第十話 七つ目の心臓
古竜の巨大な顎と、ヴィットリオの両腕。
それは、奇妙な均衡を保っていた。
「……」
ヴィットリオは歯を食いしばっている。
古竜もまた、唸り声を上げながら顎へ力を込めていた。
上顎を押さえる右腕。
下顎を押さえる左腕。
どちらも譲らない。
古竜の頭部が僅かに震える。
ヴィットリオの脚が地面へ沈む。
「……重てえな」
ヴィットリオが呟いた。
古竜がさらに力を込める。
――ギギギギ……。
巨大な牙が、ヴィットリオの腕へ迫る。
だが、ヴィットリオは押し返している。
「……」
数秒。
十数秒。
それでも決着はつかなかった。
レオノーラが少し離れた場所から見ている。
「……まだ続けるつもり?」
「らしいわね」
セラフィーナが答える。
「でも、さすがに――」
「――遅え」
ヴィットリオが呟いた。
「……え?」
セラフィーナが聞き返す。
「遅えんだよ」
ヴィットリオの眉間に皺が寄った。
どうやら。
飽きたらしい。
「いつまで押し合ってりゃいいんだ」
古竜が唸る。
その巨大な瞳が、ヴィットリオを睨みつける。
「……」
ヴィットリオも睨み返す。
「そうか」
突然、口元が歪んだ。
「じゃあ、やり方を変える」
「ヴィットリオ?」
レオノーラが声をかける。
ヴィットリオは答えなかった。
代わりに。
下顎を押さえていた左腕を離す。
「――!」
古竜の顎が閉じようとする。
その瞬間。
ヴィットリオは身体を捻った。
そして。
「邪魔だ」
脚を大きく振り上げた。
「――おらぁッ!!」
蹴りが、古竜の牙へ直撃する。
――ガァンッ!!
巨大な牙が揺れた。
「……!」
古竜が咆哮する。
ヴィットリオは止まらない。
「一本!」
もう一度。
――ドゴッ!!
「二本!」
さらに蹴り込む。
――ガァン!!
巨大な牙が根元から抜ける。
地面へ落ちる。
ズゥン、と地響きがした。
「ヴィットリオ様!」
部下が飛び出す。
「回収しろ!」
「はい!」
男たちが一斉に駆け寄る。
「傷をつけるな!」
「承知!」
「全部持って帰るぞ!」
「はい!」
ヴィットリオは満足そうに頷いた。
「よし」
そして古竜を見る。
「もう一回」
「……」
古竜が目を見開く。
「――おらぁ!」
蹴り。
――バキィン!!
また一本。
「回収!」
「はい!」
部下が拾う。
さらに一本。
また一本。
ヴィットリオは足の届く範囲にある牙を次々と蹴り抜いていった。
「これもだ!」
――ガン!
「それも!」
――ドゴッ!
「そっちも!」
――バキン!
「ヴィットリオ……」
レオノーラが呆然とする。
「何?」
「あなた、古竜相手に抜歯してるの?」
「そうだ」
「……」
セラフィーナも言葉を失う。
「戦い方がおかしいわよ」
「牙が邪魔なんだよ」
「だからって蹴りで抜く?」
「抜けるからな」
ヴィットリオは当然のように答える。
「しかも売れる」
「……」
セラフィーナが額を押さえた。
「結局それなのね」
「当然だろ」
ヴィットリオは古竜の口元を見る。
そして眉をひそめる。
「……」
「どうしたの?」
レオノーラが尋ねる。
「もう足の届くところに牙がねえ」
「それは良かったじゃない」
「良くねえ」
「え?」
「まだ残ってる」
ヴィットリオは古竜の頭部を見上げた。
巨大な角。
巨大な頭。
長い首。
そして、その先に続く胴体。
「……」
ヴィットリオが腕を伸ばす。
「じゃあ――」
古竜の頭部を掴む。
「これを取るか」
「ちょっと待って」
クラウディアが声を上げる。
「何をするつもりです?」
「首を捻る」
「……」
「引っこ抜く」
「何をです?」
「頭」
「物騒すぎます」
クラウディアが眉をひそめる。
だが。
ヴィットリオはもう聞いていなかった。
両手で古竜の頭部を掴む。
「よっ……」
腕に力が入る。
「……らぁッ!!」
身体を捻る。
古竜の首が大きく傾く。
鱗が軋む。
地面が揺れる。
「グォォォォッ!!」
古竜が咆哮した。
それでも。
首は千切れない。
「……!」
ヴィットリオがさらに力を込める。
「おおおおッ!」
古竜の筋肉が盛り上がる。
長大な首がヴィットリオの力に逆らうように踏ん張る。
「……こいつ」
ヴィットリオの目が見開かれる。
「首、強えな」
古竜はただ耐えているだけではない。
全身の筋力を使って、首を戻そうとしている。
その力は凄まじかった。
ヴィットリオがどれだけ捻っても、首そのものを引きちぎることができない。
「……」
ヴィットリオの額に汗が浮かぶ。
これまでほとんど汗をかかなかった男が。
初めて。
明確に力を使わされていた。
「ヴィットリオ!」
レオノーラが叫ぶ。
「無理に引っ張らないで!」
「うるせえ!」
「首を折るつもり!?」
「千切れねえんだよ!」
「だからやめなさい!」
「嫌だ!」
ヴィットリオはさらに力を込めた。
「せっかく目の前にいるんだぞ!」
「素材の話!?」
「素材以外に何がある!」
「……」
セラフィーナが呆れ果てる。
その時だった。
古竜が大きく身体を捻った。
「――!」
ヴィットリオの足元が崩れる。
「お?」
巨大な身体が横へ傾く。
ヴィットリオは古竜の頭を掴んだまま離さない。
古竜もまた首を引こうとする。
両者の力が噛み合った結果――。
巨大な古竜の身体が、ゆっくりと傾いた。
「……あ」
レオノーラが呟く。
「倒れる!」
――ズゥゥゥン!!
