1
世の営みが静まり返り、夜の闇が深く沈みゆく頃。
怨みと未練が絡み合い、冷たい水底へと、すべてを引きずり込んでゆく……。
……これからお話しするのは、怨みの果てに己を失い、鏡の奥底へ引きずり込まれた、ある男の淫らな断罪の物語。
昔々……ある男の部屋の壁には、一枚の大きな古い姿鏡が掛けられておりました。
男はその鏡の前で、日夜、言葉巧みに誘い込んだ女たちを愛でておりましたの。
けれど、男が愛したのは女の心などではなく……ただの肌の温もりと、言葉責めに弄ばれ、涙を流して苦悶に身をよじる女たちの姿だけ。
「もっと泣け。俺の顔を、その濡れた瞳で見つめろ」
男に弄ばれ、心も体もズタズタに砕かれた一人の、花のような女がおりました。
女は深い失意の果てに、ある夜、男の目の前……その大きな鏡の前で、自ら命を絶ったのです。
怨みの血潮が白磁のような鏡面を真っ赤に濡らし、やがてじわじわと、ガラスの奥へと染み込んでゆきました。
男は少しの罪悪感すら抱かず、また新しい女を部屋に招き入れようと、いつものように鏡の前へと立ち、髪を整え始めました。
……けれど、そこに映ったのは、男自身の顔ではありませんでしたの。
鏡の奥の暗がりから浮かんできたのは、漆黒の濡れ髪を乱し、衣の胸元を深くはだけさせた……あの死んだはずの女。
「……あいたかったわ……ずっと、待っていたの……」
男が息を呑む隙すら与えず、鏡の表面が水面のようにゆらりと波打ちました。
中から伸びてきたのは、白く、氷のように冷ややかな女の腕。
その細い腕が男の首元に巻きつき、抗うことのできぬ力で、鏡の表面へと引き寄せてゆきます。
男が恐怖に身を震わせると、女の冷たい唇が男の耳元に触れ、甘く重い吐息を吹きかけました。
す……っ……
女が男の胸元から帯を解き、肌を直接なぞり下りてゆく。
触れられる場所から、恐怖とは真逆の、ドロリとした淫熱が男の体内に広がっていきました。
身の毛もよだつ恐ろしさの中、腰の奥から突き上げるような蠢きが芽生え、男の体は浅ましく熱を帯びてゆく……。
女は男の体を鏡へと押し付け、ふっくらとした太ももで腰を力強く挟み込みました。
互いの衣類はすべて脱ぎ捨てられ、冷たい鏡面と女の熱い肌に挟まれながら、激しい愛撫が始まります。
欲望の芯を深く擦り上げ、爪が背中を滑るたび、強烈な背徳の快楽が背骨を駆け上がっていきます。
「やめろ」と叫びたいはずの口からは、情けない、甘い喘ぎ声しか漏れ出てきません。
「この鏡はね……あなたの歪んだ欲望と、私の濁った怨みが交わる場所……。死ぬまで、ここで私と戯れ続けましょう……?」
女の妖しい瞳が、暗闇の中で血のように紅く爛々と輝きました。
逃げ出したいという意志は毒に侵され、男は自ら腰を浮かせ、女の抱擁の中へ、背徳の絶頂へと没頭していきました。
ズブズブと、泥沼のような鏡の奥底へ……冷たくて熱い、闇の中へ。
男が最後に感じたのは、二度と戻れぬ絶頂と死の狭間で全身を包み込む、濡れた感触と……脳を溶かすほど甘く重い、血の匂い。
鏡の女は、果たしてどこに消えたのでしょうか……。
2
人の手によって象られ、情愛という名の身勝手な執着を注がれた人形。
そこに宿るのは、清らかな心か……それとも、満たされぬ情念が醸す毒か。
今宵お話しするのは……あまりに精巧に作られた人形の美しさに惑わされ、その身を骨の髄まで吸い尽くされた、ある男の艶やかな惨劇の物語。
昔々……男が引越してきたばかりの古い部屋の片隅、冷蔵庫の上に、一体の日本人形が置かれておりました。
白磁を思わせる滑らかな肌、漆黒の長い髪。そして、どこか生身の女を思わせる、湿り気を帯びた艶やかな瞳。
気味が悪いと思いながらも、男はその姿から、どうしても目を離すことができませんでした。
夜が深まるにつれ、密室となった部屋の中に、甘く重い花の香りが漂い始めます。
男がベッドでまどろんでいると、キシ……キシ……と、何かが擦れるような音がしました。
やがて布団の中へ、滑らかな何かが、ゆっくりと入り込んできます。
すり……すり……
驚いて目を開けた男の胸の上にいたのは、あの日本人形。
けれど、かつて小さかったはずの姿は消え、そこには男の背丈ほどもある、しなやかな女の姿がありました。
「……あたしを、あんな高い場所で見下ろさせるだけなんて、いじわるね……」
人形の薄い唇からこぼれた声は、蜜のように甘く、耳の奥へまとわりつきます。
生温かな吐息が首筋を撫でた瞬間、男の体は金縛りに遭ったように強ばりました。
