それを解消するためにシグレが打ち出した秘策は。シグレの誘惑に折れた先生はどうなってしまうのか(えっちします)。
恋愛漫画というものを、読んでみたのだ。
別に、私から読みたいと思って手に取った訳じゃなかった。それは私の同居人が、──つまり天見ノドカが、図書館から借りてきたものなのだった。
「私たちはきっと、ちゃんとした恋愛のノウハウを理解しないといけないんだよ!」
彼女はそう言った。
「あのぼんやりしててよく分かんない先生のことを籠絡するためには、一個ずつちゃんと段階を踏んでいかないといけないよね!」
誰の、何に対しての言い訳のつもりなのか、全然分からなかったけど、取り敢えずうんうんと頷いておく。
ノドカは言い訳というか、建前というか。行動する前に、如何に自分の将来にそれが役立つのかということを考えて、宣言して、その上で自身を納得させないといけないらしい。
今日は頑張ったから、少しだけでもご褒美を自分に与えないと、長期的に見てダイエットは続かない──そんな風に、今まさに目の前でスイーツに手を伸ばしている漫画の主人公なんて、まさにそれだ。ちょっとだけ、この子はノドカに似てる。そんな気がする。
先生のことが好きなのは、先生が頼りになるから。将来が安泰だと思うから。
先生のことを籠絡したいのは、227号送りにされている私たちのこの待遇の改善に繋がるかもしれないから。
先生の動向を観察するのは、上記の理由に基づいて、それらに有利に働く可能性が高いから。
それはきっとノドカらしさというよりも、普遍的な女子高生らしさなのだと思う。女の子は合理性の無い行動を、合理的だと考えることで初めて行動する。そうして、無鉄砲を賢さや強かさに変換して、時に誰かや自分を傷つけ、時に成長する。そんな性質があるのだろう。
「うわ⋯⋯先生のおちんちんおっき⋯⋯」
「比較対象がいるの?」
「いないけど、いないけど! それでも少なくとも小さくはないってことは分かるでしょ!」
「ふーん。そんなもんかな」
これにはどんな理由があるんだろうとは思うけれど、友人の性犯罪の正当化を聞いて誰かが幸せになれる未来は全く見えないから、スルーしておいた。
「⋯⋯」
「涎垂れてるよ」
私は。
先生の裸なんか、見たくない。
エロティックさよりも、あの痩せた身体の貧相さの方に目が行ってしまいそうな気がするから。
それに、見るだけで満足できる気がしない。
私は、どうせなら触れていたい。言葉を交わしていたい。そうじゃないと満足できない。ある意味では失礼な喩えを使うのなら、遠い星を見上げるだけのことに、私はあまり価値を見出さない。
星を見るのは、好きだけれど。
一番身近なところにいる大切な人は、それに少しだけ似ている気がするのだけれど。
でも──あの人にだけは。何というか、そんな形容は似合わない気がするのだ。
⋯⋯しかし、恋愛漫画の登場人物の女の子は、憧れの男の子を遠くから見ているだけで幸せであるらしい。
「それにしても、あんまり私みたいな女の子っていないもんなんだよね。面白みがないってことなのかな」
「面白いか面白くないかって問題よりも、共感できるかどうかって問題だと思うけどね。ノドカがしっかり没入してるんだったらそれが正解でしょうよ。あと、シグレみたいに冷静な女の子だと話が進まないから」
「⋯⋯私じゃ駄目なの?」
「恋愛なんて一時の情動に身を委ねるような愚行を犯すにも才能がいるってこと。少なくともシグレはそんな馬鹿な真似をするような人間じゃないでしょ」
「ノドカは愚かってこと?」
「⋯⋯言葉の綾だよ」
燦々と陽気な日差しが差し込むカフェテリアのテラスで、私はトニックコーヒーを、先生は紅茶を、それぞれ口に含んで飲み干した。
ここは温かい。227号での、血流を滞らせるよう凍えすらも忘れてしまいそうになる。私の野性が溶けて、耐寒性動物としての能力は格段に落ちてしまう。
砂糖菓子みたいな外装が溶けて、とろりとした甘ったるい液体で全身がずぶ濡れになっているみたいな気分。毛並みの全部がだめになっちゃってるんだ。でも、幸せ。
⋯⋯昔は、気温の影響だと思っていたけれど、
最近は。その熱源は、多分──。
「⋯⋯それって、さ。私に、恋愛は向いてない。ってこと?」
「少なくとも、大半の女子高生が好きなようなものは。いや、少なくとも私の主観でしかないんだけどね。案外シグレもぴゅあっぴゅあな恋とかするのかもしれないけどさ。貴方にはもっと大人っぽいものが似合うんじゃないかな?」
彼は肩の辺りで切り揃えられた灰色の髪を、落ち着かない様子でふわふわと弄っている。
何の心境の変化があったのか、彼は昔は結わえていた長い髪をバッサリと切ってしまっていた。
昔はじゃらじゃらとした派手なイヤリングをしていたのに、今の彼の耳の装飾は控えめな銀色の輪っかに留まっていた。
彼の身体で、あの日と同じなのは、綺麗な赤色の瞳だけ。
薄っすらと淀んだ、石榴石。
「うーん。定義がよくわかんないな。先生がぴゅあっぴゅあな恋って、例えばどんなの?」
「私も別に大仰に恋とかしたことないからなあ。好きな人のこと考えて眠れなくなるとか、会ってる間は時間が経つのが早いとか、そんなもんかな。枯れて老いた私には、想像するのが少し難しいけど⋯⋯」
首を捻りながら、指折り列挙する彼の言葉に、同じく私も首を捻ってみる。
「⋯⋯⋯⋯困ったな。案外、私って、そんな感じかもしれないや?」
「⋯⋯そうなんだ」
「うん。相手、誰だと思う?」
「⋯⋯いや、遠慮しとくよ。知ったところで何にもできないし、気まずいし」
「そうかな。そうかも?」
──『キスをする。貞操を切り売りしている。対価は何だろう。妙に幸せだから何でも良いか。』
「そういえば、⋯⋯そうだな。えっと──あそこの温泉旅館、最近どうなんだろうね。直近、行った?」
「うん、ちょくちょく顔出してるよ。また一緒に泊まる?」
「⋯⋯暇があれば、そうね」
私は、甘い菓子を口のなかに放り込んで咀嚼する。
味蕾に伝わる刺激を感受して、
先生の唇を見つめている。
私は、先生とべろべろに酔った挙句にキスをした事がある。
結婚しようとまで言ったような気がする。私の舌が、その文字列を記憶している。
ノドカがなかなか帰ってこなくて精神が摩耗していたというのはある。先生も激務で疲れていたようだった。お互いに正気じゃなかった。おかしかった。私も彼もその性質の点では少しばかり似ている。流されて、その場のノリで思い切ったことまで、してはいけないことまで、なんでもしてしまえる。
私も彼も、きっと憎からずお互いのことを想っていた。ただ単に顔と名前の一致する人間同士であるという以上には何かしらの強い感情を抱いていた。愛しているとか、そういうのじゃなくて、もっと何か、根本的に繋がり合っているみたいな、そんな、陳腐じゃなくて、けれど傍目には在り来りで、私達だけが示し合わせて感じていればいい、そんな関係性があった。
──あの日と。
違っているのは、似ていないのは、一つだけ。
私は、今も、いつでも。
貴方とキスがしたい。
「先生ってさ」
「うん?」
「なんで髪切ったの?」
「え? 単純に邪魔くさかっただけだけど」
そうなんだ。
今の先生も可愛いけど、髪を切る前の先生は尚更儚くて可愛かったのに。
思う。けど、言わない。
今も可愛いからね。
「美味しかった?」
「うん。ありがと、先生。227号室にもまた遊びに来てよ」
「そのうちね」
先生は何処まで覚えてる?
あの日したキスの味とか。私の身体の温度とか。あとから思い出して死にたくなりそうな馬鹿げた妄言とか、戯言、とか。
私は覚えてるよ。
全部。全部。
「私はねぇ。シグレみたいな女の子に生まれたかったんだよねぇ」
「あーーーーーーーーお酒美味しい気分良い……ダメだよシグレちゃ〜ん? こんな味未成年が知っちゃダメだよ?」
「私の乳首弄って楽しい? えー? 下半身以外なら触ってもいいけどさぁ? ……いや、ダメだよ。良い訳無いでしょ」
「⋯⋯シグレは可愛いね。翡翠みたいな色をしてる。綺麗」
全部全部全部全部全部全部──。
「……………………」
たった数時間。
いや、60分すら超えていなかったかもしれない。
それだけの時間を全て、
私は覚えてるんだよ、先生──。
人間だって獣の一種なんだって、実感する。
もっと先が欲しいって思う。もう一度、じゃなくて、それよりも、って、求めてる。身体が。心が。
⋯⋯思えば。
先生は私が私の性別を振り翳してつまらない悪戯をすると、その度に薄っすらと嫌そうな顔をする。
それは多分、先生が安易にそれに乗っかるような人間だったなら──私の方が嫌な顔をするのだろうから。もっと言うと、先生はそれを知っているだろうから。
ああ。馬鹿なことをしていたな、と思ってる。
でも、本当に、知らなかったし、分からなかった。
私にとって、こんなにも。……こんなにも。こんな風に、彼を想うようになる未来があるとは。私が、とても当然みたいに、誰かを魅力的だと感じるようになるとは。
そう分かってたら、間違えないで、正しく、膝を突き合わせるみたいに接し合えたかもしれない。
まあ。
そうと解っていたとしても。私はどうせ、先生にまた同じように接して、同じように嫌な顔をされて、それでも突き放してくれないのが嬉しくて、それで、きっと、先生を同じように好きになるのだろうけれど──。
「っ⋯⋯ふっ⋯⋯⋯⋯」
表皮に刻まれた感触は消えない。
焦げてしまいそうな体温も。
唇の味も。
遠慮の欠片のない、愛撫に似た抱擁も。
全部、私だけに与えられた──。
「⋯⋯あっ、⋯⋯くるっ、っ⋯⋯⋯⋯」
頭蓋が割れるみたいな衝撃が走った。意思とは無関係に脚先まで身体が跳ねた。甘い吐息を漏らして誰にともなく媚びる。荒い息も絶え絶えに、また指先で産道を掘り返す。
遠い昔に私に与えられた、愛欲と記憶の欠片たち。それらを全部思い出して、パッチワークで継ぎ接ぎにして繋いで、全部罅割れた音で再生する。
その全てを、私の性感に還元してやる。
「せんせっ⋯⋯激しくっ⋯⋯し、てぇ⋯⋯」
必死に人差し指と中指で自身の性器を指でほじくり返して、暇な親指で強く張った陰核を擦って、もう片方の手で痛いくらいに乳房を掴む。
みっともなく僅かに体液を散らしながら、絶頂に向かうためだけに、一人の部屋で身体をくねらせる。犯してくれる人のいない寂しいこの肉塊を、自分だけで優しく慰める。
けれど、それとは対照的に、妄想の中では薔薇色の景色が広がっている。先生がレイプするみたいに激しく私を求めている。私のおっぱいを鷲掴みにして、骨と骨がぶつかり合うみたいに腰を振って、ただのオナホールみたいに扱われて、私は泣いてしまうのだ。その涙を彼は舐め取って、淫靡に笑う。私は涙と涎でぐちょぐちょになった顔を晒したまま、バカみたいに声を上げている。
「すきっ⋯⋯すきっ⋯⋯キスしてっ⋯⋯せんせっ⋯⋯」
