第三話 金貨五枚分の仕事
こうして――。
金貨五枚であっさり依頼を引き受けたヴィットリオ・ヴァレンティアと、魔王の娘二人による模擬戦が始まろうとしていた。
「……」
ヴィットリオは、三人の視線を受けながら立っていた。
そして。
「……ふぁぁ」
大きな欠伸をした。
「……」
「……」
「……」
レオノーラ、セラフィーナ、クラウディアの三人が、揃って黙った。
「あなた」
クラウディアが眼鏡を押し上げる。
「何だ?」
「眠いのですか?」
「眠い」
「……」
「昨日ちょっと飲みすぎた」
「今日、模擬戦をするとは思っていなかったのでしょうね」
「ああ」
ヴィットリオは悪びれもせず答えた。
「昼に急に呼び出されて、来てみたらこれだ。酒が残ってる」
セラフィーナが呆れた顔をする。
「じゃあ断ればよかったじゃない」
「金貨五枚」
「……」
「貰ったからな」
ヴィットリオは懐を軽く叩く。
ちゃり、と金属音がした。
「もう受けた仕事だ。やる」
「本当に金貨だけで動くのね……」
「金は大事だぞ」
「それは知ってるけど」
ヴィットリオはゆっくりと首を回した。
ごきり、と鈍い音が鳴る。
「まあ、身体くらいは動かしておくか」
そう言って、ようやく準備運動を始める。
腕を上げる。
伸ばす。
下ろす。
肩を回す。
ゆっくり。
実にゆっくり。
次に腰を捻る。
ゆっくり。
脚を伸ばす。
ゆっくり。
前屈。
ゆっくり。
「……」
セラフィーナがじっと見ている。
「何よ、その動き」
「柔軟だろ」
「遅すぎるわよ」
「そうか?」
「そうよ」
ヴィットリオは気にすることなく、また身体を伸ばす。
その姿は、戦いを前にした戦士には見えなかった。
まるで冬眠から叩き起こされた巨大な熊だ。
寝床から這い出してきたものの、まだ寝ぼけていて、身体を動かすことすら面倒くさそうにしている。
レオノーラが思わず微笑む。
「本当に眠そうね」
「眠いからな」
「それでも戦えるの?」
「戦える」
「そう」
レオノーラはそれ以上言わなかった。
ただ、剣を握り直した。
ヴィットリオはその様子を横目で見て、ふと自分の服へ目を落とした。
「……これ、邪魔だな」
「服?」
セラフィーナが尋ねる。
「ああ」
ヴィットリオは外套を脱いだ。
重厚な生地に、細かな刺繍が施されている。
裏地も上質なものだ。
それを近くにいた侍女へ渡す。
「預かってろ」
「はい!」
「上着も」
「かしこまりました」
上着を脱ぐ。
続いて指輪。
一本。
また一本。
さらに腕輪。
首飾り。
装飾の施された留め具。
次々と侍女や侍従へ渡していく。
セラフィーナがそれを眺めていた。
「……すごい量ね」
「そうか?」
「その指輪も高いんでしょ?」
「高いぞ」
「やっぱり」
ヴィットリオは黒い宝石の嵌まった指輪を眺める。
「こいつは結構気に入ってる」
「価値が分かってるのね」
「当然だろ」
「てっきり、金持ちだから適当に買ってるのかと思ってた」
「俺は金持ちだからこそ、気に入った高い物を買うんだよ」
ヴィットリオは指輪を侍従へ渡す。
「落とすなよ」
「はい!」
「傷つけるな」
「もちろんでございます!」
「汚したら――」
ヴィットリオは少し考えた。
「人間どもに奴隷として売っぱらうぞ」
「……!」
侍女の顔が引きつる。
「冗談だ」
ヴィットリオは笑った。
「たぶん」
「ヴィットリオ」
クラウディアの声が飛ぶ。
「……何だよ」
「侍女を脅さないでください」
「脅してねえよ」
「脅しています」
「分かったよ」
ヴィットリオは肩をすくめる。
「大事な物だから、気をつけろって言っただけだ」
