Fate/Ovary Overwrite 作:M・タマゴスキー
特異点警報が、カルデアの管制室に鳴り響いている。
「発生地点を特定して!」
オルガマリー・アニムスフィアの指示を受け、観測員たちが一斉に端末へ向かう。
「座標は?」
「……出ません」
「出ない?」
「はい。特異点反応そのものは確実に存在しています。ですが、発生地点を特定できません」
オルガマリーが眉をひそめる。
「観測範囲を広げて。地球全域を再走査」
「了解!」
大型モニターに世界地図が表示され、観測範囲が次々と切り替わっていく。
日本、アジア、欧州、北米、南米、アフリカ、極域。
どこにも該当する反応はない。
「地球上、該当地点なし」
「もう一度」
「再走査します」
数秒後、同じ結果が表示される。
「……やはりありません」
「特異点反応は?」
「消えていません。現在も継続して検出しています」
「観測系統の故障じゃないでしょうね?」
「全系統正常です。他の観測対象にも異常はありません」
「それなのに、特異点だけ発生地点が存在しない?」
「はい」
オルガマリーはモニターを睨みながら、わずかに息を吐く。
「……異常があるのに、異常がない」
その言葉に、立香は顔を上げた。
――異常があるのに、異常がない。
妙に胸へ引っかかる。
自分も同じではないか。
何度調べても、身体に異常はなかった。
魔術回路も正常で、魔力循環にも問題はない。
記憶にも、これまでの記録にも、説明できるほどの不整合は見つからなかった。
それでも自分だけが、ずっと恥ずかしいと感じている。
卵巣を見られることも、それを人前で示すことも、自分の検査写真を他人に見られることも。
この世界では当たり前のことなのに、自分の感情だけがそこから外れている。
だから、立香はずっと自分を疑ってきた。
自分のほうがおかしいのだと考えてきた。
けれど、いま目の前にある特異点反応も同じだった。
反応は確かに存在する。
機器も正常。
観測結果にも間違いはない。
それでも、あるはずの発生地点だけが見つからない。
立香はモニターを見つめたまま、数日前から頭の中にあった考えをもう一度辿る。
自分を調べても、何も出なかった。
もし、それが当然なのだとしたら。
調べる場所そのものが、最初から違っていたのだとしたら。
「……もしかして」
小さな呟きに、近くにいたマシュが振り返る。
「先輩?」
「おかしいのは……私じゃない?」
答えはない。
立香自身にも、まだ確信などなかった。
けれど、一度浮かんだ考えは消えてくれない。
「……世界のほうが、おかしいんじゃない?」
その瞬間。
ビキッ。
何かが、割れた。
「……っ?」
立香が息を呑む。
目の前の管制室は何も変わっていない。
壁も、床も、モニターも壊れてはいない。
それなのに一瞬だけ、世界そのものへ見えない亀裂が走ったような感覚が全身を貫いた。
音が遠のき、人の動きが止まり、時間から自分だけが切り離されたように感じる。
そして、その静寂の中で。
『お前もか』
声がした。
「……え?」
誰の声なのか分からない。
男の声だったようにも思える。
遠くから聞こえたのか、耳元だったのか、それすら判然としない。
次の瞬間、管制室の音が一気に戻ってくる。
端末を操作する音。
観測員たちの声。
鳴り続ける警報。
何も止まってなどいなかったかのように、すべてが動いている。
立香は周囲を見回す。
誰も反応していない。
マシュも、オルガマリーも、観測員たちも、それぞれ目の前の作業を続けている。
(……今の、何?)
