第二十二話 空飛ぶクレーンゲーム
ジェシカの事務所へ向かうため、二人は朝の街を飛んでいた。
正確には――。
ジェシカが飛んでいる。
ヴァンデスは、そのジェシカに抱えられている。
「……」
眼下には、車が走る大通り。
ビルの屋上。
交差点。
朝の通勤客。
そして、そのすべてがものすごい勢いで後ろへ流れていく。
「……」
ヴァンデスは無言だった。
「ヴァンデスさん?」
「……なんでもねぇ」
「怖いですか?」
「怖くねぇ」
「じゃあ、なんでそんなに固まってるんです?」
「現実逃避してんだよ」
「現実逃避?」
ヴァンデスは眼下を見た。
自分を抱えて飛んでいる少女。
その少女の腕からぶら下がる自分。
しかも高度は、冗談では済まない高さだ。
「俺はいま、クレーンゲームの景品だと思うことにした」
「……」
「俺は景品だ」
「……」
「景品だから空を飛んでる」
「ヴァンデスさん」
「なんだ」
「私、クレーンじゃないですよ?」
「黙ってろ。今いいところなんだ」
「すみません」
ジェシカは笑いを堪えながら飛び続ける。
「それにしても、今日は天気がいいですね!」
「そうだな」
「事務所についたら――」
「ん?」
その時だった。
遠くで――。
ドォンッ!!
巨大な音が響いた。
ビルの向こうから黒煙が立ち上る。
ヴァンデスの身体が固まった。
「……」
ゆっくりとジェシカを見る。
「……」
ジェシカも煙を見ている。
「……」
「……」
ヴァンデスは祈るような顔で呟いた。
「頼む」
「……」
「気づくな」
「……」
「気づくな、気づくな、気づくな」
ジェシカの目が輝いた。
「事件です!」
「気づいた!」
「行きます!」
「行かなくていい!」
「でも爆発ですよ!」
「だから行かなくていいんだよ!」
「人が困ってるかもしれません!」
「俺も困ってる!」
ジェシカはヴァンデスの抗議を完全に無視して方向を変えた。
「ちょっと待て!」
「急ぎます!」
「俺の事務所は!?」
「後です!」
「俺の平穏は!?」
「もっと後です!」
「畜生!」
二人は爆発現場へ向かった。
そして現場へ近づくにつれ、その規模が明らかになっていく。
「……おいおい」
ヴァンデスが呟く。
爆発したのは、高層ビルだった。
中層階の一部が大きく損壊し、窓ガラスが周辺へ散乱している。
煙が上がり、消防車や警察車両が周囲を取り囲んでいた。
しかし、さらに厄介なことがあった。
「上の階に人が取り残されています!」
警察官が叫ぶ。
「何人ですか!?」
「正確な人数はまだ分かりません! ですが複数です!」
「ヘリは!?」
「無理です!」
別の警官が空を指差す。
屋上には大型のアンテナ設備が倒れていた。
さらに爆発による損傷で、屋上周辺も危険な状態になっている。
「ローターが巻き込まれる危険があります!」
「建物そのものも危険です!」
「さらに余震のような衝撃があれば、いつ崩れてもおかしくない!」
現場は完全に混乱していた。
ジェシカが地面へ降りる。
「ここです!」
「お、おう……」
ヴァンデスも降ろされる。
そして――。
「うっ……」
数秒後。
「おえっ……!」
「ヴァンデスさん!?」
ヴァンデスはその場にしゃがみ込み、盛大に吐いた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……」
「飛ぶの、そんなに苦手だったんですか!?」
「……」
「ヴァンデスさん?」
「……空を飛ぶ奴とバディ組むんじゃなかった」
「まだ言ってるんですか!?」
ヴァンデスはしばらく地面を見つめていた。
「……水」
「え?」
「水くれ」
ジェシカが周囲を見渡す。
その時、ヴァンデスは近くの自動販売機を見つけた。
「自分で買う」
「え、ちょっと!」
ヴァンデスはふらふらと自動販売機へ向かった。