天井の隙間の穴から、私が私を見下ろしている。
私しか知らない、私の痴態を、覗いている。
「普段は饒舌って訳じゃないのに、やたらうるさいね。オナニーくらい静かにすればいいのに」
うるさい。私が私に口を出さないで。
「こうしてる間にも、あの先生は他の誰かとおっきいちんちんでずこずこぱんぱん交尾してるのかもしれないのに──私は一人で虚しくおまんこぐちゅぐちゅするだけ。寂しいね」
黙って。私の癖に、私に偉そうな口を聞かないで。
「⋯⋯ねえ、どう思う? 先生ってオナニーとかするんだと思う? 男の人のオナニーってどんな風なのか分かんないけど」
「そのくらいは分かるよ、うるさいなあ。手で握ってゴシゴシするんでしょ。ちょっと想像したら──」
想像したら。
「⋯⋯何を考えたの? すけべだねえ」
「うるさいなあ⋯⋯」
エッチな女の子の画像を観ながら。
淀んだ瞳で、背中を曲げて。
少しだけ荒い息で。
「似合わないね」
「ほんとにね」
右手は、生暖かい穴のなかに指を突っ込んで掻き回している最中だった。厭な匂いがしていた。
左手は、相も変わらず乳房を強く握っている。乳首を触っていても、別に気持ちいいとは思わない。ただ、痛いことが好きだった。少しだけ、乱暴にされたかった。
「先生は、理性の人だから、さ。オナニーとかしないんだろうなあ。女の子をそれなりに食べ飽きてるか、寧ろ逆に童貞なのかも。性欲とか、全然ありませんよって顔してるよね」
「私の同意を求めないでよ。前者はともかく、後者はただの願望でしょ。みっともないな。恥ずかしいと思った方が良いよ」
「先生はきっと、こんなはしたない女の子のことなんて好きじゃない」
「先生は誰にも捕まえられない妖精みたいな生き物なんだか、清らかな女の子以外の傍にはいられない」
「例えば、私じゃ駄目だし。多分、ノドカでも駄目で」
「というか、普通の女子高生じゃきっと駄目で」
「多分、そもそも。あの人はきっと、誰も愛さずに生きて死ぬ」
「寂しいね」
「寂しいよ」
でもさ。
そんな先生がさ。誰かに──或いは私に、裸で跨がられて、その大きなものをみっともなく勃たせて、誰かに──または私に、泣きそうな顔をして、必死に顔を隠そうとして、でもその誰か──もしくは私、はその手を引き剥がして、誰か、もしかすると、ひょっとすると私は、その頬に、唇に、キスのスコールを降らせて、その視界に入るのは私だけで、私は、私は──。
そうして私は、
あの人を犯す。きっと。
あの人の理性を溶かして、私の理性と混ぜ合って、カクテルを作る。悪酔いが止まらなくなって、死ぬまで後を引く激的な頭痛と快楽をもたらす、そんな酒精を──口移しで、啜り合って──。
貴方が、情けなく、精液を吐き出して。
私はそれを腟内で感じて、安心して、笑って──。
「────っ、ふう⋯⋯⋯⋯う、うう⋯⋯いうっ、」
そんなことを思っていると、子宮口の入口が中指の先っぽで引っ掻かれて、身体が大きく跳ねた。
呆気なくイッちゃった。
パチパチと視界が明滅して、刹那の快楽で骨盤と脚の付け根が大きく強張る。尻尾の骨がぴんと張ってびりびり震える。
甘い快楽に身を委ねて、頭蓋骨の中ででろりと脳髄が融けるような感覚がする。ぼうっと何も考えられなくなって、理性が主体ではない一匹の獣になって、腐った意識が作り出す心と言う名の幻想に、水面に死んだ魚が浮かび上がるみたいに、ただの感覚が突いて出る。
また、純粋で綺麗なあの人から、遠ざかってしまった。なんて、ね。
「⋯⋯下手な幻想だよ」
「うるさいな。良いでしょ。別に」
「悪い大人に引っかかってると、人生大変だよ?」
「もう大変だよ」
薄い布団から取り出した手には、灰色の縮れ毛が張り付いていた。
妙な怖気が走って、手を洗いに行こうと思い立った瞬間、ふと考える。
「⋯⋯ねえ」
「何。さっきまでうるさいって言ってた癖に」
「先生って、おちんちんのとこに毛生えてるかな」
「生えてるでしょ、普通。私にも生えてるのに」
「でも剃ってるかも」
「生えてた方がえっちしてくれそうでいいじゃん?」
「どういう偏見?」
私の理性は、そんなものを求めてはいなかった。
だけど、臍の下の下腹部は、どうしてもその熱を求めてしまって、強く疼いている。
だから無意識に伸びた手で、私はまた生殖器を弄り始める。おまんこ弄りをやめられないでいる。
少し前に、自身の短い爪で処女膜を無くしてしまってからというもの、自慰行為に対する罪悪感や躊躇というものが極端になくなってしまったような気がする。吹っ切れてしまったのだろう。
もっと、もっと。甘える子供みたいな退行。より気持ちいい場所をと腟内を漁って探し回るその様子は、傍から見れば滑稽極まりないんじゃないだろうか。その度に鳴るくちゅくちゅという水音は、幼児の一歩一歩でその靴底から空気が抜ける音に似ているかもしれない。
寂しい。
虚しい。
私だって、私のこんな汚い場所を触りたくなんか無い。
本当は──私が触って欲しい相手は、他にいるのだ。
私は、その人に。
私の弱いところを、全部全部、触っていて欲しい。
身体を委ねさせて欲しい。
甘えさせて欲しい。
お腹を見せて、先生の膝のうえで裸で寝転がって、何度もキスをして、手を繋いで、頭を撫でられて、お腹を撫でられて、その指先がゆっくりと私の大切な場所まで降りていこうとするのを見て、怖がりながら、だけど抵抗できなくて、そんな私の滑稽な姿を、普段の私とは全く違って、でもそこから地続きな好意を晒している私を、嘲笑うみたいに優しく慈しんでまたキスをして──。
「先生にキスしてって空中でベロ振ってるの、気持ち悪いね。性欲に塗れた猿みたい。先生が見たら幻滅すると思うけどね。──あんだけクールな女の子演じといて、それは無いんじゃない?」
「ああもう、うるさいなあ誰も見てないんだから良いでしょ別に。誰にも見せる予定もないんだからさ」
「先生に見られたらどう思う?」
「⋯⋯見て欲しいよ。いっそのこと」
「先生とキスしたいなあ。鼻筋を舐め回したい」
「セックスは?」
「二の次でいいよ、もう」
枕にゆっくりと顔を落とした。天井から見下ろしている私のことは全部無視して、その布の塊に唇を寄せてみる。唇の端から唾液が垂れて、濡れて、少しだけ擬似的な唇に質感が与えられる。先生の唇の味はどんなのだろう。どんな酒よりも強く甘い、そんな気がする。
目を瞑る。
私の顔に空いた二つの穴。その隙間から溢れる小さな雫がじわりと安っぽい布地に吸収されてゆくのを感じつつも、みっともない私は、黙々と粛々と勤勉に退廃的に人間的に官能的に、私の下腹部に開いた穴を、ひくつく肉襞を、私が理性的であれない全ての元凶を、濡れた指先で、抑えつけ、撫で回し、引っ掻き、掘り返し、激しくなり、そして絶頂する。また、次も、もう一度。絡みついた粘液が、蛙が吹き出す泡のような醜さに変わるまで──。
「先生」
「もう一回だけ、」
「キスして⋯⋯」
愛欲に塗れたその声は、
私がキスを交わした無機物が喰らい尽くして、
誰にも届かない。
「あとできたらセックスもしたい⋯⋯結婚したい⋯⋯」
誰にも届かない。
▲▼▲
「おはよ。せ、ん、せ」
遠路はるばるシャーレに出向いて、今日は当番の日だった。
先生が気に掛けなくちゃいけない女の子の数は日に日に増えていて、それに比例するように逢瀬の頻度もどんどんと少なくなってゆく。
私の指と指の隙間から、貴方は滑り落ちてゆく。
掴めない。鱗粉に、少し似ている。
「御機嫌よう、シグレ。調子はどう?」
「元気だよ」
うん。元気だ。嘘は一つも吐いてない。今の私は活力に満ちている。胸が高揚していて、少し悪いことくらいだったら簡単にしてしまえるくらい。
それが下賎な動機の所為だから、全く喜ばしいことではないことが少し気掛かりなだけで。
それに罪悪感を感じてしまっているだけで。
申し訳無いと思っているだけで。
表にさえ出さなければ、彼を心配させるようなことは一つもない──筈、だ。
「先生は、私に会いたくなってくれてた?」
「⋯⋯うん。会いたかったよ。最近は妙に疲れる仕事ばっかりでね。シグレとお話したかったから」
「⋯⋯⋯⋯そうなんだ?」
「嘘なんか言わないよ」
変な間でお話をするようになってしまった私たちだけど。先生はそれで本当に癒やされてくれるかな。
「いつぶりだっけ。久し振りに先生の顔を見たような気がするな」
「二週間くらいかな。前は苺が美味しかった。それがもう花粉の時期だから嫌になるね」
「レッドウィンターには根本の原因になる木が生えてないから、来てみたら多少は楽になるかもよ?」
「鼻水が凍って酷い目に遭うだけだと思うけど」
「それは⋯⋯そうかも」
カタカタと手元でキーボードを叩きながら、向かい側の席に座っている私の方へと緩い視線を向けて、彼は笑う。
BackSpaceの回数が目に見えて増えているから、ブラインドタッチが特別に上手という訳でも無いのであろうに。
それだけ私のことを見ていたいということなのだろうか。それとも、そんな風に私に都合よく先生を動かす原動力も、私と同じような罪悪感だったりするのだろうか?
「⋯⋯あと30分くらい待ってくれたら遊べるようになるから、もう少しだけ待ってね」
「えー。折角遠くから来たんだから、15分で終わらせてよ」
「普段なら1時間半で終わるって言ってる仕事量なんだよね、実は」
「⋯⋯そう。無茶言ってごめんね。当番なんだし、何か手伝おっか?」
「全然。先生は無茶を言われた方が嬉しいから──うん。そこで適当に寛いでてて、ね」
そう言われても、少しだけ気まずくて申し訳ないことには変わりがなかった。だから、コーヒーメーカーから黒い焙煎液を二人分用意して、一つを彼の机に置いて、些細な贖罪を終えてからまたその正面に座る。
コーヒーが飲めない彼は、それでも無理矢理にカフェインの煮汁を飲み込んで、私に向かって態とらしく舌を出して笑っていた。
最後に出会ったときに比べると、ほんの少しだけ、彼の髪は伸びていた。前のように三つ編みを作るにはまだまだ足りないのだろうけれど、少なくとも首筋は完全に覆われていて、年月の移り変わりを実感させられる。雪に囲まれていると中々感じづらい概念である故に、尚更感慨深く思っているのだろうな、なんて。
着実に成長しているその姿。変化の有り様。私はあまり髪が伸びない性質だから、それを目の当たりにしてしまうと、どことなく変な気分になる。羨ましい訳じゃないけど、なんだろう。
貴方は変わり続けている。生きている。
夢じゃない。幻想じゃない。固定されていない。
その現実さが、私はどうにも嬉しいのだ。きっと。
「そんなに私の顔見て楽しい?」
「楽しいよ。当たり前じゃん」
私にとって、癒しになってくれるものは、世界に二つ。
その一つである貴方が目の前にいるだけで、私は良いのだけれど。
貴方は?