幻聴だったのか。
そう考えかけたところで、観測員の一人が声を上げる。
「所長! 反応に変化!」
オルガマリーが勢いよく振り返った。
「何が起きたの!?」
「これまで取得できなかった情報が出始めています!」
立香は先ほどの感覚を整理することもできないまま、再びモニターへ目を向けた。
「表示して!」
オルガマリーの声と同時に、メインモニターが切り替わる。
先ほどまで単に「存在する」としか判定できなかった特異点反応へ、次々と新しい解析情報が付加されていく。
「座標は?」
「まだ出ません」
「なら何が分かったの?」
「反応の構造です。通常の特異点とは明らかに違います」
観測員が別の解析画面を開く。
「地球上に存在しない以上、観測範囲を地球外へ拡大します」
「やって」
「了解」
観測領域が地球近傍へ広がる。
衛星軌道。
地球と月の間。
さらにその外側。
それでも反応源は見つからない。
「宇宙空間にも該当なし」
「……まさか、また月じゃないでしょうね?」
オルガマリーの言葉に、何人かのスタッフが一瞬だけ顔を上げる。
「月面および月周辺、再確認します」
解析が走る。
「該当反応なし」
「じゃあ、どこにあるのよ」
「分かりません。ただし……」
観測員の指が止まった。
「どうしたの?」
「反応を通常の三次元座標へ落とし込もうとすると、必ず破綻します」
「時間軸は?」
「年代指定も不能です。過去、現在、未来のどこへ当てはめても一致しません」
管制室の空気が変わる。
地球上ではない。
宇宙にもない。
月でもない。
年代さえ指定できない。
それでも特異点反応だけは、確かに存在している。
「別の座標系を試して」
「すでに走らせています」
観測員たちが新たな解析を開始する。
複数の画面に数値と波形が流れ、これまで観測対象として扱っていなかった領域まで比較が広げられていく。
やがて、一人の観測員が手を止めた。
「……所長」
「今度は何?」
「通常座標ではありません」
「それはもう分かってるわ。だから何なの?」
観測員は表示された結果を何度か確認してから答える。
「こちらの時空構造そのものに、反応源がありません」
「……どういう意味?」
「同一世界内のどこかにあるのではない、ということです」
オルガマリーの表情が険しくなる。
「続けて」
「別系統として分岐している時空構造を確認しました。まだ完全な解析ではありませんが……こちらの世界とは異なる歴史を持つ世界です」
「異なる歴史……?」
「はい」
さらに解析が進む。
そして、判定結果が表示された。
「平行世界と推定されます」
管制室が静まり返る。
「……平行世界?」
オルガマリーが低く繰り返した。
「はい。特異点反応を追跡した結果、初めて観測可能になった領域です。最初から平行世界を観測していたわけではありません」
立香も画面を見つめる。
自分たちが知らない、別の世界。
そこから、この特異点反応が届いている。
「その世界のどこが特異点なの?」
「現在解析中です」
観測範囲が、発見された平行世界の内部へ広がっていく。
都市。
大陸。
海洋。
時間軸。
魔力分布。
通常の特異点であれば、どこかに反応の集中点が現れるはずだった。
しかし、いつまで経っても一点へ絞れない。
「……おかしい」
「何が?」
「反応範囲が広すぎます」
「どの程度?」
観測員は答えず、表示倍率を下げる。
特異点反応を示す領域が広がっていく。
街だけではない。
国だけでもない。
大陸でも止まらない。
「まさか……」
オルガマリーが目を細める。
「はい」
観測員が息を呑む。
「世界全域から、同一の特異点反応を検出しています」
誰も言葉を発しない。
立香は画面から目を離せなかった。
特異点が、その平行世界のどこかに存在するのではない。
「……この平行世界そのものが、特異点ってこと?」
立香の言葉に、観測員がゆっくり頷く。
「現状の観測結果では、その可能性が最も高いです」
オルガマリーがすぐに問いを重ねる。
「レイシフトは?」
「現時点では不可能です」
「理由は?」
「通常のレイシフトは、特異点内部へ到達するための座標と時代を指定します。ですが今回は、その侵入先として設定する一点が存在しません」
「世界全体が対象だから?」
「はい。それに、そもそもこちらと同じ時空座標上にありません」
「こちらから干渉する方法は?」
「今のところ確立できていません」
オルガマリーは腕を組み、モニターを見つめる。
「向こうからこちらへの影響は?」
「観測上、直接的な干渉は検出できません」
「本当に?」
「少なくとも、現在の観測機器で識別できる形では確認できません」
その答えに、オルガマリーはしばらく黙り込む。
平行世界そのものが特異点。
異常の規模は途方もない。
しかし、現時点では原因も、干渉方法も分からない。
「……分かったわ」
