四方の襖と障子が締められた、照明の点いていない八畳の和室に、喘鳴と冷房の音が鈍く響いている。光源は障子の先、縁側に面したガラス戸にかかるカーテン越しにぼんやりと光る、炎昼の陽光のみだった。
"老後の為に、二千万円を用意しなければならないというわけですね"
俺はそんな薄暗い部屋で白い布団に横たわっている父の姿を見て、今朝見たニュースを想起した。靄がかかっているような鈍い感覚に支配された脳で。
就職氷河期と呼ばれた時代に、なんとか掴み取った正規雇用という立場。高まる物価や税に苦心しながらも必死に税金を納めてきたが、結果的に定年が引き上げられ、老後でさえも安心して暮らせない社会が出来上がった。連日報道される社会問題に対して、自分達が収めてきた税金では費用が足りないらしい。
しかし新入社員達の給与は自分の時よりも高いのだ。きっと解決できるだけの財源となるだろう。その補助を一身に受けている上の世代も死んでいき、俺たちがその立場になる頃にはその補助の制度も無くなるだろうから、よりリソースを割きやすくなるはずだ。少子化の割に性が忌避される社会で支えてくれる後人は居なくなるだろうが。そんな皮肉を考えてしまう。
まあ、最近は再利用だとか、エコだとか、SDGsとかいう思想が市民にまで浸透しているのだ。さぞかし良い社会になっていくんだろう。無駄をなくそう、豊かになろう、と。
"──そうして何もしなかった期間があったからこそ、今のあなたに繋がっている部分もあると思います"
なんて、そんな言葉がいくらでも人々から吐き出されている時代だ。
「チッ」
思わず舌打ちが漏れた。
資本主義とは極まるとここまでふざけた世界になるのかと。それは遂に、無駄さえも有用、生産性へと変えてしまった。全てを生産性・有意義に繋げる。そんな資本主義的秩序に支配された社会は、さも当然かのようにこちらの息を詰まらせる。秩序に外れる事を、無駄を無駄であると許容しない。そんな社会で切り捨てられている自分達は何なのか。それはまるで存在を否定されているかのようで……全く不条理だ。
喉がきりきりと痛み、鈍い脳内に、血流が巡る感覚を自覚した。血流は主に前頭葉をのたうち、今にもその表面を突き破るかのようだ。
そんな中で俺は予定通り、眠っている父のオムツ交換を始めた。
その息は、薄く軽い肌掛け布団をも殆ど上下させられない程に弱々しい。小太りで大柄だったことが嘘のように。常に眉間に皺を寄せ、少しでもルールを守れなければ大きく口を空けて怒鳴ってきたものだったが。こんな皺くちゃになり、歯が無くなっている状態では見る影もない。近くで息をすると、畳の匂いに混じって、アンモニアが少し混じったような鼻を刺激する加齢臭がする
"それで社会の為になれると思っているのか!"
叱られる時の決まり文句も、もう二度と聞けそうにない。
冷房の冷たい風を肌に感じながら父の掛け布団を取ると、むわりと熱の籠もった加齢臭が広がった。
「……」
半袖のパジャマから見えるその腕は、シミまみれになって弛んでいる黄色の皮に、骨が覆われているかのような、細くて弱々しいものだった。贅肉によって太くハリがあり、腕を組んだときに浮き出る前腕の筋肉の筋が男らしさを感じさせた褐色の腕と、脂肪で丸みを帯びた太い指はもうなかった。
あの腕に組み敷かれたら何もできないな、なんて思っていたが。そんな思い出に浸りながら父の膝を立て、下半身のパジャマを脱がしていく。俺は、父の介護が好きだった。俺を産んで死んだ母に変わり、男手一つで育ててくれた父の介護が。
"それで、そのお菓子を買ったとしてお前と私に何の利益がある? きちんと説明してみなさい"
些細な要求にすら、正当性を求めてきた。秩序立った論理的な思考が。幼い子供の自分にそこまで説明させるのは求め過ぎだったと思うが、それも父なりの教育だったのだろう。まあ結局、俺が欲しいものを買ってもらえたことなんて無かった。玩具もお菓子も。幾度かの涙の後、すっかり諦めてしまった。そうして、家に父がいるだけで俺は緊張して心臓が大きく脈打つのを感じていた。
そんな恐ろしい存在であった父を、自分では逆らう事は出来ないと感じていた父を、今では簡単に自分の思い通りにできるようになっているのだ。介護というのは実に素晴らしい。