▲▼▲
底冷えするような寒さが、未だに魂に残って離れないままでいる。
この身にはぽっかりと大きな穴が空いている。隙間風が通ってゆく洞穴がある。それがいつから空いているのかは分からないし、どうして空いているのかもてんで分からない。心を司る臓器も、呼吸を司るチューブも、その先に張り付いた液体の入った風船も、その全ては無くなって、ただ湾曲した骨に包まれたがらんどうだけが存在している。そんな気が、している。
皮膚があり、肉があり、骨がそれらを支え、その中には何も無い。或いは、『何も無い』だけがある。
そこに吹きすさぶ風が、雪が、ただ寒い。ひた寒い。食虫植物に似た壺のような穴の底に、いつしか積雪が重なって、大きな体積になって、延々と熱を奪っている。
その雪が融けようとすればするほど、水に近付けば近付くほど、その空洞から温度が失われてゆく。
そうしてまた気温が下がり、その水が雪雲に成り、また積雪。黒い影だけが残っていて、それは人の輪郭のような、それと似ているのに致命的にどこかが違う案山子であるかのような。
或いは、振り積もっているのは雪ではなくて、冷たい灰なのかもしれないが。
いつしか流れ出た溶岩が、この身の全てを溶かし尽くすのかもしれないが。
ああ。だから、この世界の熱に耐えられない身体になってしまったのだ。私は。
寒い場所ばかりを好むようになった。
肉体としてではなく、外気としてではなく、ただその精神として。
うだるような欲を疎み。
燃えるような熱意を避ける。
倦んだような瞳だけで世界を眺めている。
誰も彼もが熱を孕んでいるようなこんな世界で、酷く生き辛い性質を手に入れてしまったものだ。自嘲的に嗤ってみる。そして、何一つ笑えない自分に気が付く。
孤独だった。
他者の熱を自身に還元することを止めてしまった。
誰の体温も自分のものでは無かった。自分には体温が無かった。何も無かった。
だから、私は。
ただ、少しずつ、
爪の先から融けて、無くなってゆくのだろう、と。
そんな風なことを、思って生きている。
「先生は相変わらず忙しそうだね」
「まあ、忙しいと言えば忙しいのかもね。だけど、私は、どちらかと言えば忙しい方が助かるかな。余計なことを考える暇が無いほうが、良いような気がして。⋯⋯最近は不健全なことばかり思い至るから」
「折角賢いのにね」
「頭が良いだけで生きられると思ってたのは、明確に私が馬鹿なところだね」
「⋯⋯そんなこと、言わないで欲しいけどなあ」
「ごめんごめん」
上滑りしたみたいな会話だけが続いている。
本質で会話ができなくなったのはいつからだ。他人の言葉をきちんと飲み込めなくなったのは、自分の言葉が核心を損ねている気がするようになったのは。他者を通して、自分のために言葉を使っているような、そんな気がするのは。
凍結した脳が、そのまま脳髄の上でぷかぷかと浮いている。
それが溶けた時に、元の形を取り戻している保証がどこにも無いから、手出しはできないでいる。中からでろりとまろび出るものは、きっと、火の通った蛋白質、思考能力を喪ったヴァイスブルスト、醜いただの肉の塊。
「⋯⋯ねえねえ。先生は最近、お酒は飲んでるの」
「ううん、全然飲んでないかな。頭痛くなるし。起きれなくなるし」
「そんなの、駄目だよぉ? お酒飲まないで正常に生きられるほどこの世界は甘くないんだから、さ」
「一人で酒飲んでも楽しくないでしょ。悲しさと虚しさのほうが勝っちゃう気がするから、そんな勇気は無いや」
「ふうん。私はいっつも一人だよ」
「そこよりもまず飲酒を咎めたいかな」
眩しい太陽に照らされながら、何の変哲もない都会を歩く。
青空は高く、高層ビルの群れは遠い。
身近に影響を与えられるものは何もない。
閉鎖されているような気分に陥る。酷く、鬱屈とする。
狭い場所にいたい。
手を少し伸ばせば境界線に触れることができるような、そんな場所にいたい。
水槽の中にいたい。
水槽の中だけが、世界であって欲しい。
──いや。
私はとっくに、水槽の中にいるのだと思う。
塩素の匂いがする透明な水の中で浮き沈みを繰り返している。そんな夢を、見ている。
目を、開く。
閉じていたいのに、それでも薄っすらと視界を励起して、意識を、その先に。
その水槽の中から世界が見えてしまう。
酸素のある外側が見えてしまう。
誰も目もくれずに、広い広い世界の向こう側へと歩いて行ってしまう。
その全てを目にして、少しだけ泣きたくなる。
「あっついね。嫌になっちゃうな。⋯⋯半袖の服とか、買ってみれば良いのかもしれないけど。普段は意味ないからね。わざわざそんな服買うのもなあ」
「確かに、あんな場所で薄着なんて自殺志願みたいなものだよね。⋯⋯失礼な事を言うようだけど、シグレに薄着は似合わないよ」
「そうかな? アロハシャツとか着てみたいよ、私だって。海でBBQとか、いかにも青春って感じがするよね」
「あはは、それは良いね。楽しそう。サングラス買ってあげよっか?」
「浮かれすぎだなぁ」
だから寂しい。
どれほど人がいても。
誰が傍にいても。
何処で何をしていても、畢竟、人間はいつでもどこでも孤独からは逃れられない。自分の背後に立ち続ける黒い影と、少しだけ似ている。日陰では見えにくいからだ。
けれど、目の前に立ち続けて視界を塞ぐ点を鑑みれば、それよりも少しだけ厄介なのかもしれない。
それも仕方のないことではあるのだけど。
「⋯⋯ね、先生。先生は、何処に行きたい?」
「私? シグレが行きたい場所で良いよ。この辺で行ってない場所が無いくらいだもの」
「あ、そういう意味じゃなくて。今、どこにでも行っていいっていう権利が得られたら、先生はどこに行きたい?」
「ああ、そういうこと」
気楽な幻想を呑気に語る少女の口調は、ある意味では確かに救いなのかもしれない。端正な甘い顔立ちが静かに優しく見上げているのを見ていると、なんだか厭な胸騒ぎがする。
真宵シグレは、有り体に言ってしまえば、可愛かった。
庇護者としての感情では無かった。ような気がする。それが具体的に何なのか、突き詰めれば答えが出そうなものではあるが、何となく嫌な予感がしたからやめている。
というか最近は何を考えても全て嫌な予感がするから考えることそのものをやめている。
何を考えても別に楽しいことは何もないから、考えることをやめている。
考えることをやめることは人間の権利の放棄だと思っていたけれど、ならばならば人間であることを先にやめてしまおうなんて短絡的な自傷が好きになってしまって、考えることをやめている。
人間になりたいなあと思うことはあまりにも滑稽で惨めで、そんな自己憐憫に浸ってばかりの自分が嫌になるから、考えることをやめている。
「また難しいこと考えてた?」
「⋯⋯何も考えてないよ」
「うっそだぁ。そういう顔だったよ?」
「そうだな。うん。⋯⋯私はね、暗くて寒くて狭い場所に行きたいなって。そんな風に、思ったかな」
「⋯⋯それって、227号室なんじゃない?」
「確かに⋯⋯」
「⋯⋯行く?」
「また機会があれば、近い内に行こうかな。レッドウィンター、暫く行ってないや」
「来てくれるなら嬉しいよ。ノドカも喜ぶしね」
生きることをやめてしまいたいのかもしれない。
いっそ、人間でなかったなら。
そんなことを考えそうで──そこで、考えることをやめている。
「⋯⋯ねえ、シグレ」
「何?」
「今の私のこと、どう思う?」
「え?」
「⋯⋯先生は可愛いよ?」
「そうかな」
会いたかったようで、会いたくなかった。
変わらず、真宵シグレは魅力的だった。蠱惑的だった。その癖に、どうにも掴みどころが無くて困った。
私の記憶がただの美化であって欲しかった。記憶違いであって欲しかった。錯覚であって欲しかった。
「⋯⋯好きだよ。先生」
「変なこと言わせてごめんね」
私は、だから、立ち去ってゆく。外出の準備をするような顔をしているけれど、実際は全く違う。単に、合わせる顔を持ち合わせていないだけ。
彼女の顔を見たくなかった。今だけは、誰にも救われていたくなかった。惨めで可哀想で愚かな獣のまま、この世の片隅で尻尾を丸めていたかった。
「何かあった?」
「具体的なことは、何も」
「ふぅん。先生がそう言うなら、そうなんだろうね」
▲▼▲
いつも行くようなスイーツショップに行くのはやめた。
先生と行きたい場所なんてものは、今の私には特に無かった。本当に私が必要だったのはただ先生の存在だけで、何というか、それ以外の全ては殆ど邪魔だった。
少女漫画を読んだ。
その中にあるどんな景色も、私にはそぐわなかった。
私の心はもうとっくに、一片たりとも女子高生に向いてはいなかった。今の私は──じゃあ一体、何なのだろう。老婆と言うにも大人と言うにも、私には達観が足りていなかった。年齢に不相応に老いた私は、そうは名乗れない程には未熟なのだった。
回れ右して、早足で戻った。
シャーレの屋上で、曇り空の下を飛んで行く鳥を見上げて、冷たいコーヒーを二人で飲んだ。
それだけが私の望みだった。
なるべく衣服に包まれた身体同士が密着するように、体重を彼に預けて寄り掛かる。
先生は嫌がるものかもしれないとは思っていたけれど、寧ろ厭な顔一つせず、優しい目で私を眺めている。私は、その瞳が好きだった。溶けているみたいなその柔らかさと甘ったるさが好きだった。私の脳髄をアルコールに喩えるのなら、彼の体液はチョコレートに似ている。その首筋に牙を立てて、音を立てて吸い出したのなら──きっと、それは酷く甘いのだろう。
幾つか、難しい。
先生の感情を理解すること。
耳の大きさも、体内に埋まったまま生まれてしまっている尻尾も、私のそれとは大きく異なっている。彼の感情をそれらから推し量ることはどうにも難しかった。私の感情の発露の仕方と彼のそれの間には、やはり大きな乖離があって、そういった器官による視覚化がなされていないと、どうにも不安になってしまう。相手がノドカだったなら年の功で分かるのだけれど、彼にはそんな年月は通用しない。きっと十年傍にいたって、先生のことなんか解りっこない。
「シグレも大概解り辛いと思うけどね。尻尾と耳如きで測れるほど単純じゃ無いでしょ貴方」
「ありゃ、口に出てた?」
「いや、別にそんなことは無いけど。何となくそう思っただけだから」
「……じゃあ寧ろ、よく解ってるって言えるんじゃないの?」
「……確かにそうか」
へんなことばかり言ってる私たちだった。
傍目から見れば何の益にもならないようなことしか言えてないのだろうなと思う。こんなに価値の見え辛いものの中々無いのだろうと思う。だけど、それでも良かった。私は先生を愛してるから。それだけで、先生と過ごす今の時間に価値があると、そう思えるから。
徐々に、僅かににじり寄る。その肩に顎を乗せて、微睡んだように目を細めて見せる。私はいつでも先生にキスができる。
突っ張り棒のように立て掛けられたその腕を私の触手で絡め捕る。もっともっと身体を押し付けてみる。私の匂いを擦り付けてみる。
「⋯⋯随分寂しがりになったね、シグレ」
「先生のことが好きなだけだよ。解り辛いかもしれないけどね」
「⋯⋯そう」
彼の声色は、困惑している。困っているように聞こえる。きっと、返す言葉に悩んでいるのだと思う。
それでも、それなのに。
先生は、私を突き放すことだけはしないのだった。ゆるりと横目に私を見遣りながら、自分から引き寄せることもしないまま、微妙な距離を保ったまま、静かにただ生きている。
私は、もしかすると、先生には死んで欲しいのかもしれないと少し思った。
何となく、何処となく。
彼の生存を、きっと私は許せないでいるのだろう。
空を見上げる。直射日光の見えない曇り空。
肌寒いね、と言って、更に近付こうとした。
彼はやはり咎めなかった。抱き締めることだけはしてくれなかったけれど、それでも嬉しかった。誰にも見られない場所で、少しだけ宇宙に近い地続きの地上で、私たちは折り重なって目を閉じる。
僅かに思考する。幾つもの方法で、私は彼を殺してしまえる。
その時、どんな顔を見せるのか。駄目だと分かっていながら、どうしてもそれが見てみたくて、沢山知っていたくて、困った。
▲▼▲
恋愛漫画というものを読んでみた。
学生都市であるキヴォトスでは成年向けのだいたいのものがご禁制である筈なのだけれど、ノドカが好きなものは割と際どいシーンが多いというか、何ならそれがメインなのではないかと疑うような回が多い。R17.9みたいな。
こんなものを読んでたらそりゃエロガキだよねと思いながら、私も付き合っていた訳で。
私は──ノドカの建前を借りるなら、恋愛のノウハウを勉強するために恋愛漫画を読んでいた。
その癖に、私がそこで身に着けられたのはどちらかと言うとえっちなことばかり。
思えば、私は。
澄ました顔で、或いは浮足立って、綺麗で清純に男だの女だの恋だの愛だの、そんなものをやっているより。
ただ単に、動物の雄と雌みたいに絡まり合っている方が、よっぽど、よっぽど、共感できるのだろう。いや、違う。
⋯⋯共感できたのだ。
それだけ、私は不純ってことなのだろうか。
まるで普通の女子高生みたいに──ノドカみたいに──普通の恋愛に憧れることもできないで、もっと私に身近なものばかりにしか思いが行かないで。
私は。
不相応に大人ぶった、そんな私は──。
いったい何になれるのだろうか?
