちゃん」だ。同時に、おっさんのちんこを同じ下の穴で咥えた棒姉妹でもある。
どちらの意味合いでも、凛にとっては数少ない仲間であり、友人だ。
その仲間たちとの海水浴が、おっさんの体調不良で潰れた。
凛が怒るのは、ある意味で当然だった。
六日目の夕方、俺の部屋。
コントローラーを置いた凛が不意にこちらを向いた。翡翠色の瞳がすっと細くなる。
「ねぇ、おじさん」
「……なんだ」
「デートしようよ、デート♡」
「……ん?」
「海で遊ぶのが流れたの、おじさんのせいでしょ?まったく、熱なんか出してさぁ……みんな楽しみにしてたのに」
そう言いながら、凛はソファの上で膝を抱えた。猫耳が後ろにぺたんと伏せている。不機嫌の形だ。
「責任取って、あたしとお出かけ♡今度の土曜」
凛がにぃっと笑った。さっきまでの不機嫌が嘘のような、計算し尽くされた笑み。
「断ったらわかるよね♡」
OK、わかってる。通報だな。
凛の同意を求める行動は、常に通報カードとセットだ。この手の交渉において凛は絶対に負けない。俺にノーという選択肢は最初から存在しない。
……微笑ましいだろう?
友人の少ない女の子が、不器用なやり方で「遊びに連れてって」と言っているだけだ。何が問題かわからないだろう?
目の前の凛が、パンツを穿いていないこと以外はな。
§
話を今日に戻す。
デート当日。土曜日の朝。
凛は約束通りことぶき荘にやって来た。
ドアを開けてまず驚いたのは服装だ。いつもの白キャミソールにデニムショートパンツではない。薄い水色のワンピース。膝上丈で、袖はふわりとしたパフスリーブ。裾にはさりげないレースのあしらいがあり、腰のあたりでさりげなくシェイプされている。濃紺の猫尻尾のためにスリットが入っているのが、人間用の服と獣人の体の折り合いを物語っていた。
普段のボーイッシュな凛からは想像がつかない、年相応の可愛らしい格好だった。
濃紺のボブカットにぴんと立った猫耳が水色の生地によく映えて、翡翠色の瞳が朝の光を受けてきらきらしている。
正直に言えば、かなり可愛い。
危うく「似合ってるな」と口に出しかけた。言わなくてよかった。もしそんなことを言っていたら、この後の展開で俺の精神は二倍の速度で崩壊していただろう。
「おじさん、おはよー準備できた?」
「ああ……財布は持った」
「それだけ?」
「お前と出かけるのに、財布以外に何がいる」
「ひっど、まぁいいけどね」
凛がくすくす笑った。猫耳がぴくりと上がり、ゆらりゆらりと揺れている。機嫌はいいらしい。
アパートの階段を下りて外に出る。九月の朝日が、まだ夏の名残の熱気をたっぷり含んで差し込んでくる。人通りの少ない住宅街の路地。どこかの家から洗濯機の回る音がする。平和な土曜の朝だ。
その瞬間。
凛はくるりと振り返り、にぃっと笑って。
ワンピースの裾を、ひらりとたくし上げた。
水色の布地が朝日に翻る。
白い腹。細い腰。そして、その下に。
何もなかった。
つるつるの毛の一本もない白い肌。ぷっくりと膨らんだ薄桃色の一本筋が、朝の光の中に無防備に晒された。
俺の顔面から、血の気が瞬時に引いた。
「っ……お、おまっ……!」
「えへへ♡びっくりした?」
「いますぐパンツを穿け!」
「きゃっ!へんたーい♡やーだ♡」
凛はワンピースの裾をぱたんと戻して、何事もなかったかのようにとてとてと歩き出した。濃紺の猫尻尾が、るんるんと左右に揺れている。
「ねぇおじさん♡あたしの今の格好、もし警察の人が見てたらどうなると思う?」
「…………」
「おじさんが連れ回してるって思われちゃうよね♡あたし、泣く演技けっこう上手だよ?しゅんって耳をしおらせて、縮こまって目元を見せないようにするのがコツなの!」
……この、メスガキ。
パンツを穿かないことで、俺を逃げられない共犯者に仕立て上げたのだ。
帰ろうにも、この格好の凛が一人で路上にいるのを誰かに見られれば、最後に一緒にいた中年男として俺が真っ先に疑われる。かといって一緒に歩いていたところで、ノーパンの少女を連れ回す変態おじさんだ。
どっちに転んでも詰み。まさに完璧な布石。俺はこのお出かけにおいて凜のために尽くさなければ”死”ぬのだ。武士かな?
