※この作品はR-18です。

ANOTHER WORLD『レイヤー・ゼロ』   作:坂本太郎

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序章:孤独な追跡者の夜

画面の端で、絶え間なく明滅するエメラルドグリーンの光。それがこの世界の、そして「彼女」の命のバイタルサインだった。

 

2033年。冬。

世界は相変わらず無慈悲に自転を続け、京都の街には底冷えのする厳しい風が吹き荒れている。

街の喧騒から遠く離れた、木造の古びた四畳半アパート。その一室には、およそ生活感というものが存在しなかった。床に散乱した膨大な脳科学の論文と多次元幾何学のグラフが描かれたルーズリーフ。壁際に並ぶのは、素人がジャンクパーツをかき集めて無理やり組み上げた、異様な駆動音を立てる自作の演算端末。

 

その中心で、一人の青年がディスプレイの光に青白く照らされていた。

堅書直実。

かつて、本が好きで、自分の意志を伝えることすら不器用だった少年は、今や一つの目的のためだけに魂を売った孤独な研究者と化していた。

 

直実がこの無謀な挑戦に身を投じたのは、大学の講義で聞いた、ある「実験」がきっかけだった。

――脳死状態に陥ったネズミの脳細胞に、量子計算によってシミュレートした精神データを逆ハッキングの形で流し込み、その機能を完全復活させたという驚異の実験。

 

「あの理論を応用すれば、一行さんを……現実(リアル)の世界に引き戻せるかもしれない」

 

その奇跡を人間の脳で実現するため、直実はいま、京斗大学の天才教授・千古恒久の研究室に囲い込まれるようにして、日夜猛勉強を続けていた。千古の元で最先端の脳科学と量子記憶装置『アルタラ』のシステムを学び、そのサルベージ機構を独学で構築する。それが、およそ正気とは思えない、直実が生きていくための唯一の数式だった。

 

「……まだだ。これじゃ、脳細胞への転送レートが足りない」

 

かじかんだ指先でキーボードを叩く。カチカチと虚しく響く打鍵音だけが、静寂に満ちた部屋のインデックスを刻んでいく。

千古研究室の膨大なデータを頭に叩き込み、アルタラの中に記録されている「過去のデータ」の瑠璃を脳死した現実の身体へと同期させる。だが、その過酷な研究の壁は厚い。

 

暖房器具すら満足に買えない四畳半の室内は、外気と変わらない氷点下にまで下がっている。吐き出す息は白く、指先の感覚はとっくに麻痺していた。三日三晩、一睡もせずに理論を組み立て続けた直実の身体は、すでに限界をとうに迎えている。視界が急速に狭まり、世界がぐらりと傾いた。

 

(暗い……冷たいな……)

 

机に突っ伏した瞬間、直実の意識は暗転し、凍てついた脳裏に「あの日の閃光」がリフレインする。

 

――2027年、夏。宇治川の夜空に上がった大輪の花火。

守り抜いた古本市の成功の後、図書準備室で初めて唇を重ね、確かに「恋人」になったはずの、一行瑠璃の悪戯っぽい笑顔。

『はい。……やってやりました!』

そう言って胸を張った彼女の、瑞々しく温かい体温を、直実の脳は覚えている。

 

しかし、その記憶を切り裂くように、世界を真っ白に染め上げた大落雷の青い光。

鼓膜を破る音。彼の手が届くあと数センチの手前で、嘘のように力なく崩れ落ちていった彼女の、急速に冷えていく身体。

『一行さん……! 一行さんッ!!』

いくら叫んでも、彼女の瞳に直実が映ることは二度となかった。病院の冷徹な廊下で告げられた「脳死」という宣告。

 

(ああ、僕は……また、あの冷たい場所に置いていかれるんだ……)

 

現実世界の極寒と、過去のトラウマの寒冷が混ざり合い、直実の心臓の鼓動が緩やかに低下していく。このまま眠れば、二度と目が覚めないかもしれない。瑠璃を救う前に、自分の命が尽きてしまう。

 

意識の底へ沈みゆく直実。

だが、その絶対零度の密室に、カチカチに凍りついたドアを開けて滑り込んでくる、もう一つの「因果」があった。

 

「……堅書くん? 入るよ?」

 

それは、かつて高校時代、直実と瑠璃の間に立ち、3人で誰にも言えない秘密を共有した親友の、しかし今はもう、しばらく連絡を絶っていたはずの少女の声だった。

 

世界が完全に凍りつく一歩手前。

孤独な研究者の夜に、現実の、生々しい「温もり」が境界線を越えてハッキングを仕掛けてくる。

これが、すべての始まりへと回帰する、壊れた世界を修復するための狂おしいサルベージ計画の、本当の序章。

 

――そして、直実の意識は、すべての悲劇が始まる前の、あの瑞々しい『アルタラの記録』の始まりへと巻き戻されていく。

 

時は遡り、2027年、初夏の京都。

巨大なデータ記憶装置『アルタラ』が刻む、歴史の「正史」には決して残らない、けれど確実に熱を帯びた少女たちのまばゆい時間が、今まさに動き出そうとしていた――。

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