ま、そんなことはどうでも良い。
こんな取るに足らない郷愁ごとき、酩酊するか、或いは絶頂さえしていれば忘れられる。その程度のことで忘れられるということは即ち、生存においては全くの無意味だということだ。
「⋯⋯せ、ん、せ」
「どうしたの」
「帰れって言わないのかな、ってさ」
窓の外では、もうとっくに日が落ちてしまっていて、ただのっぺりとした暗闇が広がっている。煙のように充満した亞雨雲に遮られて、星も月も見えない。
「⋯⋯私、ここにいて良いの? こんな時間までさ」
「何を試しているのか分からないけど、私は全く構わないよ」
少しだけ、ほんの少しだけ余裕の残っている時間を確認した上で、気付けば、私はそう切り出していた。
先生の五指に因って全ての電灯の消えたシャーレの中では、あらゆる物質の輪郭は埋没している。それらを浮き彫りにするのは終わらない仕事を象徴するようなブルーライトの輝きだけ。その目の前で、青白い光に青白い顔色を上書きされた亡霊は、静かに笑っていた。
「私はそれほど大人でもないし、シグレはそれほど子供じゃないかなって思って。……帰りたくないなら、別に居てもいいよ」
変な回答だな、と、すこしだけ首を傾げた。
沈黙が部屋の隅々に届いた。
先生はモニターから視線を少しだけ上げて、見つめる私を見ていて、そのまま動かない。
視線が交錯したまま、やはり数秒。
「⋯⋯ああ、なんだ。先生は、私が帰りたくないって思ってるんだ。なるほど、なるほど」
あまりに。──あまりに音の無い、コンクリートの直方体。
その中で緩やかに反響する、私の声。普段脳の中で反響する声と違って、すこし変な気分。
「⋯⋯違うん、だよね」
「何が?」
「私ね──」
少しだけ、逡巡が過った。
いつもみたいに、さっきまでみたいに。適当にはぐらかしてしまおうかと、そんな風に思ったのだった。
気恥ずかしかった。
見透かされる気がして怖かった。
私よりもきっと賢いのであろう先生に向かって、真面目な顔で、真剣に接するのは──私にとっては、そう。とても、難しいことなのだった。
苦手なのだ。熱いこと、過激なこと、頑張ること。私は私のできることとできないことをはっきりと区別することばかりが得意で、だから、できそうにないことは最初からしたくなかったような気がする。そんな生き方ばかり、していた気がする。
私にとって運が良かったのは、私はある程度は器用で賢かったお陰で、それでも平然と生きることができたということ。
私にとって不幸だったのは。
──生まれて初めて、私の手では届かないものが、どうしても譲れなかった。
それが。
貴方だった。
私にとって唯一、貴方だった。
「帰りたいんじゃなくてさ。私、もっと長く、先生と一緒にいたいんだよね。迷惑、かな」
「迷惑⋯⋯じゃ⋯⋯ないけど⋯⋯」
ゆっくりと立ち上がって、先生の方へと歩いてゆく。
「⋯⋯良いの。今日の私、あんまり面白くないかったでしょ。久し振りに会えたのに、全然駄目だったのに。それでも良いの」
「良いよ。そんなの二の次で、傍にいたいからさ。私って案外、先生のこと好きなんだよ?」
座ったまま、彼は、私を見上げていた。
淀んだ瞳で。濁った心根で。見て居られないような気持になる。
だから、ゆっくりと先生に落ちて行く。
ごつん、と、野暮ったい衝撃が鈍く頭蓋骨を揺らす。
「昔したことのある会話な気がする」
「そうだっけ?」
それは私と彼のおでことおでこがぶつかり合った音。
「どのくらい好きか、教えてあげよっか?」
「嫌な予感がするから要らな」
先生の唇の味をゆっくりと噛み締めている。
身体が浮ついている。離れた唇の切っ先には、僅かに乾いた皮の感触がまだ残っている。湿った唾液の水溜りがいつ乾いてしまうのかと頭の片隅で考える。
心臓がばくばく言ってる。胃袋の中のものは殆ど残ってないはずなのに、何かが肺と食道から逆流していきそう。いっそ気持ち悪い。頭痛がしているみたいな感じがする。
「先生、駄目だよ。いっつも、目を見て話そうとするよね。⋯⋯隙だらけ。キスし放題」
「野生動物相手だと目を離さないほうが良いって習ったんだけどね」
「野生動物はキスなんてしない。野生動物は──」
震える右手で、ゆっくりと、ファスナーを下げる。
それにしても、この上着は片手で脱ごうとすると脱ぎづらい。浴衣で来ればよかった。後悔してる。
先生は、理性の人だから。
きっと、こういうことは、好きじゃないんだろうなあ。なんてことを思っている。
でも、そんな先生とそういうことがしたいんだったら、こうするしかないんだろうな──とも、思う。
それ以外にできないから、その選択肢を選んでいる。先生の為にはならない方法を。⋯⋯先生はきっと、哀しそうな顔をするであろうと、分かっている方法を。
信じてもらえるかは分からないけれど、私だってこんな短絡的なことはしたくなかった。
でも、仕方ない。時間も、機会も、私にはあまりに足りな過ぎた。できるなら、私だって、先生と同じ速度で歩いていたかった。もしも私と先生の二人しかこの世界に存在しなかったのならば、きっとそうできただろうに。
当たり前みたいな段階を、踏んでみたかった。
もっと仲良くなって、付き合って、手を繋いで、そんな幸せのプロセスの果てに、それはあるべきだったから。
でも、他でもない私自身が、それを放棄した。
誘惑して、仕切れなくて、だから手っ取り早い手段で愛玩した。キスとはそういうものだった。子供だから分からなかった。子供なんだから、そんなことしなきゃよかった。本当に、後悔してもし切れない。私の明確な罪と、それに対する明確な罰、──或いは、対価。
でも。
まあ、いっか。
「好きな相手を、肌で誘惑しようとは、しないんだよ。ね、先生」
上着から乱雑に左腕だけを引っこ抜く。内側に着たシャツを一気にまくり上げる。
外気におへそと上乳が触れて、少し肌寒い。
「⋯⋯勝負下着って奴。奮発して、買ってみたんだっ♡」
別に。
メカニズムはわかってない。
必要性も分かってない。
意味は、無いと思ってる。
でも。
それでも。
確かに、卑しいことに、胸が躍ったのだ。
支給品の、毛玉だらけの白い下着じゃない。
黒いブラジャーとショーツを、随分と値の張るそれらワンセットを、購入するときは。
まるで、少女漫画の主人公の女の子が、そうしていたみたいな気がしたんだ。
「⋯⋯ねーえ、せん、せ。えっちなこと、しよ。お世継ぎができちゃうみたいなこと、しよ?」
「⋯⋯⋯⋯キスで子供はできないよ?」
「素直に言って欲しいんだ? えっちだねぇ。
ねえ。
セックスしようよ、セックス」
脳味噌が凍るみたいな感覚がした。言ってしまった。もう戻れない。ちゅーで得られた熱が一気に吹き飛んで、呼吸が浅くなる。
「子供が欲しいの?」
「ううん。欲しいのは、先生」
「⋯⋯普通に話して、普通に一緒に過ごすだけじゃ、駄目なの?」
「駄目、かな。⋯⋯なんていうか、さ。好きな人のことを、隅々まで知りたいって思うのって、変だと思う?」
「変じゃ無いとは思うけど⋯⋯」
「私は、先生のことがもっと知りたいな、って。誰も知らないところまで。先生が知らないところまで」
「⋯⋯なるほど、ね」
少しだけ他人より長い犬歯が、かちかちと下の歯と擦れる音が鳴る。動揺を隠すみたいに、握った服の裾をもっと上へと持ち上げて、もっと素肌を晒す。
「いっぱい、教えて。先生の裸を教えて。先生がどんな顔で善がるのか教えて。体温を教えて。犯し方を教えて。⋯⋯私のことをどれくらい好きなのか、教えて」
「⋯⋯私のことも、もっと知って」
「どんな風にお毛々が生えてるのか、とか。⋯⋯どんな風に身体を震えさせるのか、とか。私が、先生のこと、どれくらい好きなのか、とか⋯⋯恥ずかしいことまで、一緒に教え合おうよ。ね、先生」
嘘と言えば嘘だし、ほんとといえばほんとだ。
私は思う。性欲っていうのは、結局は知識欲なんじゃないかって。相手のことを知り尽くして、掌握して、悦に浸りたいのが性欲ってことなんかじゃないのかって。少なくとも、あまり生殖欲がある訳じゃない私が感じられる性欲の形は、きっとそんな感じ。
だから、その全部を知識欲ってことにしてしまうのだ。
そんなズルで、性欲を覆い隠して、無かったことにしている。しようと、している。
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯どう、かな。可愛くない?」
「シグレは可愛いよ」
「⋯⋯そっか。うん。⋯⋯ありがと」
「⋯⋯本気だよ」
「解ってるよ」
「必死だね。珍しく」
彼は笑った。憐れむような、だけど、それだけにしては酷く柔らかくて、嫌になるほどに甘ったるい、そんな瞳をしていた。
「⋯⋯寒いんだけどな」
「そう。じゃあ、こっちおいで」
座ったまま、彼は私に向けて両手を広げる。
その意図がいまいち読めないまま、よちよちと寄ってみる。
そして彼は、優しく私の上半身を抱き竦めるのだった。
それは、酷く遠慮がちな──まるで、羽毛を潰さないように包み込むみたいに。
「⋯⋯これで多少は暖かいでしょ」
「うん。先生って暖かいんだね」
「生温いでしょ。血液と内臓の温度」
抱かれたまま、その胸に、私の身体を擦りつけてみる。
柔らかい肌が、スーツのゴワゴワした感触を挟んだ向こう側にある薄い胸板に触れて、その度に跳ね上がりそうになる身体を、必死で押さえつけている。どうにも浮かれた気分で困る。気でも触れているような気がする。
「どうしても、しなきゃダメ?」
「あんまり繰り返して言われると、なんだか萎えちゃうなぁ。⋯⋯するなら、しようよ。そうじゃないなら、駄目なんだったら⋯⋯今日はもう帰るから、さ」
「⋯⋯うん。⋯⋯そうだね。⋯⋯そうだよね」
先生は、ゆっくりと立ち上がった。私も、引き摺られるみたいに立ち上がった。
少しだけ私よりも背の高い彼の顔は、唯一私の視界に映る天蓋だった。理性的で優しくて、何処か冷めたような。
鼻先同士が触れる。
吐息が触れる。
私は今日もいつでも、彼の前では、呼吸が浅い。
「冗談じゃないのは、分かってるから──うん。私は頭が悪いから、少しずつ言葉を考えるしか無くて、じゃないと丁寧になれないから。⋯⋯聞いてくれる?」
「⋯⋯うん。良いよ。ちゃんと私のことを考えてくれるなら、だけど」
「抱き締めてる女の子のこと以外を思い浮かべられるほど器用だったら良かったのにね」
がたがたと震える、囁き声。
背中の皮に伝わる、指の凍え。
その優しさが嬉しかった。その魂の平坦さを愛していた。
その魂を穢してしまいたかった。
私と同じ場所まで叩き落としてしまいたかった。
一緒に、暗闇から星を見上げる私の、
隣に、
丸裸で何も隠さないその身体と、
手を繋いで、いたかった。
星が見えない夜には、私が覆い被さって、私が彼の夜になるのだ。
或いは。その反対でも良い。彼が私の夜になってくれるのならば、喩えそこに何も見えないとしても──他の全てで彼を感じられるのならば──それできっと、充分だから。
「⋯⋯断る為の言葉を、百個以上用意したんだ」
「そうなんだ。今から正座して全部聞こっか?」
「でも。それをしたら、シグレが柄にもなく泣いちゃいそうな気がしたんだよね。真面目な話」
「先生に冗談が通じなかったことも、怒られたことも、沢山あるけどね。私はそんなに子供じゃないよ?」
「私に怒られたから泣くんじゃなくて、⋯⋯なんて言えばいいのかな。⋯⋯自己嫌悪とか、かな。⋯⋯うん。そこまで気合を入れてきたのに、そんなに震えながら言われたのに、それを常識とか倫理とかであっさり跳ね返してハイ終わり、とか。馬鹿じゃないの、って話で──それを咎めるだけの場当たり的な対処しかできないのなら、そもそもそうならないようにしなきゃいけなかった。そうできなかった癖に、いざそれで行動を起こされたら、まるで自分が全部正しいかのような顔つきに戻って説教をするなんて無責任だ。私の美学に反する。私は責任を負わなくちゃいけない」
