◆
──月が綺麗だな。
三枝 喜一はそんな事を思いながら自宅への帰路を歩んでいた。もう大分夜も更けている。ここ最近はまたぞろ残業が続く様になり、帰りも遅い。
──
自宅の鍵を開けると、暗闇の中に静まり返った空気が淀んでいた。
リビングの灯りは消えたまま。瑠偉の部屋からはドアの隙間微かに薄明かりが漏れている、どうやらまだ起きているらしい。喜一は上着を脱ぎ椅子の背にかけると、静かにリビングへ向かった。冷蔵庫を開け、冷えた麦茶をコップに注ぐ。喉を鳴らして飲み干すと、胃の腑にじんわりと冷たさが広がった。
テーブルの上に封筒がひとつ置かれていた。
それが何かはようく分かる。喜一は麦茶の冷たさが指先にまで伝わるのを感じながら、重たい身体をテーブルの前に下ろした。
封筒の端に指をかけ、ゆっくりと中身を引き出す。
折り畳まれた用紙。表紙に記された文字は「DNA親子鑑定結果報告書」。
──来たか。
喜一は一瞬だけ目を閉じた。まぶたの裏にこの数週間の記憶が走馬灯のように駆け抜けていく。瑠偉の枕元に忍び寄り、寝息を立てる息子の髪を数本抜いた夜。その指先の震え。ごめんな、ルイ。小さく呟いた声は深夜の静寂に溶けて消えた。
「まあ、そうだろうな」
それが妻に逃げられた哀れな男の忌憚のない感想であった。率直に言って、喜一はそこまでショックを受けなかった。半ば予想していたからである。
なにせ、
喜一の骨格はまるでトラクターのフレームのように頑丈そうだが優美さが完全に欠落している。対する瑠偉はといえば、剥き出しの神経がそのまま細い肢体を形作ったかのような繊細さを感じさせる、ある種芸術的な姿形をしていた。
黒く艶やかな髪、長い睫毛、そして微かに琥珀色を帯びた瞳──それらはすべて、喜一の持たない遺伝子によるものだと脳を半分吹き飛ばされた野良犬でさえも理解できる事だ。
検査結果を記した紙片はまるで死んだ蝶のようにテーブルの上で乾ききっていた。喜一は茶を一口啜る。苦味が舌の根にこびりつき、胃の腑に鉛のような重みを落とした。
──わかっていたことだ。
妻の美也子は始終夜遊びに明け暮れている。朝帰りだって珍しくはない。今日だってそうだ。もう随分遅い時間なのに美也子は在宅してはいなかった。しかし連日の様に香水の匂いを微かに残して帰ってくる美也子から、喜一はあえて目を逸らし続けていた。美也子との結婚生活を壊したくなかったのだ。理由は言うまでもない、惚れていたからである。惚れて、惚れて、惚れ抜いていた。だから美也子を許した。
畢竟、人が最も愚かになるのは恋に落ちている時なのだ。
◆
冷めきった茶を流しに捨て、喜一は深く息を吐いた。リビングの照明は点けず、ただ窓の外から差し込む街灯の光を眺める。
「深海っていうのはこんな感じなんだろうか」
そんな益体もないことを呟く喜一。
玄関の鍵が回る音がしたのはそれから三十分ほど経った頃だ。
美也子は帰宅するなり、リビングの空気を一瞬で塗り替えた。香水の匂いが深海の静寂に亀裂を走らせる。彼女が灯りを点けると、部屋は一気に人工的な明るさに満ちた。その光の下で見る妻はやはり美しかった。黒髪は絹のように滑らかで肌は白く唇は熟れた果実のように艶やかだ。喜一の手には決して収まりきらない華やかさがあった。
「あら、まだ起きてたの」
悪びれもなく言い放つ声はまるで他人事のようで。
「話がある」
喜一がテーブルの上の紙片を指で押すと、美也子はそれを見てふぅん、と小さく息を漏らした。驚くでもなく慌てるでもなく、ただ「ああ、ついにバレたか」という程度の表情。
「DNA鑑定、受けたんだ。ルイの髪を数本抜いてな」
「そう。それで結果はどうだったの?」
美也子はテーブルの前に腰を下ろしむしろ興味深そうに紙片を覗き込んだ。そのあまりにもあっけらかんとした態度に喜一の喉の奥がひりつく。
「お前、自分が何をしたかわかってるのか」
「わかってるわ。あなたの子じゃないってことでしょ?」