しかも二.三ヶ月程前、介護ベッドの破損により布団介護の形式にしてからめっきり歩かなくなり、文字通り寝たきりの生活を送っていたのだ。ここ最近は昼夜を問わず眠っており、起きている時間の方が短い。そして起きている間もよく分からないうわ言をボソボソと呟いているだけで、こちらをきちんと認識しているのかも怪しい。
オムツを脱がせるとシミのある萎びた男根が目に入った。共に入浴していた幼い時は、自分と大きさが違い、陰毛まみれのそれをよく見つめていたことを思い出す。湯船から上がると、その陰毛から湯が滴っている姿も。
「はは」
父は、テレビでオカマと呼ばれるような者が出演すると、露骨に機嫌が悪くなった。また、卑猥な番組も嫌悪していた。同性愛は、人間の摂理に反しているのだと。子を成さない情欲もそうなのだ。繁栄に結ばれないそれはまったく社会に有用ではないのだと。
"お前はああはなってはならない。関わるのも駄目だ"
「ははは」
──幼い頃からだ。前頭葉に、靄がかかったような鈍さが纏わったのは。いつも、抑圧と共にあった。一挙手一投足、思想に至るまで。それは社会に出てからも変わらずで。
オムツを確認すると、排泄の跡が無く真っ白だった。最近は殆どこうだ。食事も水も全然摂れず、排泄の頻度も量も少なくなっている。
介護用のオムツを敷いてその上に仰向けにさせた。そうして履かせようとしたところ、父からブッブッと、柔らかい肛門をガスが擦る音が何度も聞こえた。途端に下痢っぽい放屁の臭みが漂い、鼻にぼやりと入ってくる。俺は無意識の内に嗅覚に感覚を集中するのと同時に、父の排便が近い事を理解した。
──ずっと父に、社会に抑えつけられてきた
これまでに何度か見れたことがある。この後に直ぐ、茶黄色い液体と、それに混じった粕のような小さな塊の便が混じった液状便が、菊門を押し広げて漏れ出るのだ。その上にある萎びた男根、その褐色の包皮から無色透明な尿を伝わせながら。
──この怒りも、恋心も
脳に纏わった靄は、もはや嵐のように渦巻き、雷を迸らせていた。血流が撹拌され、頭頂部まで滾っている感覚と共鳴するかのように、部屋が一層薄暗くなった。太陽に雲がかかったのだろう。
もう、父は抵抗できない。
俺は父の両足をがに股に広げた。
すると放屁によって何度も広がる茶赤い菊門が露わになった。周りに毛が生えているそれをハァと吐息を漏らしながら、露わになったそれを口で覆う。
「ッ」
そうすると、息をする度に、陰部の蒸れた匂いと下痢っぽい放屁の香りが鼻腔に広がった。そのまま幾度かの放屁が口内に放たれ、ガスが広がる生暖かい感覚と嘔吐くような苦味を感じつつも、涙を流しながら耐えた。そうしてしばらくするとついに
ブボッ
という間抜けな音とともに、舌の上に生暖かい少量の液体が広がり、小さくザラリとした塊が三つ、ぽとりと乗った感触があった。
「〜〜〜ッ!」
全身の皮膚に鳥肌が立つのと同時に、放屁とは比べ物にならない苦味が、味蕾の一つ一つに染み込み広がった。息をする度に悶絶するような臭みが鼻腔に充満し、胃液がこみ上げる。自然と眼球のすき間から脳髄から漏れ出たような涙が溢れて、今にも吐き出しそうだ。しかし歯を食いしばり、口内の液状便を飲み込まないように喉だけを動かして胃液を飲み込んだ。鼻に伝う透明な尿の温かさを感じながら、何度も何度も何度も何度も。胃液がこみ上げる度にゴクリと。
そうしてようやく胃液が留まった頃、喉がじわじわとした痛みを留めていた。しかし、もう俺の行いを止めるものは、俺自身の身体にさえ無い。ただひたすら復讐に耽るのみである。
ああ、味わうのだ。この復讐の甘美な味を。
俺は、液状便に浸る塊状の便三つを舌を傾けで右奥歯まで転がし、咀嚼した。
「ッ! ッ!」
唾液と液状便と塊状の便がヌチャヌチャと絡んで、歯と歯茎に沁みていく。塊は全て柔らかく、噛むとぐにゃりと噛み切れた。噛み切った便の中から少し硬く細い、ひじきのような、消しカスのようなものが出てきて、それはそれ以上に分離しなかった。それ以外の塊の便だったものは、唾液と混じり、ぬめりとザラザラ感が口内に広がる。息をする度に苦味が、便が味蕾にこびり付き、鼻腔から脳内に到達するような下痢の匂いがした。脊髄の芯から寒気が広がり、首と背中の痙攣が止まらない。全身に力が入り、頬さえ攣りそうになった。
その極限状態に、抑えていた思考が溢れ出る。
ああ、父さん! 俺はあなたが本当に大好きで憎かった! あの男らしい太い腕も! ゴロゴロとした低い声も! 太い陰茎も! 目の当たりにする度に、俺の股間にピクリと血流が巡ったんだ!