「私の性欲が強いのは私のせい──私の性だよ」
「私の性でもあると思う。⋯⋯思わせて欲しい。⋯⋯背負わさせて、欲しい」
そっと、窓の外を見る。
まだ深夜。
ただの暗闇。
「だったら、どうするの?」
「⋯⋯しちゃおっか。いけないこと」
「いっちゃうこと?」
「そうとも、言う」
「正直に、答えて。──私と、したかった?」
「少しだけね」
「──ねえ。お願いがあるんだけど、さ。シグレ」
名前を読んだ。
今から私が犯す少女の名前を。
今から私が、愛してしまう──女の子のことを。
「なあに。幾つ?」
「二つ。⋯⋯一つ目。してる間、私のことを好きって言わないで。私を勘違いさせないで。調子に、乗らせないで」
「女の子みたいだね。いいよ。⋯⋯終わるまで、言わないようにする。気持ちは分かるしね」
「ありがとう。⋯⋯あと、もう一個、なんだけど。今から、シャワー浴びて、仮眠室で待ってて欲しい」
「もしシャワー室で勝手にオナニーでもして、一人で満足したりなんかしたら、⋯⋯許さないから、ね」
▲▼▲
安っぽい、ビニールが擦れるガサガサとした音が、聞こえる。
灯りのない、薄暗い部屋の中。僅かにカーテンの向こうから夜景の切れ端が漏れて、微かに互いの体の輪郭が分かるくらい光量が私達を包んでいる。
私が身を捩る度に、ベッドフレームは軋み、シーツが擦れる音がする。
室外機が、おんおんと鳴っている。
それだけ。
聞こえるのは、ただ、それだけ。
──いや、少しだけ、嘘。
声にはなりきれない、音と言うのも少しだけ憚られる、そんな野性の現れみたいなものが、そこに満ちている。
「────」
「⋯⋯⋯⋯」
呼吸音。
唾を飲む音。
心臓が高鳴る音。
それらが、強く、強く、空気を振動させていた。
人を喰らう化物が、腹を空かせて苛立っているみたいな、独特の嫌な気配があった。薄いバスローブを裸身の上に羽織っただけの私は、あまりに無力で、心細くて、なのに、これ以上ないくらいに、悦楽している──。
「⋯⋯酔えた?」
「⋯⋯多少は、⋯⋯多分⋯⋯」
ごろごろしているのにも直ぐに飽きてしまって、ベッドの四角い輪郭に腰掛けている彼の隣に、私も座ってみることにした。
並んで座ると、やっぱり彼の方が身体が大きいことがよく分かる。無作為な上目遣いで誘惑する羽目になる。
「つまみもなしじゃつまんないでしょ。⋯⋯代わりと言っては、なんだけど。おっぱい、揉む?」
「⋯⋯⋯⋯ほっときなさい。生徒の胸で酒飲むアホがどこにいると言うんですか」
「柔らかいよ?」
「誰もそんな心配してない」
先生は、私の隣で、凄い勢いで、お酒を飲んでいた。
コンビニで売っている、小瓶に入った安いウイスキー。
私がシャワーを浴びて、仮眠室の布団の中で悶々としている間に、彼はどうやらコンビニに駆け込んでいたらしい。
ご丁寧に大雑把に、私が使ったあとのシャワー室で熱湯で身体を清めて、私と同じ白いバスローブを羽織った彼は、避妊具の箱とアルコールの瓶を手から提げていた。
それは、人間の理性とは正反対の塊たち。人の理性を溶かして、ただの猿人類に戻してしまう毒物たち。人間の進化が、或いは効率的に退化を促しているような、そんな気がして少し滑稽に思う。頭が、ぐるぐる回る。
「ね、柔らかいでしょ?」
「一カ所硬いけど。だいぶ勃ってるよね?」
「勃つに決まってるじゃん。触られてるんだから。そりゃ、ね? 自然な反応ってやつ」
力が入らないのか、或いはそこまでして抵抗する気も無いのか──先生は私の右手に従って、バスローブの隙間にその左の五指を押し込んだ。
右の乳房を、緩やかに撫でている。撫で回している。やはり或いは、そうさせられている。私が欲しかった感触。鳥肌が立つような生暖かさ。
「⋯⋯シグレって、乳首で感じる類の人?」
「んーん。あんまり。でも、乱暴に鷲掴みとか、ちょっとされてみたいかも?」
「⋯⋯⋯⋯そう」
「割と乗り気になってきた? いいよ、鷲掴みにして押し倒して無理矢理れーぷしても。そっちの方が興奮する?」
「そう言った時点で強姦は成立しません。あと、知って欲しいって言ったのは貴方でしょうが」
「んふふ」
私だって、今は猿の一種である。
アルコールと、先生で、脳がどろどろに溶けている。頭蓋骨を揺らせば、ちゃぷちゃぷ音が鳴るだろう。
「⋯⋯せんせ。口移し、しない? 私にさせられるのと、するのと、どっちがいい?」
「貴方がしたい方に委ねるよ」
「じゃあ先生が普段しなさそうな方が良いかな」
「そう。今飲んでるのでいい?」
「勿論」
生暖かい。生き物の体温がする。
溢れた数滴が唇の端から流れて喉を伝う。
上唇が何度も脈動に合わせてついて離れて音が鳴る。
下唇が何度も欲望に合わせてぶつかり合って泣いている。
「おいひぃね。せんせ」
「そうね」
「⋯⋯このまま、する?」
「する、よ。多分」
ムードを優先して良かった。視界が塞がれていて良かった。薄暗いままにしていて、本当によかった。これだけ近くにいたって、きっと先生には何も見えていない。でろりと蕩けた瞳も、涎が垂れるくらいに呆けて半開きの口も。こんなに情けないところを見られたら、きっと泣いてしまう。処女を喪うよりも怖い。
先生は、その口腔内から私に飲ませる為のお酒が無くなったうえで尚、私から離れようとしなかった。甘えるようなきすをちゅちゅと何度も繰り返し、私の弁舌の先っぽを弄ぶように撫で回し、淀んだ瞳の色を一直線にして照射している。甘えたい盛りの赤子みたい。
背中に手が回る。後ろ髪を撫で透かされる。肩甲骨から脊椎にかけて、下心で詰まった掌が移動する。抱き寄せられて、上手く動けなくて、その不自由さが心地よくて困った。
「いい具合に酔えてる?」
少しだけ荒い息使いを彼はしていた。
「そう信じるしかないよ。嫌んなるね。シグレはどう?」
その声は密造酒の匂いを孕んでいた。
「私は、別に。酔ってもすぐに影響が出る方じゃないからさ」
んふふ。
少女は視界の先で笑っていた。
そして彼女はそのまま、しなやかに力を抜いて、重力に従って、その身をこちらに委ねる。燃えているみたいに熱い身体が崩れて落ちてくるその様には、火事現場で倒壊する太い柱を何処か想起させるものがあった。
「先生」
「何?」
また、彼女から呼び掛けられる。こちらから何かを話したいと思ってはいる。けれど、妥当な始まりも、妥当な内容も、妥当な終わりも、何も見つからない。そんなものは端から何処にもない。ここは全てが間違っている空間で、当たり前なことだとか、常識だとか、そんなものを全て裏切ってしまった者が行き着く最果ての何処かで、故に、私では真っ当な口を聞くことなどできなかった。
「先生も、普段は、えっちなものとか観てるの?」
彼女は、なんだか泣きそうな瞳で、媚びて嘲笑うような口角で、少しだけ長い前髪と灯りの薄い部屋の暗澹が作り上げるキュビズムのような灰と黒の境界が複雑に走ったその顔で、身を竦めている。
「⋯⋯まあ。ゼロ、では、ない⋯⋯よ?」
その両手は、所在なげにシーツの上に投げ出されている。首を絞められているみたいな気分になる。
「ふうん。じゃあさ、おっぱいとお尻だったら、どっち派なの?」
ちるちると黄金色のアルコールを舐めながら、彼女は質問を投げ掛けた。布切れ一枚で何かを隠した気でいる肌色の曲線美にちらちらと目配せをしながら。
「──そんなこと知っても何にもならないよ?」
「教えてくれたら。好きな方、触らせてあげるよ」
「⋯⋯⋯⋯もう胸は揉んだから、お尻って答えたほうがお得なのかな?」
「いやいや。そういうんじゃなくてさ。ここまで来て教えてくれないってのは無しだと思うけどなあ」
「そんなことは分かってるよ⋯⋯」
嗤っている。
ちゅ、ちゅ、と、話しながら片手間みたいに、彼女は飼い犬のようなキスを何度も繰り返している。頬に、首に、鎖骨に。くるくると体の周りを巡りながら。
「どっち。どっち。どっちだ?」
「⋯⋯胸も尻も、実はあんまりなんだよね」
「ええぇ。一番冷める回答だなぁ」
「その代わりって言ったらなんだけど、脇と太腿がとにかく好きでね。胸と尻よりも興奮する。乳首はちょっと別なんだけど」
「だから言いたくなかったのに」
「⋯⋯うん。言わないで欲しかったかも」
キスの雨が止まった。
すすす、と、シグレは僅かに後退した。
その表情を見て、自身の失態を理解した。
ある程度は理不尽なことを言われてはいると思うが。
「⋯⋯太腿、触りたい?」
「太腿と脇にキスをさせてくれたら、嬉しい。シル・ヴ・プレ?」
「ううーん⋯⋯。そっか、そう来たか⋯⋯」
「駄目、かな」
伏せた目をそっと彼女に向けて、聞いてみる。
その青い瞳孔が少しだけ見開かれた。
足先から肩にかけて、下から上に、徐々に、その身体が震えてゆく。
「⋯⋯今ね。だいぶムラついたよ」
「見たら分かるよ」
「先生は可愛いなあ。⋯⋯仕方ないなぁ。本当に⋯⋯」
ベッドの上に、両足を投げ出す。
するすると、バスローブを持ち上げる。
真っ白な肉の塊が表れて、ぱたぱたと揺れる。
「おまんこは、まだ見せないよ。あとのお楽しみだからね」
「そう」
「で、どう? 生徒の憧れの生脚は」
「⋯⋯綺麗だよ」
「んふふ。そりゃあよかった」
「いっぱいキスしてね、せんせ」
一周。
その掌が、輪郭をなぞるように、私の太腿を撫でた。
私の側からは、薄暗い闇のなかで、蜃気楼みたいに彼の輪郭が震えたように見えていた。見えている。
頭を垂れて、そうして、彼は私の大腿部を愛し始めた。
私が枕を先生に見立てて何度もキスを繰り返していたのと、似たようなやり方で。何度も柔らかい唇でキスを繰り返す。その隙間からちらりと漏れた舌先で、ゆっくりと滑らかな唾液の線を描く。くすぐったかった。その生暖かい肉の感触が、私はずっと欲しかったんだと思う。
「っ────⋯⋯ふうっ⋯⋯」
「ムラムラしてきた?」
「うん。なんか、ね。先生がいなかったら、今すぐに弄り始めてるよ、多分。──先生がオナニーさせてくれなかったし」
「⋯⋯そう」
「それで、どう? 待ち焦がれた生徒の生脚のお味は──美味しい?」
「ボディソープの匂いがする。綺麗な匂い」
「⋯⋯えっちなこと言うねぇ」
──少しだけ、後悔してる。
でろでろと透明な粘液を垂れ流している。未練と吝嗇を象徴するみたいにまだ着けている勝負下着が、私の性欲でどんどんと汚れていく。
「はい、両腕持ち上げて」
「⋯⋯あのね、先生」
我慢の限界が近いらしい。間宵シグレは僅かに頻りに、繰り返して身体を揺すっている。内腿を擦り合わせて、肩を震わせて、瞬きの回数が増えている。
体温が高い。代謝が良い。生きている。とても。
「普段──というか、いつもはこんな薄着にならないんだよ。人前ではね。それでも、毎朝ちゃんとしてる。してるんだけど、その⋯⋯」
何かが、聞こえる。
それは何だ。よく分からない。彼女がらしくない焦り方をしているように思える理由も。
「⋯⋯私、ほら。他の子よりもちょっとだけ獣、でしょ。だから、体毛が生えるのもちょっと人より早い、訳でさ。だから、えっと⋯⋯」
「剃り後が残ってるの、普通にえっちだから気にしなくて良いよ」
舌先は敏感に繊細に、間宵シグレの脇に粒々と生えた産毛を撫でてゆく。
何をしているんだろう?
少しだけ蒸れた香りがする。厭な香りでは全く無い。食べ頃の鶏肉のような、食慾を唆らせる塩味。
何をしているんだろう?