彼女は紙片から目を上げ、喜一を見た。その瞳には罪悪感の欠片もなくむしろ「今さら何を言ってるの」という冷ややかな光が宿っている。
「別に隠すつもりもなかったのよ。ただ、あなたが気づかないふりをしてるから私も言わなかっただけ。でもやっぱり気になってたわけね」
「……ふざけるな」
喜一の声は低く震えていた。こんな声を出すのは結婚してからもする前もついぞ経験がない。指先が冷たい。心臓が身体の中で重く脈打ち、血が逆流するような不快感が首筋を駆け上がる。
「ふざけてなんかないわ。私、別に悪いと思ってないもの」
美也子はそう言って、軽く髪をかき上げた。その仕草すら美しく、喜一はハッと見入ってしまった。まるで硝子の破片を無理やり眼球に押し込まれるような鋭い痛みが走るが喜一はそれが自身の目が痛んでいるのか、心が痛んでいるのか判然としない。
「相手は誰だ」
「言ってどうするの?」
「聞いてるんだ」
「まあ、いいけど」
美也子は微笑みながら言う。
「会社の取引先の男性よ。すごく綺麗な顔をしてるの。背が高くて、お金もあって話も面白くて」
「……そうか」
「あなたとは全然違うタイプね」
その一言が胸の奥の深い場所に楔のように突き刺さる。
──わかってる。そんなことは最初から。
自分の顔を鏡で見るたびに思っていたではないか。なんでこの女が俺と一緒にいるんだろうと。男前でもなければ金があるわけでもない。無骨で無口で面白い話の一つもできない。そんな自分がどうしてこの華やかな女の隣に立てるのか。
「なあ、美也子」
喜一は自分の声がひどく遠くから聞こえるような感覚を覚えた。喉がからからに乾いている。
「お前は俺のことを愛してたのか。少しでも」
「愛してたわよ」
即答だった。あまりにも迷いのない即答。
「結婚した頃は本気であなたでいいと思ってた。真面目だし優しいし、私を大事にしてくれるから。でもねそれだけじゃ足りなかったの」
彼女はまるで映画の感想でも語るように続ける。
「あなたと一緒にいると、世界が終わるまで同じリビングで同じ夕飯を食べて同じ天井を見て、同じ空気を吸ってそれで死んでいくんだろうなって思えるの。悪くないわ。でも退屈になっちゃった」
──退屈。
その言葉は喜一の存在すべてを否定する重みを持ってのしかかった。彼がこの十年必死に守ってきたもの。それは美也子にとっては「退屈」という名前の牢獄だったのか。
「だからその隙間を他の男で埋めた。あなたを不幸にするつもりはなかったのよ。ただ私が私でいるために必要だっただけ」
「開き直るな!」
「開き直ってなんかないわ。だって事実だもの」
喜一は深く俯いた。テーブルの端を握り締める。骨が軋む音が聞こえる。声を張り上げて問い詰めたい。泣き叫んで壊れた食器ごとこの夜を割ってしまいたい。けれど、そんなことをしてもこの女は涼しい顔でそれを見ているだけだろう。彼女はもう、喜一の感情の揺れに一ミリも関心を持っていないのだ。
「……お前を俺は」
喉の奥から絞り出した声は言葉の形を成す前に崩れた。愛しているなどと、今それを口にしたところで嘲笑が返ってくるだけだ。いやそれすらもなく、ただ無関心の壁に飲まれるだけかもしれない。
──なぜこの女を好きになったのか。
自分でもわからなくなる時がある。けれど、思い出すのだ。出会った夜のことを。街の居酒屋で友人に連れられて来た彼女は男たちの視線を一身に浴びながらもそれを当然のものとして捉えていた。その傲慢さ、その奔放さ、誰にも縛られない輝き。地味で地道で石橋を叩いて渡る男の自分には永遠に手に入らないもの。それがこの女にはあった。
男というものは自分にないものを追いかける生き物だ。喜一にとって、美也子は月だった。掴めないと知りながら水面に映るその光をどうしても手に入れたかった。
だが月を手に入れることなど最初からできなかったのだ。
「愛してたのよ。本当に」
美也子の声が遠い。
「でも今は違うのよ。それだけの話なの」
そんな死刑宣告を受け、喜一は目を閉じた。
「ルイは──」