山が震えた。
古竜の巨体が地面へ倒れ込む。
土煙が舞い上がる。
翼が大地を叩き、周囲の岩が転がった。
古竜は――。
腹を天へ向け、仰向けになっていた。
「……」
ヴィットリオは、その腹部を見下ろした。
「……」
口元がゆっくりと吊り上がる。
「腹が出たな」
「そこ?」
セラフィーナが呆れる。
ヴィットリオは古竜の腹部へ歩いていく。
古竜が起き上がろうとする。
だが。
ヴィットリオが腹部へ飛び乗った。
「動くな」
古竜が身体を捻る。
「動くなって言ってんだろ!」
ヴィットリオが拳を腹部へ叩き込む。
――ドンッ!
古竜の身体が沈む。
「よし」
ヴィットリオは周囲を見回す。
「クラウディア」
「何ですか?」
「心臓の位置、分かるか?」
クラウディアが眉をひそめる。
「……魔力の流れを見れば、おそらく」
「じゃあ教えろ」
「まさか――」
「そのまさかだ」
ヴィットリオは笑う。
「七つ目をいただく」
クラウディアが魔力を探る。
「……そこです」
ヴィットリオが視線を落とす。
「ここか」
「ええ」
ヴィットリオは古竜の胸部へ手を置いた。
「……」
ゆっくりと指を立てる。
そして。
「悪いな」
まったく悪びれていない声だった。
「もらうぞ」
魔力が爆発する。
古竜が大きく身を震わせた。
「グォォォォォォォッ!!」
ヴィットリオの腕が胸部へ沈む。
レオノーラが息を呑む。
「……本当にやるのね」
「……」
セラフィーナも言葉を失っている。
ヴィットリオは無言のまま腕を伸ばす。
そして。
何かを掴んだ。
「……あった」
ヴィットリオが笑う。
「これだ」
巨大な手がゆっくりと引き抜かれる。
その手には――。
強烈な魔力を放つ、古竜の心臓。
ヴィットリオがそれを見つめる。
これまで取り込んできた六つの心臓。
それによって得た、常識外れの体力。
傷を受けても瞬く間に身体を修復する再生力。
そして。
元々持っていた、魔族の常識から外れた肉体。
それらをさらに押し上げる、七つ目の心臓。
「……」
ヴィットリオの目が細くなる。
「最高だ」
そして。
心臓を自身の胸元へ押し当てる。
膨大な魔力がヴィットリオの身体へ流れ込んだ。
「――ッ!」
ヴィットリオの身体が震える。
筋肉が膨れ上がる。
傷口が急速に塞がっていく。
周囲の空気そのものが震えるほどの魔力が、身体の内部へ吸い込まれていく。
やがて。
心臓が光の粒子となって崩れた。
ヴィットリオの身体へ完全に吸収される。
「……」
静寂。
ヴィットリオはゆっくりと拳を握る。
そして。
「……七つ」
呟いた。
口元が、邪悪な笑みに変わる。
「七つ目だ」
レオノーラがヴィットリオを見る。
「身体は?」
「……」
ヴィットリオは首を回す。
ごきり。
肩を回す。
ごきり。
拳を握る。
「悪くねえ」
「そう」
「むしろ――」
ヴィットリオは笑った。
「最高だ」
セラフィーナが古竜を見る。
そしてヴィットリオを見る。
「……あなた、本当に何なの?」
「俺か?」
ヴィットリオは笑う。
「金持ちになりたい魔族だ」
「その答えで納得できると思う?」
「俺は納得してる」
少し離れた場所では、部下たちが回収した古竜の牙や鱗を整理していた。
「ヴィットリオ様!」
「ん?」
「金色の鱗、かなりの量があります!」
「よし!」
「宝石が固着したものも!」
「絶対に割るな!」
「はい!」
「牙は?」
「すべて回収しました!」
「よし!」
ヴィットリオは満足げに頷いた。
古竜の巨体。
無数の鱗。
大量の牙。
そして七つ目の心臓。
その全てを手に入れた。
「……」
ヴィットリオは倒れた古竜を見下ろす。
「悪くない仕事だったな」
レオノーラが苦笑する。
「あなたにとっては、でしょう?」
「ああ」
ヴィットリオは酒を飲むような気軽さで答えた。
「金も手に入った」
拳を握る。
「力も増えた」
そして。
「最高の一日だ」
山中に、ヴィットリオの笑い声が響いた。