両腕を背中で組んで、無防備を晒して、まるで虜囚みたいな気分だ。──いや、元から私はそれに近いのだけど。
先生は私の脇に顔を押し付けているから、その表情が見えないでいて困る。私に分かるのは、時折聞こえてくるちゅるちゅるという水音だけ。流石に、恥ずかしいなんてもんじゃない。真っ当にこの情報を受け止め続けてたら、多分私の気が狂う。
「先生」
「何?」
「暇だから、耳舐めるね」
「良いけど、縁で留めといてね。私耳に水入るの嫌いなの」
「分かった」
でこぼこしてる。
くらい、だ。他に感慨は無い。
強いて言えば、ここまで密着できたことが嬉しい。先生はこんなものが楽しいのだろうか。
なんだろうな。
あんなに求めていた筈のこの関係性が、この距離が、この交流が、いざ叶っているというのに、何故だか実感があるわけじゃないし、寧ろ落ち着いてる。
夢ってこんなもんだったのかな。
或いは、私の想いって、こんな程度のものだったのかな。
先生は女の子の脇が舐めたかったんだろうしその夢が叶ったんだろうけれど、それについては今どう思ってるんだろう。
「満足した?」
「ご馳走様」
「メインディッシュがまだでしょ」
ゆっくりと、顔を見合わせた。
彼は、普段と変わらない顔をしていた。少しだけ笑っているような、だけど奥底で冷えているような、そんな顔。
私は、先生のその表情を見る度に、いつも思うのだ。
それは、私がいつもしている表情に近いのではないか、なんて。
「ねえ、先生」
「幻滅した?」
「今ってまだせっくす中じゃないよね」
「まあ、原義的には。ほぼそれみたいなもんだけどね」
口濯いでくる、と一言言って、彼はベッドフレームから降りた。
するりと、私の腕が届く場所からいなくなった。
真横を擦れ違って、その香りと、押し付けられていた重量がいっぺんに無くなった。
それでも私の脳には、彼の顔が刻まれている。
水の音がする。
先生が帰ってこないような気がして、少し怖くなる。
室外機がおんおんと鳴っている。
私が動くのに従って、重心が偏って、ベッドフレームが軋む音がする。
それ以外に音のないこの部屋が、私にとってはあまりにも恐ろしくて嫌になる。
あるとあらゆる音が、私を食い潰そうとしている。
静寂が、背中から押し潰そうとする。
視界の端から闇がじわじわと蝕んでいる。
終わったあと、一人で帰るんだろうか。私は。
この火照った身体を抱いて。中に何も入っていないこの肉袋を揺らして帰るのだろうか。
今日の記憶を何度も思い返して、原型がなくなるまで反芻して。
好きって言いたかったなって思いながら、
惨めな気持ちで、
多分永遠に来ない次を待ち続けて、そんなのってあんまりにもあんまりなんじゃないのか?
どうやって生きればいいんだろう。私。
何の気なしに、カーテンを摘んで外を眺める。
雨が降っていた。
「ただいま」
「おかえり」
──ご機嫌な歩調で、彼が部屋に戻ってくる。音と声が聞こえる。微かな薫りを感じている。
私はなんだか安心してしまう。その程度のことに安堵している自分が嫌になる。──と、思いたいのに、上手に思えなかった。
隣に座ったその重力に、どんなふうな顔で接して、どんな言葉をかけて、何をするべきなのか。考えていたいと思った。それだけで幸せになれると思っていた。けれど、現実がそう上手く機能していないからなのか、或いは幸せというものがそれほどまでに難しいものだからなのか、私はそれを上手く果たすことができないで、ただ何も考えずに本能に任せて、手を伸ばした。
「寂しかった?」
「⋯⋯別に。どうでも?」
拗ねた顔で言ってみるが、でも今の私は胴体に尻尾を絡めているので、そんな姿で何を言っても無駄な気がするのだった。
というか、もっとぶっちゃけてしまうと──。
「⋯⋯ううん。嘘。ほんとは、寂しかったよ」
「そう。それはごめんね」
先生には、そっちの方が効くのだろうとも思う。
罪悪感を煽って、素直な顔で好意を伝えて、でも、ぎりぎり鬱陶しく無いくらいの温度感で、みたいな。そう言う意味でも私のそのアピールは無駄だった。無駄だからこそ愛して欲しかった。
「⋯⋯先生。私の方こそ、ごめんね」
「え? どれについて?」
「⋯⋯⋯⋯シグレは悪いことなんてしてないよって言ってよ。はい、せーの」
「未成年飲酒のこと、もう反省した?」
「しても良いけど。私はあんまり顧みないよ?」
「じゃあほんとに何について謝ったのよ貴方」
「なんていうか。さ」
「先生のこと。好きだよ。私。ね」
言っちゃ駄目って言われたのに。
言わないで欲しいって言われたのに。それでも言っちゃった。でもそれは先生も悪いと思うのだ。今からえっちなことをする相手に、好きだなんて言わないで欲しいなんて。どんな立場からの言葉なんだ。不遜で不敬で、なんて私が可哀想。
どんな顔をするのかな。
こんな正面切った告白、私は人生で一度もしたことない。先生だってどうせしたことはない。されたことがあるのだとしたら、私はきっと先生を許せない。
「好きになっちゃった。ごめんね。ほんとにどうしようかな。駄目だって分かってる⋯⋯というか、そもそもそんなこと有り得ないと思ってたのにな。どう思う? 私、恋とか愛とか、よく分かんないんだけど。多分、先生のこと、好きなんだよね」
ぼろぼろと崩れ落ちるように言葉が漏れてゆく。
「友愛ってことにしたかったな。でも、多分無理。先生が女の子だったとしたら、こんな気持ちにはならないと思う。ノドカを大事にしたいとは思ってるし。多分、どっちかが崖から落ちそうみたいなくだらない二者択一ならノドカを選ぶと思う。だけど、ごめんね。私、先生とはキスがしたい。えっちがしたい。惚れてるんだと思う。色んな少女漫画に出てくるようなちゃんとした恋じゃないと思う。純粋じゃなくて、多分突き詰めて行けば凄く身勝手な感情から発露した欲求なんだと思う。寒いから暖めて欲しい。いつ死ぬか分からないから傍にいて欲しい。先生が誰よりもしっかりしてるから一緒にいてくれたら安泰だと思う。お酒の趣味が合うと思う。打算的で理性的なみっともない恋愛感情。だけどれっきとして私は、先生が好き⋯⋯で、さ。⋯⋯」
泣けたらよかった。私はそこまで身勝手じゃなかった。
笑えたらよかった。私はそこまで演技派じゃなかった。
ただ淡々と、薄っすらとよく分からない意味で口角を上げたまま、壊れたモーターが軋むみたいに言葉を並べ立てて、先生を攻撃している。酷いことをしている。言い訳を、美辞麗句を、私の性欲を少しでも真っ当に見せたくて、──そんなフリで隠しきれないくらいに、私はきっと貴方が好きなのだ。うん。
「ごめんね。先生。好きだよ」
逃げられたくない一心でその腕を引っ掴んだ。抱き寄せた。もしもこのまま少しでも抵抗しようものなら、力任せに組み伏せて、大腿骨を圧し折ってでも犯すだろう。
「……先生とできるんだったら何でも良いってさっきまで思ってたけど。うん。それじゃ、駄目なんだよね。今、気付いた。惨めな想いをするのは慣れてるけど、気に入らない惨めさだってあるんだと思う」
私はきっと怒っている。好きだと言わないで欲しいなんて約束を取り付けた貴方に。言わなくても存在しているこの気持ちを無かったことにしようとした貴方に。言わないなら目を背けられると思ったんだろうか。好きでもない相手との単なる性欲処理だけで終わらせられると思ったのだろうか。ある程度は正しい。判断としてはこれ以上なく正常なその言葉は、最後の最後に私の仄かな恋情を焼き切ってしまった。
「⋯⋯お願い。先生。付き合って、なんて言わないからさ。いや、本当は言いたいけど。でも、そこまでは言わないから。だから、私が先生のこと、好きだって知ってて。知ったうえで抱いて。罪悪感を抱きながら犯して。私のちんけな純情を擦り潰すつもりで突いて。⋯⋯きっと二度と私は先生とはこういうことできないだろうから、これを掛け替えのない思い出にして死ぬから、そのかわりに、先生の中で最悪の思い出にさせて。お願い」
淡々と。朗々と。世迷言を。
愚かしい懇願を。
人生で一番恥ずかしくて、必死で。どうにも醜い──そんな文字列を、
「シグレは悪い子だね」
吐き終わる前に。彼は私が伸ばした手を、その向こうにある手首を、思い切り引っ掴んで引き寄せた。
「対等に扱って欲しいってことでいいの」
「……多分、そう」
「はあ。気持ち悪いから言わなかったのに、言わせなかったのに。そんなこと言うようなら、大人になるまで待ってあげられなくなるけど。いいの」
「⋯⋯え?」
私は知っている。その目を。
先生が本気で怒るときの目だった。私が向けられたことのある瞳。ノドカに盗撮されても、クーデター騒ぎに巻き込まれてもしなかった。私が浴衣で誘った時に、一度だけ。
違うのか。今になって解ってしまった。
「私は誰かに触れることをしない。私は汚いから。私は他人と必要以上に傍にいることはしない。私は醜いから。それでも、いいの。というか、やめた方が良いよ」
「……そんなこと言ったって。先生だっていっぱい色んな女の子と関わってるじゃん」
「あのね。生徒も先生も所詮はそういう名前を付けられただけの舞台装置でしかないの。私が仕事をするときに私個人の意見でやるべきことをやらないでいるわけにはいかないから上手に振舞おうとしてるだけ。……端的に言うと、私は聖職者であっても聖人じゃないから、……人間としての私に何かを求めるようなことは推奨できない」
それは、彼が、
理性と野性で揺れ動いている時の顔なのだった。
普段の冷めたような顔とはかけ離れた、身体を焼かれた虜囚のような、その表情は。臓腑を焼く苦悩に喘ぐ表情なのだ。
「⋯⋯ん、と。よく分かんない。ヤるの? やめるの?」
平静を装う。もっと壊したい。理性を奪ってしまいたい。もっと意地悪に。
「どういう意味。教えて?」
「あんまり煽られると躾の範疇で済ませてあげられないけどいいの? ってお話。分かる?」
「⋯⋯へえ?」
今までで一番動揺しているらしいその声が、その身体の震えが、暗闇の中でも伝わってしまっていた。
私は捕食者の瞳になって、一転、彼を問い詰める肉食獣になる。
「つまり、聞き分けの悪い生徒に対するお仕置きじゃなくなる訳ね。そうじゃなかったら何になるの?」
「成人男性が未成年の教え子にガチ恋決めて独占欲と性欲と純粋な恋情の元相手を絶対に手籠めにするために行う性行為になる。惨めで不愉快であまりにも生命として破綻してるからなるべくそんなことはしたくない。だからこれ以上私のことを好きだって言わないで欲しい」
ひゅ、と、変な呼吸が漏れる。
昂ぶっている。驕っている。隙だらけの美味しい餌。好きだらけの肉欲。涎が溢れそうなくらいに欲していて仕方ない。
「何が違うの?」
「先生と生徒の関係を逸脱する。一番醜い私としてシグレを性愛的に好きになっちゃう」
「⋯⋯既に性愛として好きじゃないとそういうこと言えなくない? 気の所為?」
彼の顔が思いっきり歪んだ。
凄く嫌な顔をしている。不愉快極まりないみたいな。嫌いな虫を見たときみたいな。そんな顔。
「好きだよ。結婚してくれるって前言ったの、割と本気にしてるんだけどね」
⋯⋯一緒なんだ、という声を漏らしかけて、必死で飲み込んだ。
先生は、私と一緒。
あの日の約束。酩酊の中で漏れ出ただけの酷く惨めな約束。それを縁に、ただ一夜好きだと言ってくれたそれだけで、愛してしまった──なんて。
「⋯⋯そんなのあまりにもみっともないから。だから、無かったことにしてたのに。趣味悪いよねシグレ。こんなののどこが良いの」
「顔。性格。エロいところ。好きだよ? 私、先生に抱かれる妄想でずっとオナってたし」
「言うなそんなこと。愚か者め」
私はいたずらに両手を伸ばした。
彼に手首を掴まれたまま、抱き締めて欲しいってアピールした。おねだりをした。