「あなたが育てたんでしょ? なら、好きにすればいいわ。私あの子に執着ないもの」
「……お前」
「母親に向いてないの。知ってたでしょう」
そう言って、美也子は立ち上がった。クローゼットの方へ歩き出す背中を喜一はただ見つめる。追いかけたい。腕を掴んでもう一度、最初からやり直せないかと懇願したい。けれど彼女の背中はあまりにも遠く、喜一の足は石のように重くて動かない。
「出ていくわ。荷物、明日の朝までにまとめるから。その後は好きにしていいわよ。慰謝料も払ってあげる──彼がね」
「待てよ」
「待たないわ」
振り返りもしない。ただ、冷たい声だけが部屋に残った。
「私、あなたと違って待ってられないの。時間がもったいないから」
喜一はテーブルに突っ伏するようにして深く息を吐いた。
なぜこんな女を──果たして何度目の自問だろうか。愚かだからだ、と喜一は思う。馬鹿だからだ、と喜一は考える。
愚かで馬鹿でなければ、こんな仕打ちを受けてなお美也子を愛する事などできやしないだろう。
だがその愛と同じくらいに──憎い、憎い、憎い、憎いのだ! けれど、その憎たらしさごと愛しているのだから始末に負えないだろう。
喜一は苦笑いを浮かべて、胸の奥から大きくため息を吐き出した。
──わかってたんだ。全部、わかってた。
◇
朝、キッチンから漂うコーヒーの香りはいつもより幾分薄かった。
瑠偉は自室のドアをほんの少し開け、リビングの様子を伺う。ソファに深く沈み込む喜一の背中が見える。その両肩はまるで見えない重力に押し潰されているかのように頼りなく垂れ下がっていた。
──出ていったんだな、母さんが。
昨夜の耳障りなハイヒールの音が遠ざかったことは瑠偉にとって何の悲しみももたらさなかった。むしろ、澱んでいた部屋の空気が悪しき霧が晴れるように浄化されたような清冽な気配すら感じる。あの安っぽい香水の甘ったるい匂いが消え、ただ静寂と、喜一の纏う洗剤と古紙のような無骨な匂いだけが残った。
これでいい。あの女は最初からここにいるべき人間じゃなかった。華やかな彩色の絵の具を繊細な水墨画に無理やり塗りたくったような違和感が今ようやく消えたのだ。
三枝 瑠偉にとって「親」とは他ならぬ喜一ただ一人だった。
血の繋がりなど、瑠偉にとっては空遊ぶ塵のようなものだ。喜一がくれた温かい掌の記憶、風邪を引いた夜に額に触れた厚い手のひらの感触、不器用ながらも全力で寄り添ってくれたあの体温だけが瑠偉の中で「父」という名の絶対的な愛情を形作っていた。
あの女はただの他人だった。瑠偉の身体に宿る美也子の遺伝子──それが時折、鏡の中で己の顔に重なるあの女の面影だけがただひたすらに疎ましかった。
これからは二人きりだ。
喜一と、瑠偉と。この静かな家で穏やかな時間を紡いでいける。そう思うだけで瑠偉の胸の奥は透き通るような希望で満たされるはずだった。
しかし現実の喜一はあまりにも壊れかけていた。
「おはよう、お父さん」
瑠偉が声をかけると、喜一は緩慢な動作で振り返った。その目は酷く濁り、ひどい隈ができている。まるで深海から辛うじて浮上してきた人魚のように生気が抜け落ちていた。
「ああ……おはよう、ルイ」
その声は擦れていて、ひどく弱々しい。
トーストを焼き、目玉焼きを作る。日常の些細な作業をこなしながら、瑠偉は喜一の沈黙に胸を刺されるような痛みを覚えた。喜一が箸を動かすリズムは遅く、味がしないのか、ただ機械的に咀嚼しているようにしか見えない。
──どうすれば、あの目に光を戻せるのだろう。
言葉をかけるべきか。それともただ傍にいるべきか。瑠偉にはわからなかった。喜一の悲しみの深さに比べて、自分の存在はあまりにも軽いのではないかという不安が喉の奥を締め付ける。あの女が去った傷跡は瑠偉の愛情では到底埋めきれないほど深い溝となって、喜一の心に刻まれているようだった。
◇
数日が過ぎても喜一の魂はまだ帰ってこなかった。
夕食後、喜一はいつものようにソファに座り、手にした本のページをめくる気力もないのか、ただ虚空を見つめている。その横顔に瑠偉はどうしようもない焦燥を覚えた。