やがてオルガマリーが息を吐く。
「観測は継続して。何か変化があったらすぐに報告」
「了解しました。観測を続けます」
「お願い」
オルガマリーはようやく肩の力を抜き、椅子へ腰を下ろす。
平行世界そのものが特異点となっている可能性は高いものの、通常のレイシフトは使えず、こちらから干渉する方法もまだ見つかっていない。
今は観測を続けるしかなかった。
「……まったく、何なのよ」
小さく息を吐く。
張り詰めていた空気が少しだけ緩み、オルガマリーは無意識に手元へ残っていた資料を引き寄せる。
特に中身を確認しようとしたわけでもなく、そのまま何気なくページを捲る。
「…………」
指が止まった。
そこに載っているのは、自分の検査画像だった。
「……え?」
オルガマリーは目を瞬く。
もう一度、写真を見る。
「え? 何よこの資料っ!」
反射的に資料を閉じかけ、しかし途中で手が止まる。
「……でも、卵巣は……」
卵巣の検査画像。
検査をすれば記録を残す。
必要なら資料として使用する。
それは当たり前のことのはずだった。
なのに。
なぜか今は、自分の卵巣が写った写真を見るだけで顔が熱くなる。
「……え?」
理解できず、もう一度ページへ目を落とす。
やはり自分の写真だ。
「え? え?」
頭の中で、二つの感覚が激しくぶつかる。
これは普通の検査資料。
そう理解している。
それなのに、自分の卵巣の写真が会議資料として大勢へ配られていると気づいた途端、どうしようもなく恥ずかしい。
「な、なんでこれ……」
オルガマリーは周囲を見る。
管制室のスタッフたちも同じ資料を持っている。
会議に出席した者たちにも配った。
自分で許可した。
自分で説明までした。
「……私、これを……みんなに?」
顔が一気に熱くなる。
「ちょっと!」
近くのスタッフが振り返る。
「はい?」
「これ! 会議で配った検査資料!」
「はい」
「全部破棄して!」
「……破棄、ですか?」
「そうよ!」
「ですが、会議資料として保管しておいたほうが――」
「いらないわよ!」
オルガマリーの声が鋭くなる。
「正式な検査記録は医療区画にあるでしょう!?」
「ありますが、こちらは会議で使用した記録として――」
「だから何よ!」
スタッフが僅かに身を引く。
「配ったものも、複製したものも、全部集めて破棄!」
「しかし、すでに各部署へ配布されていますので、すべてとなると――」
「だから回収して破棄しろって言ってるの!」
「……了解しました」
「今すぐよ!」
「はい!」
スタッフが慌てて各部署への連絡を始める。
「第一会議室へ連絡。先ほどの検査資料は所長命令で回収後、破棄」
「医療班にも確認します」
「管制班の保管分も対象ですか?」
「全部って言ってるでしょう!」
「は、はい!」
どうして一度で通じないのか。
オルガマリーは苛立ちながら大きく息を吐き、ひとまず資料を机へ伏せる。
「……もう」
そこで、ふと視線が下がった。
「…………」
いつものように体外へ続いている子宮と左右の卵管。
その先にある、自分の左右の卵巣。
つい先ほどまで何の疑問もなく、人前に晒していた自分自身の身体。
「…………え?」
一瞬、思考が止まる。
写真へ感じたものと同じ羞恥が、今度は一気に自分自身へ向かってきた。
「きゃああっ!?」
突然の悲鳴に、管制室のスタッフたちが何事かと一斉に振り向く。
何人もの視線が自分へ集まったことに気づき、オルガマリーの顔が真っ赤になる。
「見ないでっ!」
スタッフたちが固まる。
「え?」
「所長?」
「見ないでって言ってるでしょう!」
今度こそスタッフたちは慌てて視線を逸らす。
オルガマリーは身体の向きを変え、少しでも人目から外れようとする。
「なんで……私、こんな格好で……」
自分ではそれが今までと何も変わらない姿だと分かっている。
だからこそ、余計に混乱する。
立香だけは顔を背けなかった。
突然、自分と同じような羞恥を示し始めたオルガマリーを、じっと見つめている。
(……やっぱり)
立香の胸にあった違和感が、少しずつ形を変えていく。
今まで何の疑問も持たなかったオルガマリーが、自分の身体を見られることを恥ずかしがっている。
(……やっぱり、私はおかしくないんだ)
なら、おかしいのは何なのか。
(……世界のほうが、おかしいんじゃないのか)
その考えは、先ほどよりも強くなる。
けれど、それだけで答えが出たわけではない。
立香は何も言わず、混乱したまま顔を真っ赤にしているオルガマリーを見つめていた。
スタッフたちが資料の回収と破棄に動き始める。
「第一会議室、回収完了しました」
「医療班、二部です」
「管制班の保管分も回収しました」
「複製分も確認しています」
次々と報告が入る。
「残っているものがないか、もう一度確認して」
「はい」
「確認できたものから破棄。保管しなくていいから」