頭が切れるのは知っていた。だが、その知性がこういう方向で発揮されるとは予想していなかった。
軍師かよ、お前。
俺は腹の底から溜息を吐いて、差し出された小さな手を握った。逃げ場はない。覚悟を決めるしかなかった。
最寄りの駅まで徒歩十分。
その十分が、地獄だった。風が吹くたびに心臓が止まりかけた。ワンピースの裾がふわりと持ち上がるたびに「今度こそ見えるのではないか?」「今度こそ通行人に目撃されるのではないか?」と全身の血管が収縮する。
凛は涼しい顔で、俺の手を握って歩いている。時折、わざとスキップをして裾を揺らしやがる。
途中、犬の散歩をしている主婦とすれ違った。その主婦が凛を見て「可愛いお嬢ちゃんね」と微笑んだ瞬間、俺の心臓は完全に止まった。凛は「えへへ♡」と無邪気に笑い返した。ノーパンのまま。主婦は何も気づかず去っていった。
十年分の寿命が一気に削れた気がした。
残暑よりも冷や汗で、背中がびしょ濡れだった。
§
地元の大型商業施設。
土曜の昼前。家族連れやカップルで賑わうショッピングモール。
エントランスを抜けると、空調の効いた涼しい空気と、フードコートから流れてくるたこ焼きとクレープの甘い匂いが出迎えてくれた。天井の高い吹き抜けに、有線のポップスが柔らかく響いている。エスカレーターを上り下りする人々。子供を追いかける母親。ベンチに座ってスマホを弄る若者。
平和な休日の風景だ。
だが、俺にそれを楽しむ余裕はない。
凛と手を繋いで、人混みの中を歩いている。
周りからどう見えるだろうか。父親と娘。叔父と姪。ちょっと歳の離れた兄妹。
そのどれかに見えていることを、俺は心の底から祈っていた。
すれ違うベビーカーの若い夫婦。手を繋いで歩く大学生カップル。ゲームコーナーから飛び出してくる小学生の男の子。普通の人々が、普通の土曜日を過ごしている。その中で俺だけが、ノーパンの少女と手を繋いで歩いているという異常な状況にいる。
表面上は平静を装っているが、内心ではパトカーのサイレンが常時鳴り響いている。
だが、隣を歩く凛の目は、父親を見上げる子供の目ではない。
翡翠色の瞳が妖しく細められ、口元には挑発的な笑みが浮かんでいる。繋いだ手の指が、時折こちらの掌をくすぐるように動く。猫特有のしなやかな指先で、俺の親指の付け根をなぞり、指の間にするりと自分の指を絡ませてくる。
女の目だ。ガチでデートをしている目。
これは「お出かけに付き合ってあげる」という名の、おっさん誘惑作戦だ。水色のワンピースを着てきたのも、パンツを穿かないのも、全部計算の上。可愛い見た目で油断させつつ、いつでもチラ見せでパニックに叩き落とせる時限爆弾を仕込んでいる。
地雷原を裸足で歩いている気分だった。
「おじさん、あそこのクレープ食べたい♡」
「……ああ」
クレープ屋のカウンターで、凛はメニューを真剣に見つめた。翡翠色の目が上から下へ忙しなく動く。猫耳がわずかに前に倒れている。集中しているときの癖だ。
「ストロベリーチョコ……いやバナナ生クリーム……うーん」
「早く決めろ。後ろ並んでるぞ」
「うるさい、今悩んでるの」
結局ストロベリーチョコに決まった。俺の財布から六百八十円が消えた。
凛はクレープを受け取ると、一口齧って目を丸くした。
「……おいしいね」
小さな声で、ぼそっと呟いた。あの煽りもメスガキ口調もない、素の声だった。
翡翠色の目がきらきらしている。口の周りにチョコがついているのに、気にもしていない。
……年相応だ。ただのクレープを食べて目を輝かせる、年相応の子供だ。
「何見てんの、おじさん」
「いや、チョコついてんぞ。口」
「え、やだ!」
凛が慌てて指で拭った。拭い方も下手くそで、余計にチョコが広がった。
「……ほら、貸せ」
ポケットからハンカチを取り出して、凛の口元を拭いてやった。
凛が一瞬だけ目を見開いて、すぐに視線を逸らした。猫耳が後ろにぺたんと倒れる。照れている時の形だ。
「べ、べつにお礼とか言わないから……」
古典的なツンデレムーブ……にしてもお前の猫耳は正直だ。猫耳は嬉しそうにぴょこぴょこ跳ねている。
アクセサリーショップでは、凛は猫モチーフの商品ばかり見ていた。猫の形のピアス、猫の肉球のキーホルダー、猫のシルエットのネックレス。