「んふふ」
笑みが出た。自然に。
「良いよ。しよ? 結婚前提、恋人いちゃいちゃらぶらぶセックス。りょーおもいセックス。一生の思い出にしちゃってさ。ぐっちゃぐちゃになるまで犯されて、反対に、ぐっちょぐちょになるまで犯すの。良いでしょ?」
「さっき言ってた話は何だったの。真逆なこと言ってる自覚ある?」
「どーでもいいよ。いいこと教えてあげる。獣の言葉に一貫性なんて求めちゃ駄目だよ」
「……はあ。御託が長いね。要約してよ」
「それ、先生が言うんだ。……そうだなあ。私は、先生に恋してる。それだけで良いよ。それだけ覚えてくれるなら、⋯⋯それで良いよ。ね?」
「さては酔ってるな?」
「んふふ」
彼はその望み通りに私を抱き締めた。私を包み込んだ。酷い失策。愚かな、野生を忘れた哀れな被捕食者だった。
薄皮一枚を隔てた向こう側で、彼の体は脈打っている。生きている。心臓がどくどくしている。緊張していると同時に、下半身の一部分に向かって血流が流れ込んでいるのだろう。本当に愛おしい。
「ね、せんせ。結婚しようよ。覚えてても覚えてなくても」
「なんで酩酊+両者全裸で言うの。頭おかしいでしょう」
「しないの?」
「するよ」
「何を?」
「⋯⋯性行為と婚姻」
「それ二つ並べるの、大分最低だね」
「獣の言葉に一貫性を求めないで。というか獣の論理を適用するなら、その二つは同時に存在して然るべしなんじゃないの」
彼の骨と筋肉の薄い身体に、脂肪の多い女の子の身体を擦り付けながら、話をしている。固くなった乳首を胸板に。愛液塗れの下半身を彼の太腿に。
「どう? じょりじょりしてて気持ちいいでしょ?」
「……随分と異性を誘惑するのが上手ね、貴方」
「処女に向ける台詞じゃないよ、それ」
「はあ。前々からどうにも処女らしくない挙動しかしない女がよく言うよ」
彼は鼻で笑った。……或いは、溜息を吐いた。
顔色も変えないまま、平然とした態度で。けれどそれは、突き放すような声色では絶対に無かった。寧ろそれは甘い甘い、どろりとした粘度を孕んでいた。私の脚を絡め捕って、どこにも行けなくしてしまうような。
「貴方はずっとそう。シグレの誘いに乗ったら負けだと思ってずっと理性で抑えてた私の気持なんて分かりっこないんでしょう、どうせ。憎々しい。許せない。……何でもかんでも軽く言うから、どこまで本気にしていいかも分からないし。……はあ。貴方と関わるの、これだから肝が冷えるというか……女の子慣れしてない私みたいなのには中々難しいよ。勘弁してくれ」
私の背中を撫でる五本の指が強張って、張り詰めて、引っ掻いて。その感情の揺らぎの大きさが、どうにも私を心地よくさせている。
今、私は。この世界で誰も無しえなかったことをしている。
先生を支配している。掌の上で転がしている。彼の命運も、感情も、将来も、全て私が転がしたいと思った方向に飛んで行く。
がりり、と、優しく。私も、彼の背中に爪を立てる。傷を付ける。
「へえ。見た目通り、女々しいところもあるんだ。先生のそういうところ、好きだよ」
「そういうとこさ。ほんとに可愛くない女だよね、貴方」
「えー? 私は可愛いでしょ。ほら、にゃん、にゃん♡」
「はあ。そんな浅瀬の可愛さで私が靡くとでも思ってるのなら、貴方は愚かだよ」
「ふうん。じゃ、どういう可愛いだったら靡いてくれるの」
「普段は余裕のある女の子が余裕なくなってるとこ見るのは好きだけどね」
「無理な相談だなあ。私、あんまり顔に出ないしね」
「こんなにどきどきしてる癖に、随分綺麗な澄まし顔してるものね。何なら今ここでちゅーしてあげよっか?」
「できるならしてみてもいいけど。良いの? 恋してるって言っちゃったのに。できる? もっともっと私に浸ることになるかもよ?」
「あんまり舐めちゃ駄目だよ、大人をさ」
貪られる、という陳腐な言葉の表現が、私は好きじゃなかった。少女漫画とか、小説とかにあるようなもの。
鹿が熊に喰い散らかされた後の遺骸だって、見慣れてる。自然に育った私は、──そんなことを言われても困ると言われればそれまでなのは百も承知の上で──甘い言葉としてその形容を使って欲しくなかった。そんな気がしていた。
今、理解させられた。してしまった。否応なく、強制的に。
脳の中を弄られている。口の中にずるりと押し込まれた38.5℃付近の熱を孕んだ肉の塊。歯列をなぞり、上に下に、嫌らしく舐られる私の感覚。
口腔内というのは、メスに依る切開無しに身体の末端が到達できる人体の空間の中で、鼻腔内に次いで大脳皮質に近い場所なのだった。頭を撫でられるよりも、或いは近い。空洞の中で反響する感覚。内側から愛撫される性感。
貪られていた。
恐ろしいくらいに従順に。この身を差し出している。人身御供。理性を、自身の自我を、ガリガリと食い尽くされているような気分。
或いは外界と自我の境目が泡沫になって消えてしまっても良いと思えるほど。
彼の中で融けてしまいたいと思えてしまうほど。
「…………。大人げないね」
引き抜かれた。じゅぽん、と、酷く間抜けな音がした。
呆けた顔を晒している。舌先がだらしなく唇の隙間から溢れている。まだ舐め合っていたいと思って仕方が無かった。いっそのこと、何をされても性感に変換されてしまうような、そんな具合の仕上がり。腰から下が全部溶けてぐずぐずになったみたいな感覚。
「貴方があんまり煽るのが悪いよ。で、どう。少しは怖くなった?」
「全然。寧ろ足りない。もっと弄って欲しい。……ねえ。ずっと生殺しなんだけど、さ。そろそろ。よくない?」
「……そうだね。いい加減酒も抜けてきた。まあ下腹部は抜けないからその点ではだいぶ辛いんだけど」
「うわ。サイテーだ」
「……興奮してるんだ?」
「そうだね。シグレを抱きたくて仕方ない」
「……濡れちゃうなあ」
「最低だね」
「⋯⋯触って。ねえ。⋯⋯先生にガチ恋してぬちょぬちょに本気汁垂らしてる発情まんこ♡ ⋯⋯ふう」
「恥ずかしいなら言わなきゃ良いのに」
「⋯⋯恥ずかしいけど。それはそれとして、言いたい。みたいな?」
「じゃ、いいよ。聞いてあげる」
「⋯⋯⋯⋯そう言われると。なんか。どんなこと言えば良いんだろうね」
「⋯⋯さっきみたいにおねだりの方向で行けば良いんじゃないの?」
「あー。なるほど。⋯⋯メスの癖にバキバキに勃起させてる皮被りのクリが♡ 弄って欲しいって頑張って背伸びしてるんだけど♡ ねーえ、よしよしってして♡」
「貴方割と好きよね、下ネタ」
「ノドカが持ち込むエロ本数歩手前みたいな少女漫画をよく読んでてね。他に娯楽も無いし」
太腿の間に手が伸びる。目と目が合ったまま、彼の指先がまさぐるように動く。
「……あそこは寂しいよ。…………あ、227号のことだよ? おまんこのことじゃなくてね?」
「返す返すもエロガキ。ノドカがエロガキなイメージはあったけど、貴方も大概なのよね」
「娯楽無いからね。オナニーは数少ない道具もお金も使わずに時間潰せる唯一と言っていい営み……っ、……だからさ。雪見てると妄想も捗るし。……脳内で何回先生に犯されたか⋯⋯分かんなくて……」
「その妄想の先生とやらより上手だったらうれしいんだけどねえ」
冷房のかかった部屋が少し肌寒くて、身じろぎをした。彼に身体を押し付けている。その体温が欲しくて。
「……今だったら……なんでも気持ちいいかも。……そう。そこそこ」
「判りやすく硬くなってるから嫌でも分かるよ」
「嫌なの?」
「嫌じゃないからもっと分かる」
濡れた陰毛が掻き分けられて、固く張り詰めた陰核が優しく撫でられ続けている。皮の上から、指紋が作る段差が敏感になった性感帯を次々に淡く虐めてくる。
思えばさっきからそうなのだけれど、無意識なのかわざとなのか、彼は自身の弱みを絶対に見せない状態のまま、延々と一方的に愛撫をねちっこくねちっこく繰り返している。私を生殺しのまま掌握するのが随分お好みらしい。趣味が悪い。
言わせたがってるのだろう。
「ねえ、……先生。もっと、ちょうだい?」
だから、素直に言ってやる。要するに、もう我慢の限界なのだった。
「指?」
「もういいから。……おちんちん、入れて。お願い」
「……白状すると、私は経験が無くてね。怪我させないか心配。これは充分に濡れてる範疇?」
「びっちゃびちゃもびっちゃびちゃだよ。……言ったでしょ。本気汁だらっだら垂れてるから、多分具合も完璧だと思うよ?」
「そう。ま、痛かったらちゃんと言ってね」
「……分かった」
「なんでご不満そうなの」
「紳士的すぎてなんかムカつくね」
「大人げないとか紳士的なのは嫌とか、ご注文が多いよ」
外では雷が鳴っていた。
雪国は雷が少ない。慣れない轟音に反射で身を竦ませながら、それでも。
「……なんでだろうね。物欲とか、そんなに無いんだけど。性欲があるのか、……ああだこうだ言ってるだけで楽しいのかな」
先生の肩を掴んだ。ゆっくりと身体を倒して体勢を入れ替える。先生が上で私が下。覆い被さってもらう。
いい加減に目が暗闇に慣れてしまっていた。うすぼんやりとその顔の造形が私には見えてしまっていた。目の色の濃淡が、睫毛の尖った陰が、まだ皺の少ないその表皮に浮かんでいる僅かな汗の雫が、どれも何だか神聖で。まともな言葉も紡げないこの脳味噌が、感覚の麻痺した全身が、彼を愛しく思って啼いている。
力の入らない太腿をゆっくりと開いてゆく。雷が鳴った。ぎしりとベッドフレームが軋んだ。
ゆっくりと尾骶骨を持ち上げた。彼の手が優しく私の臀部を撫でながら支えてくれていた。太い尻尾がシーツの上で力なく横たわっている。溶けていくみたいに。
「……もう一回教えて。先生って、私のこと、好き?」
「好きだよ。……当然でしょ。今は貴方のことしか考えたくない」
口角を歪めて。吐き捨てるみたいに彼は言うのだった。
この後に及んで、まだ何かうだうだ悩んでいるのか、或いはまだ躊躇しているのか。
そうだ。知っている。貴方は良心の人だ。とても分かり易く、在り来たりな倫理規範に縋っていないと自分の正しさすら疑わずにはいられないあまりにも脆い脆い人。
だから好き。
だから嫌い。
だから今ここで犯して欲しい──。
▲▼▲
「……愛してるよ、シグレ」
正しいことなんて、学校を卒業すれば分かると思ってた。
正しいことなんて、酒と煙草が許可されるようになれば分かるようになると思ってた。
正しいことなんて、仕事をし始めれば分かるようになっていて欲しかった。
どこから間違ったのかは分からない。或いは最初から間違えたのかもしれない。その事実は分かっているから、今こうして責任を取ろうとしている。今ここで今更正しい大人ぶって彼女を拒絶するような真似をすることは何よりも間違っているから。
何とも申し訳ないことに、とても悪いことをしている気にはならないのだった。
何かを紛らわせるために買った酒はいつも以上に早く冷めきってしまったし、名目の為だけに買ったコンドームは開けられてもいないし、生身の男性器が自分より小さい女の子が臭い液体を分泌し続けている膣の入り口に触れて、それが余りにも強い熱を孕んでいるものだから驚いてしまっているのだった。
性行為なんてものは、したくないと思って生きていた。少なくともここ数年は。誰かを抱きたいと思う欲求そのものを嫌悪していた。性欲と人間が不可分であることは承知だったけれど、その発露としてセックスなんて行為を行うなんて、そんなのあまりにも惨めでみっともないと思っていた。それは単なる負け惜しみだったのかもしれないし、或いは酷い自己嫌悪を内包した壮大な自慰行為だったのかもしれないし、単に怠惰なだけだったのかもしれない。
「あは。……すっごい変な顔してるよ、先生」
「だろうね。あんまり醜い顔を晒すのは趣味じゃないんだ。見ないでくれる?」
「うーん。やだ。……もっと近くで見たい」