財布を取り出す。
ボタンを押す。
水が落ちてくる。
それを開け、一気に飲む。
「……」
ようやく少し落ち着いたらしい。
その間にも、警察官たちの話が聞こえてくる。
「上層階にまだ取り残されている人間がいる!」
「階段は?」
「爆発の影響で一部が崩落!」
「エレベーターも停止しています!」
「消防の突入は?」
「建物の構造が危険すぎる!」
ヴァンデスは水を飲みながら聞いていた。
「……」
「屋上から入るのは?」
ジェシカが尋ねる。
「無理です」
警察官が首を振る。
「アンテナ設備が倒れていて、ヘリを寄せられない。それに屋上も損傷している」
「じゃあ……」
ジェシカがビルを見上げる。
上層階。
窓の向こうに、人影が見える。
「……助けないと」
ジェシカが拳を握る。
「でも、どうやって……」
ヴァンデスは自販機の横に座った。
「俺にできることはねぇな」
「え?」
「俺は飛べねぇし」
水をもう一口飲む。
「ビルを壊すような能力もねぇ」
「……」
「爆発物ならともかく、救助活動は専門外だ」
ジェシカは黙り込む。
しかし、すぐに何かを考え始めた。
「……」
「……」
「……ヴァンデス!」
「ん?」
ヴァンデスが振り返る。
「なんだ急に」
「衝撃を出さずに、壁に穴を開ける方法ってありますか?」
「……」
ヴァンデスは水を飲んでいた。
「ぶっ――!」
盛大に吹き出す。
「いきなり何言ってんだお前!」
「だって!」
「普通はもっと別の方法を考えるだろ!」
「でも、階段が駄目で、屋上も駄目で、窓から入るのも危険なんですよ!」
「だからって俺に聞くな!」
「爆発物の専門家じゃないですか!」
「俺は建築業者じゃねぇ!」
ジェシカはビルを見る。
「でも、何か方法があるんでしょう?」
「……」
ヴァンデスは頭を掻いた。
そしてビルの構造を見上げる。
「穴を開けるだけなら、方法はいくらでもある」
「本当ですか!?」
「ただし、今の状態で大きな衝撃を与えりゃ、二次崩落を起こす」
「じゃあ……」
「衝撃を極力出さずに、局所的に開口部を作る必要がある」
ヴァンデスはしばらく考える。
「……テルミット系の反応を利用する手もある」
「テルミット?」
「金属酸化物と金属粉末の反応で、非常に高い熱を発生させる方法だ」
ジェシカが真剣に聞く。
「それなら、衝撃をあまり出さずに?」
「理屈の上ではな」
ヴァンデスはビルを見る。
「ただし、今ここで適当にやるのは危険だ。材料も条件も分からん」
「材料があればできますか?」
「……お前、本気か?」
「はい」
ジェシカの表情には、冗談が一切なかった。
「私がヴァンデスさんを上まで運びます」
「いや、だからって――」
「必要な材料を集めます」
「おい」
「お願いします」
ヴァンデスはため息を吐いた。
「酸化鉄やマグネシウムなんて、都合よくあるわけ――」
「あります」
突然、警察官が口を挟んだ。
「……は?」
「フラッシュバンの中身に使われる部材に、マグネシウム系のものがあります」
別の警察官も続く。
「酸化鉄なら、使い捨てカイロなどにも関係するものがあります」
「……」
ヴァンデスは頭を抱えた。
「お前ら……」
「集めます!」
警察官たちが一斉に動き始める。
消防。
警察。
現場スタッフ。
誰もが手分けして必要なものを探し始める。
ヴァンデスはそれを見て、呆れたように笑った。
「……マジかよ」
ジェシカがヴァンデスを見る。
「できますか?」
「理屈の上じゃな」
「じゃあ!」
「待て」
ヴァンデスが立ち上がる。
「これは救助だ」
「はい」
「俺は爆発物を扱う時と同じように、周囲の安全を最優先にする」
「分かりました」
「それから、俺が指示した場所以外には絶対に触るな」
「はい!」
「あと――」
ヴァンデスがジェシカを見る。