猫の獣人が、猫グッズに興味を持つ。これは人間が人間の形のぬいぐるみを買うようなものだろうか。よくわからないが、凛は楽しそうだった。
「おじさん、これどう思う?」
猫耳の形をしたヘアクリップを、自分の猫耳の横に当てている。猫耳の上に、さらに猫耳。
「……猫耳が四つになるが」
「だからかわいいんじゃん」
結局何も買わなかった。三十分迷って、「やっぱいいや」と店を出た。あの三十分を返してくれ。
ゲームセンターでは、凛の本領が発揮された。
UFOキャッチャーで俺が三十回連続空振りしている横で、凛は一発で猫のぬいぐるみを取った。アームの位置、落下角度、景品の重心。全部計算してから一発で仕留めるその手つきは、もはや職人だった。
「ざーこ♡ざーこ♡クソザコおじさん♡三千円も使って何も取れないのー♡」
「うるせぇ」
「あたし一回で取ったけど?」
「わかったからやめろ」
取ったぬいぐるみを胸に抱えて、凛はぬいぐるみの顔を俺に向けた。
「ほら、この子もおじさんのこと笑ってるよ♡」
『このおじさんまじ下手だっぴ!そのお金あったらクレープ五個は食べれるっぴ!僕はもっと甘いものが食べたいっぴ!』
「ぬいぐるみに代弁させんな」
凛がけらけらと笑った。猫尻尾が楽しそうにゆらゆら揺れている。
……そう。今日の凛は、楽しそうなのだ。
普段の凛は「楽しい」を素直に見せない。メスガキの仮面を被り、煽りと挑発でコミュニケーションを取る。それがこいつのやり方だ。
だが今日は違った。クレープを頬張って目を輝かせ、アクセサリーを手に取って悩み、ゲーセンで煽りながらも本気で笑っている。仮面の隙間から、素の表情がこぼれ落ちている。
年相応だった。
こいつだって本当はこういう休日を過ごしたいのだ。同い年の友達とショッピングモールを歩いて、クレープを食べて、ゲーセンではしゃいで、くだらないことで笑い合う。そういう普通の週末を。
それが出来ないから、おっさんを相手にしている。
……胸の奥が、ちくりと痛んだ。
エスカレーターの前を通った時、下から吹き上げる風にワンピースがふわりと膨らんだ。俺は反射的に凛の前に立ってガードした。凛は「なにしてんの♡」と笑ったが、お前がノーパンじゃなきゃこんなことしねぇよ。
この男、エスカレーターの風で少女のスカートが捲れるのを全力で防いでいるが、その少女と性行為の関係がある。世界で一番意味のない紳士行為だった。
「おじさん、次あっち行こ!」
凛が手を引いて歩き出す。
向かった先は、二階の大型家具店だった。
「家具屋? 何か買うのか」
「見るだけ♡」
入口を抜けると、他のフロアとは空気が一変した。
広い。天井が高く、展示品がどれも巨大だ。ソファ、ベッド、ダイニングテーブル、書棚。どれも持ち出すには業者と車が必要なサイズで、小さな商品はほとんどない。おかげで万引き対策の必要が薄いのか、防犯カメラの数が明らかに少ない。見える範囲で、二つか三つ。死角だらけだ。
客もまばらだった。土曜の昼時、人の流れはフードコートとアパレルに偏っているらしく、このフロアは閑散としている。通路の照明がやたらと白く、広い空間に静けさが満ちていた。遠くで店員同士が在庫の話をしている声だけが、ぼんやりと聞こえる。
嫌な予感がした。この環境は、凛にとって最高の「仕掛け場」だ。
案の定。
凛は店内を見回しながら、迷いなくソファのコーナーへ向かった。
ずらりと並んだ展示品の中から、凛が選んだのは三人掛けの大型ソファだった。ふかふかのクッションに、落ち着いたグレーの生地。リクライニング機能付き。電動式のフットレストまでついている。値札には十九万八千円。俺の月収とほぼ同額が、さらりと印刷されていた。
一生縁のない家具だ。
凛がソファに腰を下ろした。
水色のワンピースがふわりと広がる。深く座り込むと、座面のクッションに小さな体が半ば沈んだ。靴を脱いで裸足になり、白い足を前に投げ出して、ぱたぱたと大きく振り始めた。
足が上がるたびに、ワンピースの裾がめくれる。
ちらり。
白い太ももの奥が、一瞬見える。
ちらり。ちらり。
つるつるの肌。毛の一本もない、無垢な白さ。ぷっくりとした薄桃色の筋が、足を振るたびに一瞬だけ覗く。