「言い方というものがあります」
「はいはい」
最後に上着を脱ぐ。
残ったのは簡素な肌着だけだった。
そして――。
誰もが黙った。
ヴィットリオの身体が露わになる。
巨大だった。
単純に背が高いとか、筋肉質だとか、そういう話ではない。
肩幅そのものが異様に広い。
首は太く、胸板は分厚い。
腕はまるで太い丸太のようで、拳を握れば、それだけで人間の頭ほどもある。
腹部には巨大な筋肉が幾重にも重なり、全身が一つの塊のように見える。
その肉体には、数え切れないほどの傷跡が刻まれていた。
斬撃。
刺傷。
火傷。
噛み傷。
何かに叩き潰されたような痕。
それでもヴィットリオは気にした様子もない。
「……」
セラフィーナが目を細める。
「やっぱり……凄いわね」
「何が?」
「身体」
「普通だろ」
「普通なわけないでしょう!」
セラフィーナが叫ぶ。
「魔族でもそんな身体してる奴、そうそういないわよ!」
「そうか?」
「そうよ!」
レオノーラも静かにヴィットリオを見る。
「確かに、聞いていた以上ね」
「何が?」
「あなたの身体」
「生まれつきだ」
「それだけ?」
「あと酒」
「酒?」
「飲めば身体が強くなる」
「それは初耳ね」
レオノーラが小さく笑う。
「絶対に真似しない方がいいと思うわ」
クラウディアが冷静に言った。
「同感です」
ヴィットリオは気にせず、拳を握った。
そして一度、軽く振る。
空気が鳴った。
「よし」
「準備できた?」
「ああ」
レオノーラが大剣を構える。
セラフィーナが杖を持ち上げる。
ヴィットリオは――。
構えなかった。
「……」
セラフィーナが眉をひそめる。
「構えないの?」
「面倒くさい」
「何それ」
「殴ればいいだろ」
「……」
レオノーラの目が少し細くなる。
「分かったわ」
彼女は静かに腰を落とした。
「では、始めましょう」
「おう」
最初に動いたのはヴィットリオだった。
「おらぁ!」
巨体が突っ込む。
速い。
予想以上だった。
セラフィーナが目を見開く。
「速っ――!」
ヴィットリオは右拳を大きく振りかぶった。
ただし――。
大振りだった。
あまりにも大雑把。
隙だらけ。
「もらった!」
レオノーラが踏み込む。
ヴィットリオの拳が届くより先に、彼女の大剣が振り抜かれた。
狙いは胴。
完璧なタイミングだった。
――ズンッ!
刃がヴィットリオの身体へ食い込む。
「入った!」
セラフィーナが叫ぶ。
しかし。
「……?」
レオノーラの表情が変わった。
剣が――止まっている。
振り抜けない。
刃は確かに肉へ食い込んでいる。
しかし、そこで止まっていた。
「……なっ」
ヴィットリオは自分の脇腹を見下ろした。
「痛えな」
「……」
レオノーラが力を込める。
だが、刃はそれ以上進まない。
筋肉が刃を噛み止めていた。
まるで巨大な鋼鉄の塊へ剣を突き立てたようだった。
「レオノーラ!」
セラフィーナが叫ぶ。
「離れて!」
同時に魔力が膨れ上がる。
ヴィットリオはレオノーラの剣を掴もうとした。
その瞬間。
セラフィーナの魔法が放たれた。
轟音。
炎と風と衝撃が混ざり合い、ヴィットリオの巨体を正面から包み込む。
訓練場の床が震える。
土煙が舞う。
「どう!?」
セラフィーナが叫ぶ。
煙の向こうから――。
「……」
巨大な影が立ち上がった。
「……熱いな」
「嘘でしょ」
ヴィットリオは身体についた埃を払った。
肌にはほとんど傷がない。
「今の魔法、結構強かったぞ」
「結構って……!」
セラフィーナの顔が引きつる。
ヴィットリオが笑う。
「じゃあ次は俺の番だな」
レオノーラが剣を引き抜く。
