Fate/Ovary Overwrite 作:M・タマゴスキー
午後
比較会の時間が近づき、立香は食堂へ続く廊下を一人で歩いていた。
足取りは重い。
「大きさ……形……左右差……表面状態……手入れ……」
昨日、三人が言い争っていた項目を思い返す。
自分で口にしたせいで、さらに憂鬱になった。
「……なんで参加するって言っちゃったんだろ」
今から断ろうか。
そう考えたものの、朝のメイヴの言葉が頭に浮かぶ。
皆と同じ条件で、一度ちゃんと比べてもらう。
そうすれば、本当にただの普通のことなのだと実感できるかもしれない。
「……普通のことなんだよね」
立香は自分へ言い聞かせるように呟き、食堂へ入った。
「……え?」
足が止まった。
比較用の机。
ネロ。
玉藻。
メイヴ。
審判役のブーディカ。
そこまでは聞いていた。
聞いていなかったのは、その周囲を埋めている大勢のサーヴァントとスタッフだった。
「…………」
立香は入口で固まった。
「奏者!」
ネロがすぐに見つける。
「来たか!」
その声につられ、いくつもの視線が立香へ向いた。
「……なんでこんなに人がいるの!?」
「観客だ!」
「観客!?」
食堂の端では、ナーサリーとジャックが嬉しそうに手を振っている。
「マスター!」
「がんばってー!」
立香は二人を見つめた。
「…………あとで話があるからね」
二人は揃って首を傾げた。
◇
「……帰っていい?」
「ここまで来て?」
メイヴに言われ、立香はすぐに反論した。
「だって聞いてないよ! こんなに人に見られるなんて!」
「別にいいじゃない」
「よくない!」
ブーディカが苦笑する。
「本当に嫌なら、やめてもいいんだよ?」
「…………」
立香は観客を見る。
誰もこの状況を変だと思っていない。
三人が昨日の口論の決着をつけるために比較会を開く。
そこへマスターも参加する。
だから見物に来た。
皆にとっては、本当にそれだけのことだった。
メイヴの言った通り、自分だけが特別なことをするわけではない。
「……やる」
「本当に?」
「……ここまで来たし」
立香は諦めたように中へ入る。
「絶対、早く終わらせてね」
「努力するよ」
「……もう帰りたい」
まだ始まってすらいなかった。
◇
比較会が始まった。
ブーディカは記録表を机へ置き、手をきれいにしてからネロの前へ立つ。
「まずネロからね」
「うむ!」
普段から露出している左右の卵巣を、ネロは審査しやすい位置へ整えた。
「やっぱり大きめだね。左右差もほとんどなし。形もきれい」
「当然である!」
ブーディカが右卵巣を下から持ち上げる。
掌へ保護粘液が薄く広がった。
「張りはあるけど硬すぎないね」
指腹で軽く押して弾力を確認し、続いて左側も同じように触れる。
「左もほぼ同じ。保護粘液の量も標準的で、左右差もほとんどなし」
「一晩整えた甲斐があったというものだ!」
「日頃の手入れを普通にしただけでしょう?」
玉藻が横から口を挟む。
「それこそが日頃の鍛錬である!」
ネロは得意満面だった。
◇
「次、玉藻」
「はい。どうぞ」
玉藻も自然に審査を受ける。
ブーディカは右卵巣を支え、表面を確認した。
「ネロより少し細長いね。保護粘液も少し薄くて、粘度は軽め」
「あら、そうですか?」
「うん。でも左右はかなり均一。表面も滑らかだし、卵管采もきれい」
「手入れの均一さには自信がありますから」
反対側も確認するころには、ブーディカの掌へネロと玉藻の保護粘液が薄く重なっていた。
「こっちも問題なし。かなりいい状態だね」
「当然ですね」
「まだ余の方が上である!」
「結果が出るまでお待ちなさいな」
昨日の言い争いが再開しそうになり、ブーディカが二人を止める。
「まだメイヴとマスターが残ってるんだから」
◇
「次は私ね」
メイヴが前へ出た。
「さっさと見てちょうだい」
「はいはい」
丸みが強く、張りの分かりやすい左右を、ブーディカが順に掌へ受ける。
「丸いぶん、手に収まりやすいね」
「言い方」
「比較だから仕方ないでしょ」
表面を軽く押して反発を確認する。
「張りも問題なし。左右とも状態は安定してる」
「当然よ。昨日あれだけ言われて、適当な状態で来るわけないでしょう?」
メイヴは満足そうだった。
そして立香を見る。
「ほら。次はマスターよ」
「…………」
立香は、ブーディカの手へ視線を落とした。
三人を順番に触診したため、掌から指先まで白濁半透明の保護粘液で薄く濡れている。
ブーディカ自身はまったく気にしていない。それどころか、粘度や触感の違いも比較材料として扱っていた。
「マスター?」
「……分かってる」
立香は前へ出た。
「……早く終わらせてね」
「もちろん」
左右を審査しやすい位置へ整える。