洗面所に向かい、瑠偉は眉を整えるために鏡の前に立った。
明るい化粧灯の下、自分の顔が映し出される。黒く艶やかな髪、長い睫毛、微かに琥珀色を帯びた瞳──。それは喜一が持たない遺伝子の産物であり、瑠偉が最も憎悪するあの女の分身だった。
ふと、手が止まる。
鏡の中の自分があの女と重なる。
唇の曲線、目元の涼やかな影、皮膚の質感。まるであの女の細胞が自分の内側で増殖し、表面へと這い出してきているかのようだ。吐き気がした。自分の身体の中にあの女が寄生しているような嫌悪感。
だがその嫌悪の底から、さらに冷たい気が這い上がってくる。
──もしや。
瑠偉は鏡を見つめたまま、息を呑んだ。
喜一が自分を見る視線を思い出す。
食卓でのこと。テレビのリモコンを渡した時。学校の話をした時。喜一の瞳はいつも瑠偉を捉えていた。だがその瞳の奥に宿る光は単なる父親の慈愛だけではなかった。
そう、どこか──熱を孕んでいなかったか。
あの女が出ていってからの喜一の視線は時折、痛みを堪えるような、あるいは飢えたような、粘着質な温度を帯びていた。まるで目の前にあるのが瑠偉であることを確認しつつもその奥に透けて見えるあの女の幻影をどうしようもなく求めているかのような──。
「……ッ」
瑠偉は鏡に手をついた。指先が冷たく、ガラスの表面で震えている。
喜一が見ているのは自分ではない。自分の中に刻まれた、あの女の残滓だ。あの女が去った今、喜一はその代償をあの女と同じ顔をした瑠偉に求めているのではないか。
背筋を這う戦慄。
それは恐怖か? あるいは嫌悪感? それとも──。
瑠偉は目を閉じた。まぶたの裏に喜一のあの熱を帯びた視線が焼き付いて離れない。
喜一の心を癒したい。あの悲しみの淵から救い上げたい。だがもしそれがあの女の影を通してでしか叶わないのだとしたら。
己のこの忌むべき容姿があの女への未練という鎖となって、喜一を縛り続けているのだとしたら。
「……お父さん」
瑠偉の唇から、か細い声が漏れた。それは洗面所の静寂にため息のように吸い込まれていった。
◆◇
月日が流れた。といっても、劇的な変化があったわけではない。美也子が去った後の三枝家は、まるで水底のような静謐さを取り戻していた。
瑠偉がバイトを増やしていることに、喜一は気づいていた。以前より帰宅が遅くなり、休日も朝早くから家を出る事が多くなった。高校生になり、自立への足掛かりを探しているのか、あるいはこの澱んだ空気の中に一人でいることを避けているのか。
喜一はあえて深くは聞かなかった。ただ、玄関を開ける時に漂う洗い立ての衣類の匂いと、少しだけ肉づきが良くなったような息子の背中を、どこか遠い目で見送っていた。
喜一自身は、淡々と日々を過ごしていた。仕事に行き、帰宅し、一人の食事を作り、空っぽになったリビングで酒を煽る。瑠偉が帰ってくれば、短い会話を交わす。
「おかえり」「ただいま」「ご飯は?」「食べてきた」──
だが、最近はどうも落ち着かない。
食卓を挟んで向かい合う時、ふと瑠偉が視線を上げると、喜一は喉の奥が引き攣るような錯覚に陥る。テレビのリモコンを渡す指先、横目で見せる微かな笑み、無造作に前髪をかき上げる仕草──そのすべてが、あの女の残像と重なって脳裏を焼くのだ。
理性が警告を鳴らす。しかし何に対して鳴らしているのか喜一にはわからない。あるいは、分かりたくないのかもしれない。
喜一は自身が何やら危うい綱渡りをしている様な想いを覚え、漠然と「このままではいけない」と考えるようになった──そんな、ある夜のことだ。
深夜。喜一は寝室のベッドに横たわり、天井の染みを数えるようにして眠れぬ夜を過ごしていた。美也子が去ってから、この広すぎる寝室はいつもより冷たく感じる。
ふと、ドアをノックする音が響いた。控えめで、しかし確かな二つの音。
「……ルイか?」
声が掠れた。返事はない。沈黙が重くのしかかる。
「入れ」
