大会テーマ『歪み』
・特記事項
登場人物の名前の読み方
半夏イチカ→ハンゲ イチカ
柴朴マヤ→ サイボク マヤ
桂枝マコト→ケイシ マコト
安寧の森
●半夏イチカの手記 2006-08-03
まずは状況を整理しておこうと思う。ひとまず、俺は確か7ヶ月に自称女子高生を保護した。都会でもないのになぜか“そういう子供”が集まる場所が何故か作られていて、その女の子は大量の吐瀉物にまみれながら横たわっていた。散乱していたプリクラによるとマヤとかいう名前だった。妙にエロい形の尻だった。
マヤは“兄なんです”と虚偽の申告をし俺まで救急車に乗せられ、医者に“なんでお兄ちゃんが見張ってあげないの”と怒られ、マヤは何を思ったか、処置後から俺についてくるようになった。
俺は世間一般でいうのところのサラリーマン。金が無いわけではない。女が一人増える分には何ら問題も無かったし、やる事やってくれるなら家に置いてもいいかなと思った。問題はこいつの家族だった。普通に考えたら俺の考えは完全にアウトだ。だがセーフだ。マヤが“この人は兄”と周囲に言いふらすことによって俺はこいつの兄となった。実の親や家族の話を、マヤから引きずり出すのはほとんど不可能だった。マヤはいつもニコニコしながら俺の話を聞いたりベッドで猫になってみたりしたが最近は何したか思い出せない。
確か俺はいま、自分の毎月の障害年金で、マヤを学校に行かせている。
俺はマヤが好きだ。愛おしい。でもどうして好きなのか、俺は思い出せない。ここ最近は記憶力の低下が甚だしく、意識が途中でぷつりと切れる。ところで、どうして俺はこんな辺鄙な病室に監禁されているのだろう、ああ、そうだ、確かマヤを殴った。可愛くて可愛くて、手を出した。それから、ここに居るまでの全てを忘れた。
俺、半夏イチカ、32歳。
女、柴朴マヤ、自称女子高生。
ちゃんと思い出せるのはこれだけだ。
今の所、俺のグッチャグチャな頭で書けるのはこれが限界だ。もう俺は長くは持たないのかもしれない。
マヤはもう俺のところには来ない。なぜだ?助けてほしい。俺は某M大学を主席で卒業した天才のはずだ。この世に分からないことはない、あってはならない、しかしなぜ?分からない。天才はいつだって孤独だ。
●柴朴マヤの記録(2006-3-24)
イチカはやばかった。全部やばかった。イイトコのサラリーマンしてるらしいけど本当にやばかったの。
あのひと目が死んでた。病んでた。放っといたら絶対死ぬと思った。私に身内なんて元々居ないようなものだし、最近は親とも絶縁したから究極フリーダムに生きてた。そう、あのとき、天使になりたくて初めて薬と酒と一緒に飲んだら虹色の世界が降りてきてドス黒い悪魔が私の嘔吐中枢をフルパワーで殴ったわ。せっかくのロング缶のくせにもうゲロの味しかしなかった。世界は敵なんだって初めて思えたの。でもゲロに溺れてたら私よりもっとやばい人が来ちゃった。
容姿も喋り方も気品もパーフェクトだったの。
それなのにメンタルだけじゃなく倫理観も壊れてた。
私がお家に行きたいと駄々をこねたらすんなり通ってしまった。言われるがままに彼のソファで眠り込んだり、花びら、あるいは蝶、あるいは衣擦れになってみた。彼は私を“あるべき場所”に戻そうとしなかった。怖かった。世界って、結構やばい人がウロウロしているのね。
どうして気付かなかったのでしょう、私達天使の真横には、常に悪魔がその舌を醜く舐っていること。これだから、男の人って。でもどうしようもなくタイプだった。この病んでるイケメンを、どうしても支えてみたかった。機能不全だった実家のことも、滞納してた学費も、破れた制服も、全部無かったことして、「学校行っておいで」と背中を押してくれるその手が心地よかったの。
世の中には、良い大人もいるんだって思えたわ。
●柴朴マヤの記録(2006-5-12)
さっき私はしっかりとイチカに殴られた。
今日のイチカは抑えきれない負の側面が猛烈に出てしまった。よくあることと言えばよくあることだった。でも殴られるまでは無くて。今日イチカがキレたのは、私が通院サボってずっと寝てたってこと。
勘違いしないでほしくて。イチカは普段は本当にすごくすごーく優しい。