まるで見えそうで見えないを繰り返す、計算し尽くされたチラリズム。この角度、この速度が、一番男の目を釘付けにすることを、このメスガキは完璧に理解している。
そしてその筋に――てらりと光るものが滲んだ気がした。
興奮の、愛液。
こいつ自身も、この状況に興奮しているのだ。人前でノーパンを晒すスリルに、体が反応している。
俺は唾を飲み込み、慌てて視線を逸らした。
周囲を確認する。店員は遥か向こうの棚で在庫の紙を眺めている。他の客はベッドコーナーの奥に年配の夫婦が一組いるだけで、こちらを見ていない。この一帯には、俺と凛のほかに誰もいない。
「ねぇ、おじさん」
凛が上目遣いで俺を見上げた。翡翠色の瞳に、悪戯の火が灯っている。唇が薄く弧を描いて、声は甘く、計算された猫撫で声。
「……見過ぎ♡あたし恥ずかしいんだけど♡」
「見てない」
「嘘♡おじさんの目、ずーっとあたしのスカートの中追いかけてたじゃん♡ドスケベおじさん♡」
「追ってない。絶対に追ってない」
「そんなに見たいなら……」
凛の細い指が、ソファの側面に付いた電動レバーに伸びた。
まずい。
「えいっ♡」
がちゃん。
モーター音とともに、リクライニング機能が作動した。背もたれがゆっくりと後方に倒れ、同時にフットレストが電動でせり上がる。凛の小さな体がソファの中に深く沈み込み、ほとんど仰向けに近い姿勢になった。
裸足の足がフットレストの上に行儀悪く乗り、膝が自然と開く。
ワンピースの裾が、重力に従ってずるりと腿の付け根まで滑り落ちた。
白い太もも。骨盤の稜線。その中心にある、薄桃色の肌。
凛は、にぃっと笑いながら。
右手の人差し指と中指を、ゆっくりとそこに添えた。
くぱぁ。
薄桃色の秘裂を、二本の指で左右に、ゆっくりと開いて見せた。
無毛のつるつるの肌に走る一本筋が、割り開かれていく。奥の薄いピンク色の粘膜が、蛍光灯の白い光の下に無防備に晒される。
うっすらと、愛液が滲んでいた。てらてらとした光が、開かれた花弁のような粘膜に反射している。
ほのかに甘い柑橘系の匂いが、鼻腔をくすぐった。猫の獣人のフェロモン。あの、本能の奥底にじかに触れてくる匂いだ。
俺の顔面が、信号機のように色を変えた。
反射的な興奮が全身を駆け抜ける。顔に血が上る。目が釘付けになる。あの薄いピンク色の粘膜に、一瞬で下半身が反応しかけた。
直後、「ここは家具屋だ」「十九万八千円のソファの上で猫の少女がくぱぁしている」「防犯カメラ」「店員」「客」という現実認識が束になって脳を殴り、一気に血の気が引いた。寿命が縮む音が聞こえた気がした。
反射的に周囲を見渡す。右。左。後ろ。上。店員は?客は?カメラの位置は?今この瞬間を目撃している人間は?
……誰も、見ていない。
今のところは。
凛はパタンとワンピースの裾を戻し、レバーを押してソファを元の位置に戻した。何事もなかったかのようにスニーカーを履き直し、すたっとソファから立ち上がる。
そして、俺の顔を見上げて。
「あっはは♡」
ケラケラと、笑った。
「おじさんの顔、今すっごい面白かった♡赤くなって、青くなって、きょろきょろして♡信号機みたい♡」
腹を抱えて、目尻に涙を浮かべて。猫尻尾をぶんぶん振り回して。
メスガキの計算も、小悪魔の仮面も、全部どこかに吹き飛んだ、ただの子供の笑い声が、静かな家具店のフロアに響いた。
「あはっ♡あはははっ♡もう最高♡おじさんおもしろすぎ♡」
声を上げて、体をくの字に折って、しゃがみ込むほど笑っている。ぬいぐるみを胸に押し当てたまま、涙を拭って、また笑う。
俺はその場に立ち尽くしたまま、深い溜息をついた。
心臓がまだ暴れている。背中が冷や汗でびしょ濡れだ。寿命が確実に三年は縮んだ。
だが。
ケラケラと笑っているこいつの顔を見て、思ってしまった。
今日一番、楽しそうだな。
クレープの時よりも。ゲーセンの時よりも。このソファの前で俺の顔面が信号機になったのを見ている今この瞬間が、こいつは一番子供の顔をしている。
クレープの美味さにも、ゲーセンの煽りにも出なかった、あの底抜けの笑い声。一人ぼっちの教室では、絶対に出せなかった声だ。
……まいったな。
こんなもん見せられたら、怒る気にもなれないじゃないか。