短く告げると、ドアノブが回る微かな金属音がして、扉が静かに押し開かれた。
寝室の薄闇に、人影が溶け出すように立ち現れた。
喜一は、息をするのを忘れた。
そこにいたのは、紛れもなく瑠偉だった。だが、日常の彼ではなかった。
肩まで艶やかに落ちる黒髪は、明らかに瑠偉の本来の髪ではない。精巧に作られたウィッグが、照明のない部屋の僅かな光を吸い込み、夜の影のように揺れている。そして、その肢体を包むのは──見覚えのある、女性ものの下着だった。シルクのキャミソールとショーツ。それはかつて美也子が身につけていたものと同じ質感、同じデザイン。あるいは、実際に彼女が遺していったものなのかもしれない。
白く透けるような肌に、黒いレースが食い込む。細い鎖骨、そこから滑り落ちる布地の曲線、足の付け根の翳り。瑠偉の細い骨格は、女性のそれよりもさらに華奢で、痛々しいほどの倒錯的な美しさを放っていた。
「……お父さん」
か細い声が、夜気を震わせた。
それは瑠偉の声だ。だが、その響きはどこか甘く、そして深く哀しい。喜一の瞳孔が収縮する。胃の腑に鉛を落とされたような衝撃と、背骨を這い上がる熱が同時に襲いかかる。
目の前にいるのは誰だ。瑠偉か。それとも──美也子か。
理性が音を立てて崩れ始める。境界線が曖昧に溶け、目の前の「彼」が、かつてこの部屋を支配していたあの女と重なり、そして二度と戻らないはずの幻影として実体を持って迫ってくる。
喜一はシーツを握り締めた。指関節が白くなる。声が出ない。拒絶すべきだ。息子を部屋から追い出し、正気に戻れと怒鳴りつけるべきだ。だが、喉の奥が乾いてひりつき、言葉は音にならない。
部屋の空気が、急速に粘度を増していく。
◇◆◇◆
「
目の前にいるのは本当に瑠偉か。瑠偉は自分の事を俺と言うはずだ。
瑠偉の瞳が、暗闇の中で爛々と光を放っていた。
まるで夜行性の猛禽類が獲物を捉えた時のような、吸い込まれるような輝き。それが喜一の知る息子の目ではないことは一目でわかった。そこにあるのは純粋な、濁りない──狂気と呼ぶにはあまりに透明な、執着だった。
「お父さん、起きないで」
その声は美也子だった。
いや、瑠偉が美也子の声色を模しているわけではない。だが抑揚、間の取り方、語尾の甘やかな響び。それらが喜一の記憶の底に沈んでいた美也子の残響を無理やり引っ張り上げる。瑠偉はベッドの縁に膝をつくと、上体を起こそうとした喜一の肩に掌を置いた。そうしてゆっくりと、しかし抗いがたい力でシーツへと押し返す。
喜一の背中がマットレスに沈んだ。
──何を。
言葉にならなかった。瑠偉の唇が降りてきたからだ。
それは触れるだけの、ひどく浅い口づけだった。唇と唇が重なる。瑠偉の唇は薄く、冷たく、そして微かに震えていた。美也子の唇はもっと厚く濡れていて熱かった。わかっている。これは美也子ではない。息子だ。自分の息子だ。けれど鼻腔を掠めるシルクの匂いと、首筋にかかる黒髪の感触が、喜一の理性を皮膚の下から丁寧に剥がしていく。
「──ッ」
喉の奥から呻き声が漏れた。
腕をあげろ。突き飛ばして立ち上がれ。そうしろ。頭の片隅で冷静な声が警鐘を鳴らしている。だが喜一の身体はシーツに溶けてしまったかのように動かない。いや、動かなかった。動きたくなかったのだと、喜一は後になって思うことになる。
瑠偉が唇を離す。濡れた音が夜の静寂に小さく響いた。喜一は天井を見つめたまま、息を荒げている。心臓が早鐘を打つ音が耳の奥でうるさいほどに反響する。
恐怖があった。自分の息子が、女の下着を纏って、父親のベッドに乗り上げている。普通の神経であればここで止めなければならない。いや、そもそもここに至る前に止めるべきだった。なぜ自分は拒まなかった。なぜドアを開けた。なぜ瑠偉の、あの異様な姿を見て声を張り上げなかった。
──期待していたからか。
その考えが脳裏を掠めた瞬間、喜一の胃の腑が裏返りそうになった。