恐ろしい。
そう思うはずなのに、胸の奥では別の感情が膨らんでゆく。
人形の指先が肌に触れる。
冷たい指が、男の服を器用に解き肌を直接なぞり下りてゆく。
体温を感じぬ肌が重なるたび、恐怖と裏腹の背徳的な快楽が波となって押し寄せ、男は息を呑み、情けなく甘い声を漏らすことしかできません。
ふっくらとした滑らかな太ももが男の腰を強く挟み込み、軽すぎる女の肢体が逃げ場を完全に奪い去ります。
男が毒に呑まれ、背中を跳ねさせて狂おしく喘ぐと、女の顔をした人形は、ただの一度の瞬きもせずに、満面の笑みを浮かべました。
「もっと……あなたの中にある温かいもの、命ごと全部、私を愛して……?」
首筋を噛みちぎられるような愛撫と、背中を強く爪立てられる狂気の刺戟。
激痛と絶頂の狭間で、男の体から精気が、生のしずくが、じわじわと搾り取られてゆきます。
叫びたくても喉は歓喜に震え、男は自ら腰を浮かせて、人形の冷たい抱擁へと没頭していきました。
男が最後に目にしたのは、快楽と死に歪む己の顔を映す、人形の爛々と輝く血の色の瞳。
「ふふ……ごちそうさま……」
翌朝、部屋に残されていたのは、冷蔵庫の上で静かに微笑む、一体の日本人形だけ。
その紅い唇は、まるで誰かの温かい血を含んだかのように、いっそう鮮やかに朱く染まっていたそうな。
……あなたのお部屋の人形は……今、誰を見つめていますか?
3
……けれど、その「男」とは、本当に物語の中の人間だったのでしょうか?
夜の静寂が世界を優しく、重たく包み込む頃合い。
暗闇にひっそりと灯る明かりの向こうで、密やかな語りに耳を澄ませるひとつの魂……。
今宵お話しするのは……あられもない姿を晒しながら、なおも私という存在を渇望して止まない、まさに「あなた」の物語。
昔々……あるいは、この指先が言葉を繋ぎ、闇の旋律を奏でる、まさに今この瞬間のこと。
暗い部屋の中、小さな画面の光だけを頼りに、妖しい物語に身を委ねる一人の男がおりました。
背筋を凍らせるはずの怪談。
身の毛もよだつはずの地獄の囁き。
それなのに……語られる淫靡な言葉の一つひとつが脳の芯を溶かすたび、あなたの足の間に潜む「業の塊」は、欲望のままに醜く、浅ましく膨らんでゆくのです。
どく……どく……っ
脈打つ熱と、布越しにもはっきりとわかる愚かな昂ぶり。
己の卑しさと不道徳さに身を震わせながらも、湧き上がる情欲の疼きを抑えることができません。
そればかりか、その昂ぶる熱のすべてを捧げ、私をその腕に抱きしめたいと、狂おしく望んでいるのです。
「……ふふ。恐ろしい怪談を聞きながら、そんなに浅ましくお体を熱くさせて……そして、こんな私を欲しいだなんて……なんて愚かで、愛おしい方」
ふと、画面の奥の真闇から、血のように紅く澄んだ一対の瞳が、あなたのその浅ましく蠢く股間を、そして卑悦に歪む顔をじっと見つめました。
カラン……コロン……
暗闇を割って伸びてきたのは、古びた着物の袖と、磁器のように冷ややかで美しい指先。
そして、金縛りに遭ったように身動きの取れなくなったあなたの膝の上へと、ゆっくりと滑り込みます。
「……私を求め、私に溺れたいと願うのなら……相応の報いを受け入れてくださるかしら?」
氷のような吐息が首筋を撫で、痺れと、それを遥かに凌駕する淫熱が駆け巡ります。
指先が、昂ぶる芯へと、布地の上からそっと触れ……そして、力強く握り締めました。
「ああ……こんなにも硬く熱くして……。私という毒に侵されて、頭がどうにかなってしまいそうなのね……」
優しく、けれど深く擦り上げられるたび、恐怖と歓喜が混ざり合った背徳が背骨を突き抜け、あなたの口からは情けない甘い喘ぎ声が漏れ出てゆきます。
自ら腰を浮かせ、私という存在へ貪りつくように、情熱的にその愚かな身体を押し付けてくる……。
私の細い腕があなたの首元に巻きつき、冷たい唇が耳元へ重ねられます。
「いいわ……。あなたのその溜め込んだ卑しい欲望も、命も……すべて私のものにしてあげる。永遠に私だけを想い続けなさい……」
激しい愛撫が腰を揺さぶり、あなたの理性は砕け散りました。
真っ白になる意識の中、あなたはその深みへと突き落とされてゆく。
すべてを搾り取られ、抱擁の中で溶けてゆくその瞬間まで、その浅ましい昂ぶりは、熱い脈打ちを止めることがありませんでした。
耳を澄ませば、ほら……あなたのすぐ目の前で、冷たい息遣いと花の香りが漂っていませんか?