「俺を落とすな」
「もちろんです!」
「絶対だぞ」
「絶対です!」
「二度言ったからな」
「大丈夫です!」
ジェシカがヴァンデスを抱える。
「では、行きます!」
「……」
ヴァンデスは目を閉じた。
「……」
「ヴァンデスさん?」
「……頼むから、今回はゆっくり飛んでくれ」
「善処します!」
「その言葉、信用できねぇんだよ!」
二人は一気に空へ上がった。
そして損傷した高層ビルの上層階へ向かう。
⸻
上層階。
取り残された人々は、不安に怯えていた。
「誰か来た!」
「ヒーローだ!」
ジェシカが窓際へ降りる。
「大丈夫です!」
ヴァンデスも降ろされる。
「全員、落ち着いて!」
ヴァンデスが叫ぶ。
「助けに来た!」
取り残された人々が集まってくる。
「ここから出られるんですか!?」
「出す」
ヴァンデスが周囲を見る。
壁。
梁。
損傷した部分。
「……ここならいける」
ジェシカが尋ねる。
「本当に?」
「穴を作る」
「分かりました!」
ヴァンデスは必要な準備を始めた。
だが、ここで詳細な作業方法を説明することはしない。
彼が扱うのは、あくまで救助用に管理された装置と材料。
そして重要なのは――。
爆発させることではない。
構造を見極め。
衝撃を抑え。
必要最小限の開口部を作ること。
「ジェシカ」
「はい!」
「穴が開いたら、まず子供と怪我人」
「分かりました!」
「その次に動ける奴」
「はい!」
「最後に俺」
「ヴァンデスさんも先に行ってください!」
「俺は最後でいい」
「でも――」
「いいからやれ」
ジェシカは頷いた。
やがて――。
慎重に作業が進められる。
大きな衝撃はない。
ビルを揺らすような爆発もない。
そして。
壁の一部に、人が通れる程度の開口部ができた。
「できた!」
ジェシカが叫ぶ。
「よし!」
ジェシカが人々を抱えて飛び出す。
一人。
二人。
三人。
地上へ。
そしてまた上へ。
まるで空を飛ぶ救急搬送のように、何度も往復する。
「次!」
「はい!」
「まだいる!」
「分かりました!」
ヴァンデスは残った人々を誘導する。
「慌てるな!」
「一人ずつだ!」
「押すな!」
「絶対に走るな!」
人々が少しずつ救出されていく。
最後の一人がジェシカに抱えられて地上へ降りる。
そして――。
「まだ一人!」
ヴァンデスが叫ぶ。
「え?」
「奥にいる!」
ジェシカが再び飛び上がる。
「見つけました!」
「連れてこい!」
「はい!」
数分後。
最後の人間が地上へ運ばれた。
ヴァンデスは最後まで残っていた。
「ヴァンデスさん!」
ジェシカが戻ってくる。
「行きますよ!」
「……ああ」
ジェシカがヴァンデスを抱える。
「帰ります!」
「……」
ヴァンデスは地上を見下ろした。
救助された人々。
駆け寄る消防隊員。
泣きながら家族と抱き合う人。
そして――。
自分の隣で、疲れ切っているのに笑っているジェシカ。
「……」
ヴァンデスは小さく息を吐いた。
「……まあ」
「はい?」
「バディってのも、悪くねぇのかもな」
ジェシカが目を丸くする。
「今、なんて?」
「何でもねぇ」
「言いましたよね!?」
「言ってねぇ」
「言いました!」
「うるせぇ」
ジェシカは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、帰りましょう!」
「……ああ」
二人は夕焼けに染まり始めた街へ降りていった。
その日。
高層ビル爆破事件で取り残されていた人々は、全員無事救出された。
死者なし。
重傷者なし。
そしてニュースでは――。
空を飛ぶ新米ヒーローと、その隣に立つやつれた退役軍人の姿が何度も映し出されることになる。
ただしヴァンデス本人は、そのニュースを見ることなく。
「……帰ったら酒だ」
と、呟いていた。