期待。違う。そんなはずはない。だが身体は正直だ。シーツの下で喜一の下半身に、滾るような熱が集まっていくのを感じていた。否定できないほどの、容赦のない熱。それは喜一がこの十年間、美也子との間で一度も満たされたことのなかった渇望が、今、もっとも禁忌のある場所で目を覚ましようとしている合図だった。
瑠偉の手がシーツの上を滑る。
喜一の腹を越え、臍の窪みをなぞり、下腹部へと降りていく。指先の動きは迷いがない。喜一は目を閉じた。まぶたの裏に、美也子の顔が浮かぶ。いや、美也子ではない。瑠偉だ。いや、美也子か。もう区別がつかない。二つの顔が溶け合い、重なり合い、喜一の中でひとかたまりの欲情となって臍の下で脈打ち始める。
「お父さん」
また瑠偉が囁く。
「楽にして」
その言葉の意味を喜一が理解するより早く、シーツが捲られ、夜気が肌に触れた。かと思うと、喜一の下腹部が、ぬるりとした熱で包まれた。
──あ。
温かかった。湿り気を帯びた、生々しい熱。喜一の背中が弓なりに反る。指がシーツを掴み、織り目が食い込む。声を殺した。殺さなければならなかった。声を出せばもう、後戻りができなくなる気がした。いや、とっくに後戻りなどできないところまで来ているのかもしれない。
喜一は天井を見た。暗闇に溶け込む天井の隅。そこに見えるはずのない月が浮かんでいるような気がした。
──月が、綺麗だな。
狂ったことを考えた。
◆◇◆◇
「あ゙ッ……はぁ……♡」
耳朶を打つ囁きにも似た喘ぎ声が不可視のハンマーとなって、喜一の正気を叩き割っていく。
割れる、割れる、壊れる、崩れる──正気が。
常識が。
喜一は腰を振っていた。
犯していた。
むちりとした尻の肉を掴み、自身の腰を叩きつけていた。
そして──犯して、犯して、犯して。
喜一は瑠偉の腿の内側に掌を滑らせながら、掌に伝わる感触があの女とは何もかも違う事に気づいた。
瑠偉のそれはもっと薄く、もっと脆く、もっと──熱い。肋の一本一本が指の下で鳴るような細さ。掴めば折れてしまうのではないかという錯覚が、かえって喜一の中の何かを凶暴に解き放っていた。
「ッ……あ、ぁッ」
瑠偉の背が弓なりに反る。
白い背中に浮かぶ肩甲骨の輪郭が暗闇の中で微かに光る。喜一はそこに唇を押し当てた。舌で骨の隆起をなぞる。塩味がした。瑠偉の汗だ。美也子の汗はもっと甘ったるかった。香水と混じって果実のように匂った。けれど瑠偉の肌からは何の飾りもないただ純粋な塩分と若い身体が燃焼する生の匂いしかしなかった。
それが喜一をより深く、致命的に狂わせた。
喜一は瑠偉の腰を抱え直し、深く押し開く。内側の肉が喜一を食い締める。そんな抵抗する壁を無理やり押し広げる感触が背骨を痺れさせ、喜一は腰をさらに奥へと沈めた。
「お父、さ……ッ、ん──」
名前を呼ばれるたびに喜一の腹の底が焼ける。瑠偉の声は掠れていて、そして甘い。喜一は瑠偉の耳元に唇を寄せた。何も言わない。ただ呼吸を吹き込むように息を吐く。瑠偉の身体がびくりと跳ねた。
──分かっているよな。お前は息子を犯しているんだ。
頭の片隅で声がする。知ってる。わかってる。わかっているからこそ喜一は止められなかった。それに、まるで水底から響く他人の声のように希薄だ。そんなか弱い声では今の喜一を止める事などできやしない。
「ひッ、ぁ……ッ、そこ、ぁ──」
瑠偉の指が喜一の肩に食い込む。爪が皮膚を裂く。微かな痛みが走り、それが心地よいと喜一は思った。
瑠偉の片腿を持ち上げる。シルクのキャミソールが背中で捻れ汗で肌に張り付いている。腿の付け根が露わになる。白く薄い皮膚の下に血管が透けて見えるような錯覚。喜一はそこに唇を押し当てた。歯を立てる。瑠偉が短く悲鳴を漏らした。
「ッ、ぁ、痛っ……あ、ぁッ、お父さ、ん、っ──ッ」
瑠偉の腰が跳ねる。喜一の動きに合わせて腰が揺れる。
──あの女はこんな風には泣かなかった。
美也子はベッドの上でいつも余裕があった。喘ぎ声にも計算が混じり、身体の動かし方にも余裕があった。喜一が必死に腰を動かしている間も、美也子は天井を見つめていることもあった。