彼女は上体を起こして、生暖かい舌を出して、ちるちると鼻先を舐めた。
体温と同等の粘液が頬を伝い、外気に触れて少し冷たい。そう言えば今は外では雨が降っているのだった。少し肌寒い。無意識に彼女の浮き上がった背中を支える両手が強張って、力が無駄に強く入った。胸板に彼女の柔らかさが伝わっている。女性の胸に興味は無かった。それは単に縁がなかったからだと今になって冷静に思う。こうして手中に入れてしまうと、なんというか、とても胸が高まる。
下腹部がいっそ痛い。
痛いのはこんな固いものを押し込まれた彼女の産道の方であるべきなのだろうが。それでも、何故か。己の乱暴な右手の味しか知らない陰茎にはあまりにも刺激的過ぎる肉襞の数々。ねとねとと絡み付かれて吸い付かれて窒息させようとしているのだろうか、酷く熱い。知らない熱さだ。熱湯とか、ストーブとか、そういう熱では無いのだ。熱いという感覚があるから熱いと感じているのではなくて、何も感じられないからそれでようやく熱いのだと理解するみたいな。
彼女に倣って汚い表現を敢えて使うのであれば、間宵シグレの処女肉壺は殺人級の快楽で以て射精を促している。
「余裕なさすぎじゃない?」
「……あんまり煽らないでくれる?」
「気持ち良いんだぁ。良かった良かった。……かーわい♡」
脚が攣る。こちらが上で、彼女を押し潰さないようにするために全身を脚二本で一生懸命に支えているのだけれど、挿入と同時に全身の神経がどうにもイカレてしまったらしく、人間が二足歩行を獲得した際に当然のように与えられていた、呼吸と同じくらいにできて当然の重心の操作だったり体の動かし方だったり、そういうものが全部判らなくなってしまっている。張り詰めた筋肉がびくびくと震えている。
「痛く無い?」
「え、全然。思ってたよりもおっきくてびっくりしてるとこではあるけど。今のとこは。……動いてくれない? 余裕ないのが好きなんでしょ。私が漏らして泣くまでしてよ」
「私が先に漏らして泣きそうなんだけど」
「……それでも良いよ。何なら私がリードしてあげよっか? ……ふふ。好きだよ、せんせ」
元々暗い場所の方が好きな性質だ。簡単に夜目には慣れてしまっている。
見下ろした先に、鼻が鼻と触れるほどの至近距離に、ヒスイ色の管狐がいる。溶けたハッカ飴のような目でこちらを伺っている。可愛らしくて小さな耳を伏せて、こちらの背中に爪を立てて、嬉しそうに笑っている。
多分、というか絶対、やはり、好きなのだった。惚れているのだった。
恋情というものの処理の仕方があまり上手ではない生涯を送っていたので、多分、そういうコンプレックスが悪い方向に働いたのだろう。すると、やはり私の人生の間違いは先天的なものと謂うよりも、一つ一つの間違いの蓄積が壊れて、丁度その瞬間に目の前にいたのが彼女だったという、そんなところなのだろう。
それにしても。
こんなに可愛かっただろうか。
「ね、シグレ」
「っあ…………、ふ、ぅ……。な、なに。どうしたの?」
遺伝子が最初から知っていたかのように、自然と体が動いた。
必死に自分の意志で律しようとしていたのが、間違いだった。酷く惨めなことだが、頭の中で考えてることは考えて、其れとは無関係に身体を勝手に動かせばいい。
「……ね、ちょ、せんせ、そこ一番奥で、それ以上いけないというか、ぐりぐりしないで、ねっ…………あっ、やっ、……」
「……可愛い声してるね」
「あ、……ありがと、……嬉しいけど、さ。……なんか、変なスイッチ入った? ……だ、やめて、奥突かないでって……」
「嫌?」
「い、嫌じゃないけど、……嫌じゃ、ないけど。……ふうっ……ううっ……」
身体を沈めた。ぬちぬちと絡み付く肉壁を掻き分けて彼女の最奥に到達させる。当然身体の距離が縮んで、1mmの隙間もないほどに密着した。
挿入直後の自身と同じようで、快楽で痺れる身体が上手く制御できないらしい。足先を丸めて強張らせている。背中からシーツに向けて零れ落ちそうになっている。だからやはり彼女と同じように彼女の背中に回した手により強く力を込めて、重力に叛逆する。肉付きのいい白い体を抱き寄せる。離したくなかった。
「シグレ。私ね。シグレのこと、好きなんだ」
「……今言うんだ?」
「ごめんね。なんか、でも、……ここまでしたら拒絶されるも何も無いかなって思えてきて。卑怯だし臆病だし、もしかして幻滅した?」
「ううん。今更……っ、あっ……」
ずるり、と、腰が引けた。取り囲む肉襞を逆様に抉り、その性感を掻き回す。自身の中からも少し何かが漏れ出たような気がした。ぬとぬと、ねちゃねちゃ、ぐちゃぐちゃと酷い水音が聞こえる。汗と愛液と精液と、代謝と性感の匂いが鼻腔を突いた。
「かわいい、ね。……かわいい。好き」
「わ、分かったから。一旦それ、やめ、……あ、頭おかしくなっちゃうから……」
「なってよ。私に狂ってよ。私以外考えられなくなってくれたら、嬉しい」
「誰がどの口で言ってるのそれ……あうっ……」
「ここが良いんだ」
涎の垂れた唇に軽いキスを二つ。右目の横に浮かんだ汗の雫を舌先で舐め取る。
左手を後頭部に。細い髪を優しく漉くように掻き分ける。その隙間に保存されていた熱気が掌を結露させる。
「だから、言ったでしょ。あんまり好き好き言われるとこっちも自制が効かなくなるって。……こうして欲しかったんでしょ? こうやって犯される妄想ばっかりしてたんでしょう? いいよ。お望み通りに抱き潰してあげるから」
「…………」
間宵シグレは返事をしなかった。その余裕がなかったのかもしれない。こうして語っている間にも、その余裕を繕った顔の下にある身体は、徐々に熟れた性行為のやり方を学習し始めて、いつでも精液を暴発しそうなほどの快楽を溜め込んだまま、何往復も何往復もぐずぐずになった腟内を擦り続けていて、ぱん♡ぱん♡という腰骨同士の接触音、その度に溢れ出る愛液のでろりとした感触、全部がこの場の湿度と温度を急激に上昇させている。彼女の吐息は激しくなってゆく。身体が抱き締められているせいで逃がせなくて、ただ足と背中を必死に震えさせて、背中をその鋭い爪で引っ掻くだけで、それはきっと襲いくる性感に身を焦がしているからなのだと、信じていたい。
「シグレが私のことをどれほど好きなのかはわからないし、それと同じ感情だって言える確固たる証拠があるわけじゃないし、何なら私自身もそういうことには疎いから、ちゃんとそれらしい感情でいられるかは分からないけど、それでも好きだよ、多分。凄く不愉快なことに。不愉快だと思ってるのに、なんだか凄く笑えてきて、……なんだろうね。今、久し振りに、幸せな気がして困る。シグレのせいだよ」
ねえ、聞いてる?
酷く醜い声を垂れ流しながら、彼女の顔を見た。
普段の澄ました顔とは正反対で、乱れに乱れていた。髪を振り乱して、汗で張り付いて、大きな瞳から溶け出したような涙を流しながら、犬のように息を吐いている。
体力と筋力の統制が崩れ始めている。かくかくと惨めな腰振りに変わってゆく。間宵シグレも同じだった。小声でや♡いや♡と言っていながら、その腰は浮いていて、より奥に奥に、擦り付けるように、ぐりぐりと蠢いている。跨っているのがエテだとするならば、受け入れているのは狗であり、薄暗い雷雨の中、誰も届かない大きなビルの小さな一室で繰り広げられている一対の雄と雌の交尾は、そんな風に惨めで陰鬱で、なのに妙に清々しい顔をしていて、何とも痛々しい。
「シグレ」
名前を呼んだ。彼女の目元の涙を拭って、張り付いた髪の毛を撫で付けて、その額にキスをして。
真っ直ぐその目と視線が合った。
久し振りな気がした。
名前を呼ばれた。でも無理だよ先生。何回そこはだめ(だいすき♡)、ここはいや(もっとして♡)、って繰り返しても、先生は全然聞いてくれない。自分で触るときは幾つか自分が善がれる場所を指先でなぞって絶頂するのが常だったのだけれど、まさか全部を一気に押し潰されて掻き分けられてを繰り返すとは流石に思わなかった。頭がおかしくなる。
先生は何度も私にキスをするし、なんだかもうびっくりするくらい恥ずかしくなることも言ってるし、そういう意味でも限界だった。脳味噌がとろとろに溶かされているような気分だ。こんなの知りたくなかった。あんまりに全部が都合が良すぎて、幸福と快楽が縺れ合ってる状況なんかそうそう無いもので、なんだか本当に何か間違ったことをしてるんじゃないかと思える。理不尽にレイプを訴えたい。私の身体は陥落しているのだから、これ以上虐めるのはもう何らかの犯罪だと思う。もっとして欲しい。まだやめないで。もっと。
ゆっくりと身を起こした。何もかも言うことを聞いてくれない身体が、今だけはすんなりと動いてびっくりする。
「……離さないでね」
せんせ。
耳元で、それだけ、はっきりと言った。
そして、重たい頭蓋骨が引きずられて降りた先には彼の細い首筋があって。
私は、それに噛み付いた。
そうしたかったから。
優に数十秒は離さなかった。
下半身から登ってくる快楽で気が狂いそうで、怖くて、必死に歯を立てるしかなかった。
代償に、呼吸がままならなかったようで、酸素欠乏が酷かった。顔全体が寒くて、ぐらぐらとしたまま、数秒だけ意識が飛んだ。
意識が飛ぶ前に、全部がぐっちゃぐちゃになった鼻濁音が口と鼻から漏れたような気がしたけど、それは多分幻覚だ。
「はう♡、ん、んんんっ♡、んんっ、〜〜〜〜〜♡♡♡」
みたいな音がしたのは、多分気の所為だ。
「……出てるね。いっぱい。……妊娠しちゃうかな」
「してもしなくても責任は取るよ」
ぐちょぐちょになったシーツの上で、抱き合ったまま。ぼそぼそとそんな言葉を交わし合う。
先生が掛け布団みたいに覆い被さったままでいてくれてるお陰で、寒くなかった。
「……ごめんね、先生。首、痛い?」
「ううん。嬉しい。……シグレは? ……嫌って言ったの、全部無視しちゃったけど。……嫌じゃなかった?」
「……あれは、ほら。もっとして、の意味だし。……ふふ」
「……ね、先生。まだ、好き?」
「好きだよ」
のろのろと立ち上がりながら、少しだけ気まずい空気を噛み潰しながら、振り返る。視線が合う。
「……雨、打たれに行こっか」
「適当にシャワーだけ浴びてからね」
▲▼▲
ぼたぼたと雫を垂らしながら空を見上げている。
相変わらず少しだけ雷が怖い。先生の手をそっと掴もうとして伸ばした手を、先生が絡め捕って、恋人繋ぎにした。
「……なんか。意外だったかも。……先生はもっと、……素直な子が好きな気がしててさ」
「そう? シグレは素直ではあるでしょ。嘘は言わないし」
「……そっか。…………」
頭が冷えてゆく。脳味噌が冴えれば冴えるほど、今の状況がよく分からなくなって、整理できなくなって、なんだかもう息が詰まる。
「……最後に言ったの、聞こえてた?」
「だから今掴んでるでしょ」
「そっか。……そうだよね」
雷が鳴った。
もうあまり怖くは無かった。
「良いのかな」
「……私も、それは分かんない。……大人になればなるほど、良いことと善いことの境目が解らなくなって嫌になる」
ぼろりと漏れた言葉に、返事が返ってきた。
「……先生は私より賢いのにね」
「そうでもないよ。……でも、……私は、私が好きになった人がシグレで善かったと思ってる」
愛してる。
雷雨の音。僅かな車の音。風の音。
それらに掻き消されないつぶやきが聞こえて、私は俯いた。
きっと、先生とは少し違う形で恋をしている。
先生が思う愛ほど真面目に向き合ったものではないかもしれない。
それでも、きっと、私は恋をしている。
まるで普通の女の子みたいに。
読了ありがとうございます。感想、評価など下さると幸いです。
慣れないことをやっていたので中々大変でした。シグレは楽しいですが難しくもありますね。