傷口から血が流れる。
それでもヴィットリオは気にしていない。
「……なるほど」
レオノーラが剣を構え直す。
「硬いだけではないのね」
「何?」
「こちらの攻撃を受けても、怯まない」
ヴィットリオは肩を回した。
「痛いぞ?」
「そうは見えないわ」
「痛いのと、止まるのは別だろ」
その言葉にレオノーラが僅かに笑った。
「確かに」
セラフィーナが再び魔力を練り始める。
「だったら、今度はもっと強いのを――」
「待て」
クラウディアの声が飛んだ。
「訓練場を壊す気ですか?」
「……」
「防護結界を張っていますが、限度があります」
「でも!」
「模擬戦です」
クラウディアは冷静だった。
「殺し合いではありません」
セラフィーナは渋々魔力を抑える。
「……分かったわよ」
ヴィットリオが笑う。
「じゃあ続けるか」
レオノーラが構える。
「ええ」
次の瞬間。
今度はレオノーラから踏み込んだ。
先ほどとは違う。
正面からではない。
ヴィットリオの視線を僅かに外へ誘導し、死角へ回り込む。
剣が横薙ぎに走る。
ヴィットリオが腕を上げた。
――ガァン!
腕で受ける。
レオノーラの剣が弾かれた。
「……!」
その隙を狙ってヴィットリオが拳を振る。
またしても大振り。
しかし――。
レオノーラは冷静だった。
一歩下がる。
拳を紙一重で避ける。
そして懐へ入り込む。
「そこ!」
剣の柄がヴィットリオの顎を打つ。
巨体が僅かに揺れる。
「おお」
ヴィットリオが笑った。
「上手いな」
「あなたが大振りすぎるのよ」
「そうか?」
「そうよ!」
セラフィーナが叫ぶ。
「何で毎回そんな馬鹿みたいな殴り方するのよ!」
「当たればいいだろ」
「当たらないから言ってるの!」
「じゃあ当てる」
ヴィットリオが笑う。
今度は左拳。
レオノーラが避ける。
右。
避ける。
また左。
避ける。
レオノーラは冷静に距離を取り、ヴィットリオの動きを読んでいく。
その度に、ヴィットリオの拳が空を切る。
だが――。
一発。
たった一発でも当たれば終わる。
それが分かっているから、レオノーラは一切油断しない。
そしてセラフィーナも魔力を練り続けている。
「お姉様!」
「分かっているわ」
「次、合わせるわよ!」
「ええ」
レオノーラがヴィットリオの攻撃を誘う。
大きく踏み込んできた。
拳が振られる。
レオノーラが身を沈める。
拳が頭上を通過した。
その瞬間――。
「今!」
セラフィーナの魔法が放たれた。
今度は真正面からではない。
地面を抉りながら進み、ヴィットリオの足元から爆発する。
――ドゴォンッ!
ヴィットリオの巨体が浮いた。
「入った!」
セラフィーナが叫ぶ。
しかし。
ヴィットリオは空中で身体を捻った。
そして着地。
ドンッ、と地面が沈む。
「……」
「……」
セラフィーナとレオノーラが黙る。
ヴィットリオは膝を伸ばした。
「今のはちょっと効いたな」
「ちょっと!?」
セラフィーナが叫ぶ。
「今の結構本気だったんだけど!」
「そうなのか?」
「そうよ!」
「じゃあ大したもんだな」
「褒めてる?」
「ああ」
「……なんか腹立つ!」
ヴィットリオは笑う。
その顔には、ようやく少しだけ楽しそうな色が浮かんでいた。
眠気はまだ残っている。
深酒の気配も完全には消えていない。
それでも――。
魔王の娘二人を相手にしているうちに、少しずつ身体が起きてきたらしい。
クラウディアはその様子を黙って見ていた。
「……」
そして、眼鏡の位置を直す。
金貨五枚で始まった、ただの模擬戦。
だが。
どうやら、そう簡単には終わりそうになかった。