だが瑠偉は違う。喜一の動きに必死に合わせようとしている。喜一の掌に自分の手を重ねて指を絡める。その指が喜一の指の間で蠢き、握り返される。痛いほどに強く。
喜一は瑠偉の顎を持ち上げた。暗闇の中で琥珀色の瞳が揺れている。涙で濡れていた。喜一はその瞳を見つめたまま、深く、さらに深く腰を沈める。
「──ッ、あッ、ぁぁッ──!」
瑠偉の身体が硬直し、喜一の手の中で熱が弾けた。腹に白い飛沫が散る。同時に内側が喜一を絞り上げる。喜一は歯を食いしばり瑠偉の腰を掴んで、最奥へと吐き出した。
◆◇◆◇
喜一は瑠偉の上に覆いかぶさったまま、その首筋に顔を埋めていた。汗の匂い。シルクの冷たさ。そして瑠偉の髪──ウィッグの人工的な髪が頬に触れて微かに痒い。
瑠偉は静かに息をしている。目を閉じたまま何も言わない。喜一の重みを受け止めたままただ呼吸を繰り返している。
──あの女と重ねていたのか。
喜一は自問した。瑠偉の顔を見ていた時どこかで美也子を探していたのか。その答えはイエスであり同時にノーだった。
美也子の面影を追っていた。確かにそうだ。最初は。ウィッグの黒髪に、レースの下着に、白い肌の質感に、喜一の萎えた心は必死にあの女の残像を貼り付けようとした。
だが、肌が触れ合った瞬間にそれは崩れた。
瑠偉は美也子ではなかった。美也子のどこにもなかった震えが瑠偉にはあった。喜一の下で小刻みに揺れる肩。喜一の動きに合わせて必死に呼吸を整えようとする喉の鳴る音。美也子は決して喜一に合わせようとしなかった。彼女はただ受け入れ、時に退屈し、時に目を閉じてどこか遠くを見ていた。
だが瑠偉は、喜一を見ていた。
ずっと、喜一を見ていた。
暗闇の中で琥珀色の瞳が喜一を捉え、離さなかった。その視線の強さに、喜一は気づかないふりをしていた。今さら気づきたくないと、目を逸らしていた。
「お父さん。私は──俺は、あの女の代わりじゃないよ」
喜一は目を閉じた。まぶたの裏で何かが熱くなる。泣きそうだ、と喜一は思った。だが泣かなかった。泣く資格がない。この息子を傷つけた男に、涙を流す権利などない。
「お父さん、大丈夫だよ。大丈夫だから──」
瑠偉の手が喜一の頭を引き寄せる。指が髪に食い込む。喜一は抵抗せず瑠偉の胸に耳を押し当てた。心臓の音が聞こえる。速く不整脈のように乱れてそれでも確かに打っている。
──俺は最低の父親だ。
絶対的な確信をもってそう思う。
しかし、口には出さない。
出せば、瑠偉を傷つける事が分かっていた。そのくらいは分かる程度には
それから極々自然に、どちらかが言い出したわけでもなく──二人は再び抱き合った。
そして──。
◆◇◆◇
深夜二時を回っていた。
喜一はベッドの縁に腰掛け、煙草を吸っていた。瑠偉はシーツに横たわったまま、動かない。背中を向けている。肩のラインが暗闇に溶け込み、生きた人間であるかどうかも怪しく見える。腰から臀部にかけて白いシルクが皺になって張り付き、その間に赤い痕がいくつも散っている。喜一が歯を立てた跡だ。
──何度、だ。
喜一は数えるのをやめた。三度だったか四度だったか。いや、四度目の途中で喜一の理性が完全に飛んだことは覚えている。瑠偉を俯せにして腰を持ち上げ、後ろから──。瑠偉がシーツを握りしめて声を殺していた。殺していたが、漏れた。その声が喜一をさらに凶暴にした。
美也子との十年間で一度も感じたことのない飢餓感が、今夜に限って底なしに湧き出ていた。喜一の身体はバカみたいに正直だった。四十を過ぎた男が高校生の息子を相手に何度も何度も、まるで十代に戻ったかのように。その事実に喜一は静かな嫌悪を覚える。
瑠偉が寝返りを打った。シーツが擦れる音が夜の静寂に小さく響く。喜一の背中を見る瑠偉の瞳が、暗闇の中で微かに光を帯びている。
「後悔してる?」
掠れた声が背中に刺さる。
「……さあな」
喜一は煙草の灰を膝に落とした。
「わからないんだ。何も」