「了解しました」
オルガマリーはそのやり取りを聞きながら、落ち着かない様子で立っている。
つい先ほどまで、自分は何の疑問も持たずにあの写真を会議資料として扱っていた。
必要な検査結果。
立香との比較資料。
会議で確認するための記録。
そう思っていた。
それが当たり前だと、本気で考えていた。
だから、大勢へ配ることにも何も感じなかった。
けれど、一度恥ずかしいと感じてしまった今となっては、その感覚がまるで理解できない。
「……何で私、あんなもの配ったのよ……」
思い出すだけで顔が熱くなる。
しかも、それだけではなかった。
ミーティングのとき。
自分は大勢のスタッフの前で立香に挨拶をさせた。
立香は、恥ずかしいと言っていた。
明らかに嫌がっていた。
それなのに自分は、普通のことなのだからと立香へ求めた。
「……」
オルガマリーは目を伏せる。
「……何で私、あんなこと……」
自分自身が今、同じ羞恥を感じているからこそ分かる。
立香があのとき、どれほど居心地の悪い思いをしていたのか。
それを自分は理解しようともせず、立香側の異常として扱っていた。
「……最悪」
小さく呟いたところで、ふと別のものを思い出す。
「…………あ」
オルガマリーの表情が固まった。
食堂の入口。
毎日、大勢のスタッフやサーヴァントが行き交う場所。
「……ポスター」
自分の通常の挨拶姿勢を使ったポスターを、そこへ掲示していた。
「……うそ」
朝も昼も夜も。
食堂へ行く者は、その前を通る。
そのたびに、自分の姿が目に入る。
「……私、毎日……?」
オルガマリーの顔がまた赤くなる。
「なんであんなもの貼らせたのよ……!」
「所長?」
近くのスタッフが振り返る。
「食堂!」
「はい?」
「食堂入口のポスターも破棄!」
「ポスターですか?」
「私の挨拶のやつよ!」
「ああ、あれですか」
「ああ、あれですかじゃない!」
オルガマリーの苛立ちが再び跳ね上がる。
「今すぐ剥がして破棄して!」
「ですが、あれは広報用の掲示物なので――」
「だから何なのよ!?」
「いえ、記録として一部だけでも保存を――」
「しなくていい!」
「……はい」
「一枚も残さないで!」
「了解しました!」
スタッフが急いで食堂へ向かう。
オルガマリーはその背中を見送りながら、両手で顔を覆った。
「……もう嫌……」
自分の検査写真。
会議での資料。
食堂のポスター。
思い出すたびに、新しい羞恥が押し寄せてくる。
そのとき、廊下から足音が近づいた。
「所長……?」
オルガマリーの肩が揺れる。
「……立香」
今、一番顔を合わせづらい相手だった。
それでも、逃げるわけにはいかない。
オルガマリーは少し迷ってから、立香を見る。
「……あなた、ずっと恥ずかしいって言ってたわよね」
「……うん」
「皆の前でも、検査のときも……ずっと」
立香は黙っている。
「それなのに私は、あなたのほうがおかしいんだと思ってた」
オルガマリーは視線を落とす。
「普通なんだから気にする必要なんてないって……そう思ってた」
「……」
「でも、自分が同じように感じた途端に、これよ」
回収されていく資料へ視線を向ける。
「……勝手よね」
立香は何も言わない。
オルガマリーはしばらく迷ったあと、静かに続けた。
「……本当に、ごめんなさい」
立香はすぐには答えなかった。
その沈黙を、オルガマリーも急かさない。
やがて、立香が小さく口を開く。
「……所長も、今まで分からなかったんでしょ」
「それでもよ」
オルガマリーはすぐに返す。
「あなたはちゃんと、恥ずかしいって言ってた。それを聞いてたのに、私はまともに受け取らなかった」
回収された資料の束が、破棄するために運ばれていく。
その中から自分の検査画像が一瞬だけ見え、オルガマリーは反射的に目を逸らした。
「……もう見たくない」
立香には、その言葉の意味がよく分かった。
自分もずっと、そう思っていたから。
◇
その頃。
別の区画でも、資料と掲示物の確認が続いていた。
「これで指定されたものは全部かなぁ?」
一人のスタッフが、手元の確認表を見る。
「会議資料は全部回収したよ」
「食堂のポスターも剥がしたって」
「じゃあ終わりかな」
スタッフが周囲を見回す。
少し離れた壁には、ナーサリーが以前貼った写真が残っている。
「……あれは?」
「ん?」
「ナーサリーが貼ってた写真」
もう一人のスタッフも壁を見る。
「それも破棄するのかな?」
「でも、所長が言ってたのは会議資料と食堂のポスターでしょ?」
「そうだけど」
「写真のことは何も言われてないよ」
「……そっか」
最初のスタッフも、それ以上深く考えなかった。
指定された資料とポスターだけを処理し、二人はその場を離れていく。
ナーサリーがカルデアのあちこちに貼った写真は、まだそのまま残されていた。