で、仕事中は別人みたいに明るいし、機嫌が悪いと素っ気なくて冷たい。いくつか人格があるんじゃないかと気付き始めていたとき、その空気感に押された彼は私に打ち明けてきた。
『実は前に乖離性同一障害の診断を受けている』と。
日常の小さなきっかけで全てが切り替わってしまうと。
自分では抑えられないこの力を投薬によって無理やり消そうとしてた。
日に日に薬が増え、副作用に耐えて、激しく乱高下する性欲の昂りに苦しみながらそれでも私を愛そうとキスをくれた。嬉しかった。こんな私にも、自分を壊してまで愛してくれる人が存在したのねって。
イチカは性欲が昂ぶっていて、尚且つ処理のできない状況にあるときは手首を強く強く噛んで自我を取り戻すようになった。自傷してるみたいで痛々しかった。
彼が人間でいるための手段だと分かっていても、私にどうしょうもない現実が目の前にあったとき、私の馬鹿な頭ではその先のことを考えることは難しかった。
彼は、自称天才だけど、自分を治す方法は知らないみたいだった。
とにかく私は殴られてしまった。反射的に悲鳴を上げて、その場に座り込んだ。
イチカは、通報されて連れて行かれた。通報は隣の家のババアだった。私はババアを恨んだ。でも殴られたのは本当だったから、何も言えなかった。
警察から根掘り葉掘り聞かれてつい身体のことも教えてしまって、私達が兄弟だなんて幻想はもう、嘘になった。私は、殴った瞬間ふと我に返って震えてたイチカのあの顔が忘れられなかった。人間ってあんな顔できるんだと。結局、私を家に連れてきた彼の選択は失敗に終わった。不幸になってしまった。だけど、私達は本当は愛し合ってた。たとえ私が40歳になって、若さを失ったとしても、イチカは私を捨てたりはしないでしょう。
なんの根拠もないけれど、きっとそう。
終わりの見えない暗闇に光をくれた太陽だもの。
私もイチカを幸せにするの。いつかこの心に、灰の翳りが見えたとしても。
●柴朴マヤの記録(2006-7-23)
忙しくて会いに行かなくなってから何日経ったのかわからない。怖い。壊れたイチカに会うのが怖い。
きっと私が壊してしまったんだ……ごめんなさい。
イチカ、私、ちゃんと学校行けてるよ。
頑張ってるよ。だからイチカも頑張って……。
✯
●医者・桂枝マコトの日記(2006-9-13)
全く不可解な関係だった。入院してから奇声ばかり発して、天井に頭をぶつけたりだの、食事を食べなかったりだの、悪態をついてそれでありながら気品さえ感じさせる青年と、青年が時々発する『マヤさん』に恐らく該当する少女──私は長年医者として、常にフラットであり続けてきた。患者さんを怖がらせてはなりない、最後の砦である精神科医が、乱れてはいけないといけないと、私は大学生の頃から思い続けてきた。
ところがどうだ、世の中、理屈というものが通じない、不可解な現実に襲われることもある。それは私をひどく動揺させるのだ。入院初日、男と別れる際、地表にヒビが入るように泣き喚いた少女は、ある日ぱったりと来なくなったかと思えば、つい先週頃──
「私は太陽がないと萎れてしまう。」
との文句を置き去りにし、面会を希望したのち、たった2分で部屋を出た。
精神科医としての私の見解では変わり果てたパートナーの顔を見るのが、相当堪えたのだと思うが、それにしてもイチカという男は顔色一つ変えずに壁に話しかけていた。彼はもう限界だ。現代医学では薬で治せる病気は限られている。私には正直、手に負えない。
いつ退院出来るかと震えた声で尋ねてきたが、私が黙っていたら、すうっと視界から消えていった。
医院のドアを開けて残暑の陽炎の中に飛び込んでいった。
結局、2日前に、少女はあの男を連れ出して、この病院を囲む巨大な深い深い森の中へ消えてしまった。
市街地からは遠く離れているし、切り立った崖にあるのだから、他には海しかないのだが、それでも二人は自由を選んでいった。
私のこれは安堵という感情に近しい。
誰も居なくなったかつての病室には、二人はお互いを「自分は今この人を支えているんだ」という歪みを残している。
二人の安寧は、きっとこの社会には無いのだろう。