それは嘘ではなかった。後悔と呼ぶには感情が複雑すぎた。罪悪感はある。あるが、それと同じかそれ以上に、瑠偉の体温を手放したくないという粘着質な執着が喜一の中に巣食っていた。
瑠偉が起き上がる気配がした。シーツが捲れ、裸足が床に触れる。喜一は振り返らなかった。振り返れば、また見てしまう。あの細い肢体を、白い肌を、暗闇の中で微かに光る琥珀色の瞳を。
瑠偉が喜一の背中に寄り添った。額を肩甲骨の間に押し当てる。体温が布一枚隔てて伝わる。ウィッグは外れていて、本来の短い髪が喜一のシャツをくすぐった。
「お父さん」
「ん」
「私、あの女の代わりになんてなりたくない」
その声には微かな震えがあった。喜一はそれを聞いた。聞いて胸の奥で何かが軋む音を感じた。
「でも、お父さんがそれでいいなら、私は何でもなる」
喜一は煙草を消した。吸殻を灰皿に押し付ける。最後の煙が細く立ち昇り、闇に溶けた。
──何でもなる、と。
それは、美也子が決して言わなかった言葉だった。美也子は「私を私のまま愛せ」と常々言っていた。変わることを拒み、相手に合わせることを拒み、ただ在るがままに愛されることを当然としていた。
だが瑠偉は言った。何でもなる、と。
その違いが喜一の胸を深くえぐった。
◆◇◆◇
──それから、日々は少しだけ形を変えた。
表向き、三枝家の朝は変わらない。
だが夜が来ると──。
喜一は瑠偉の部屋のドアをノックするようになった。最初は一度きり。控えめに、問いかけるように。ドアが開く。暗闇の中に瑠偉が立っている。時にはウィッグをかぶり、時にはかぶらず。時には下着を纏い、時にはただ薄いパジャマ一枚。
喜一は何も言わなかった。瑠偉も何も言わなかった。言葉はいらなかった。二人の間に交わされるのは体温と呼吸と肌が触れ合う微かな音だけだ。
最初のうちは、喜一は瑠偉の中に美也子を探していた。
ウィッグの黒髪に指を通す時、レースの下着の線に目を這わせる時、喜一の脳は自動的にあの女の残像を再生した。瑠偉の首筋に唇を寄せながらその奥に美也子の匂いを探した。瑠偉の腰を抱きながらその曲線にあの女の線を重ねようとした。
だが、段々と変わって行った──喜一も、美也子も。
一枚ずつ、丁寧に。まるで湿った壁紙が剥がれるように。美也子の残像は瑠偉の体温の下で溶け、喜一の指の間から零れ落ちていった。
代わりに浮かび上がったのは、瑠偉そのものの輪郭だった。
瑠偉の鎖骨は美也子より浅く、指でなぞると骨の形がくっきりと浮かぶ。瑠偉の腰は美也子より華奢で掌が余るほどだ。瑠偉の肌は美也子より薄くて青い血管が透けて見える。瑠偉の声は美也子より高くて震えを含んでいる。瑠偉の息は美也子より熱い。
全部が違った。全部が、瑠偉だった。
ある日のことだ。
喜一が洗濯をしようと瑠偉の部屋の洗濯籠を漁っていた時だった。下着の底から小さな紙袋が滑り落ちた。通販の封筒だ。中身はもう空だったが送り主の名称と明細が残っていた。
「ウィッグ 人毛100% ロングストレート 黒」
「レースショーツ M」
「シルクキャミソール S」
喜一はしばらくその紙袋を見つめ、紙袋を元の場所に戻した。丁寧に。まるで割れ物を扱うように。
◆◇◆◇
ある夜、行為の後に喜一は瑠偉の顔を上げさせた。暗闇の中で琥珀色の瞳が光っている。美也子ではない。瑠偉だ。喜一が育てた、喜一が壊しつつある、瑠偉だ。
──ああ、この瞳が。まるで……
喜一は
かつて美也子を月だと思った。掴めないと知りながら水面に映る光を追った。だが月は手に入らなかった。手に入るはずもなかった。月はただそこに在るだけで、誰かのものにはならないのだ。
だが今──
「──月が綺麗だな」
喜一がふとそんな事を呟くと瑠偉は一瞬小首を傾げて、窓を方を見遣る。そしてカーテンを開けて外を見て、やはりもう一度小首を傾げる。
「月? 全然見えないけど……」
瑠偉の言葉に、喜一は内心で「いや」と返した。
夜が明ける。日常が戻る。だが再び夜が来ればまた。
昇るのだ、月が。
琥珀色の、喜一だけの月が。
(了)