組み伏せられたら何も抵抗できずに犯されるだろうと、そんな妄想を何度もしていたんだ! そんな俺を! あんたは否定して! だからこうなったんだ! 二年間、地道にベッドの脚を削ってきた甲斐があったというものだ!
そうして味を堪能し終えた後には、口蓋や歯茎にザラザラとした粕の残骸が、舌の裏には、唾液と混じった生暖かい液状便が溜まっていた。ああ、もう十分味わった。最後の工程に移ろう。
俺は喉と舌を動かし、液状便をゴクリと飲み込んだ。
「 」
喉の痛みと同時に、食道を伝う液体の、生暖かくザラザラとしている感触を感じた。それを感じる度に脳髄から悪寒が走り、頭蓋骨の隙間まで揺るがし震える。全身の神経が……足の指先の末梢神経に至るまで、嫌悪感と拒絶と悦楽に悶え、のたうち回って痙攣する。眼球の制御が利かず、グリンと白目を剥いてしまった。
しかし、まだ口内に歯茎や歯、口蓋にこびりついた便の粕が残っている。俺はこれを苦味と共にこそぎ落とし、唾液と共に再び飲み込んだ。
再び脳髄から脳が震え、全身が悪寒に包まれ痙攣する。しかし実のところ、俺はこの行為に、まるで果肉入りのフルーツジュースを飲んでいるかのような、甘美な背徳感を覚えていた。気が付けばカラカラに干からびたような前頭葉には、快楽物質が潤い溢れていた。靄なんて跡形も無かったかのように、剥き出しで潤いのある前頭葉の感覚があった。
完璧な反抗である。
その教育の先に! 無秩序で! 無駄で! 享楽的な! そんな俺が生まれたんだ! ああなんと完璧な理論なのか。俺はこれに何の反論もできないぞ。完膚なきまでの復讐行為を実行しているのだから!
「あああ……!」
精液が、尿道を抉るようにビュルビュルと迸った。パンツの中の太ももに、熱い液体が伝う感触と、脳が脈打つような感覚が身体に籠る熱の中で鋭敏に感じられる。
しばらくした後、脈打つ脳内で冷静な思考が繰り広げられた。止めようにも止められない。秩序と、有用と、禁欲。それらに抗うため、無秩序と、無意味と、享楽の体現を目指した復讐の食糞は、本当に
「あ、あぁ……」
俺はただ、屈服していたのだ。父《しゃかい》に対して。ただ、己が認め難い変態性欲に耽っただけだ。
「オエェ……!」
突如胃の内容物が食道を駆け上がり、吐き出してしまった。オムツに茶色がかった黄色の胃液が染み広がり、上に咀嚼されて小さな粒のようになった便と、溶けかけた朝食のゴロゴロとした残骸が残った。それは糞と胃液の刺激臭が混じっている。喉が焼けるように痛む中、先程までの熱が嘘のように、全身から血の気の引くような寒気がしている。
だって認められない。
──俺の復讐が間違えていたなんて
これは、秩序に反した罰なのだろうか。
突如、太陽の光が強くなった。きっと外では太陽に照らされ澄んだ青空がどこまでも広がり、まばらにある分厚い白雲の輪郭を際立たせているのだろう。
「あははははは!」
俺は笑いが止まらなかった。