三人よりやや小ぶりで、素直な楕円形。大きな左右差はなく、表面も滑らかだった。
ただし、緊張のせいで普段より濡れている。
白濁半透明の保護粘液の上を、さらりとした透明な緊張性分泌液が細く流れていた。
「……マスター、ちょっと緊張してる?」
「言わないで」
「分かった」
ブーディカはそれ以上触れず、右卵巣を下から支えた。
「…………っ」
立香の肩がわずかに動く。
痛いわけではない。
検査や触診として普通のことだというのも分かっている。
それでも、すでに三人分の保護粘液で濡れているブーディカの掌へ、自分の卵巣が乗せられている。
しかも、それを大勢の人間が見ている。
その事実だけで顔が熱くなる。
「張りはちゃんとあるね」
指腹で軽く押して弾力を確認する。
「硬いところもない。大きさは三人より少し小ぶりだけど、それ自体は問題なし」
「……はい」
続いて左側。
こちらも状態を確認し、ブーディカは頷いた。
「左右差も少ないし、こっちも問題なし」
「……終わり?」
「個別の確認はね」
「個別の、って言った?」
嫌な予感がした。
ブーディカは手を軽く拭ってから、比較用の机を示した。
「じゃあ最後。四人を並べて全体比較するよ」
「まだあるの!?」
「昨日からそれが本番なのよ」
メイヴが言う。
「私は今日参加が決まったんだけど!」
「参加するなら同じ条件で比べないと意味ないでしょう?」
「それはそうなんだけど……!」
正論だった。
そして正論であることが、立香には一番困る。
◇
ネロ、玉藻、メイヴが順番に比較用の机へ左右の卵巣を載せていく。
子宮や卵管へ無理な力が掛からないよう、それぞれ机との距離を調整する。
表面を覆う保護粘液が、机へ小さな濡れ跡を残した。
「マスター」
「…………」
立香は机を見る。
すでに三人分、六つの卵巣が並んでいる。
その向こうには大勢の観客。
「……分かってるってば」
真っ赤な顔のまま前へ出た。
自分の左卵巣と右卵巣も、そっと机へ載せる。
四人分。
八つの卵巣が、横一列に揃った。
こうして直接並べれば、確かに違いは分かりやすかった。
大ぶりで左右の形がよく揃ったネロ。
少し細長く、表面や保護粘液の状態まで均一な玉藻。
丸みと張りの強いメイヴ。
そして、やや小ぶりながら左右差の少ない立香。
表面から滲む保護粘液が、それぞれ机へ薄い湿りを作っていく。立香のものだけは緊張性分泌液も混ざっているため、少し水っぽかった。
「おお!」
ネロが嬉しそうに見比べる。
「こうすると実に分かりやすいな!」
「ネロ、そんな普通に見ないでよ……」
「比較するために並べているのであろう?」
「そうだけど!」
玉藻も横から眺める。
「確かに、個別のときより違いがよく分かりますね」
「でしょう?」
メイヴも頷く。
立香だけが縮こまるようにして俯いていた。
「……恥ずかしい」
「まだ言っておるのか?」
ネロが不思議そうに尋ねる。
「だって恥ずかしいものは恥ずかしいんだよ!」
「皆同じことをしておるぞ?」
「それも分かってる!」
立香は真っ赤な顔を上げた。
「普通なのも分かってる! 卵巣を見せるのも普通! 比較するのも普通! こうして机に並べるのだって普通!」
「では何が問題なのだ?」
「問題じゃないの!」
思わず声が大きくなる。
立香は一度言葉を切ってから、絞り出すように続けた。
「……私が恥ずかしいだけなの!」
ネロも、玉藻も、メイヴも、そして観客たちも、似たような表情で立香を見ている。
誰にもよく分からないらしい。
メイヴも朝は「慣れるかもしれない」と言っていたが、実際に並んで比較されても立香の羞恥は消えなかった。
むしろ、大勢に見られた分だけ強くなったような気さえする。
「……やっぱり私の方なのかな」
立香は小さく呟いた。
◇
結果発表。
「一位――ネロ」
「うむ!」
「二位、玉藻」
「あら、惜しかったですね」
「三位、メイヴ」
「次は勝つわ」
「四位、マスター」
「……うん」
立香にも拍手が向けられる。
「でも、かなり僅差だったよ」
ブーディカがそう付け加えたが、立香は疲れ切った顔で答えた。
「順位はどうでもいいの……」
夕方
自室へ戻る廊下を、立香はマシュと並んで歩いていた。
「今日はお疲れさまでした」
「疲れた……」
「比較会ですか?」
「うん」
「皆さん、楽しそうでしたね」
「マシュもああいうの平気なんだよね」
「はい」
即答だった。
「……だよね」
少し歩いてから、立香は再び口を開いた。
「ねえ、マシュ」
「はい」
「挨拶するときって、卵巣を見せるのが普通だよね」
「はい」
「左卵巣も、右卵巣も」
「そうですね」
「子宮も卵管も卵管采も体外にあるのが普通」
「はい」
「見るのも普通」
「はい」
「見せるのも普通」
「はい」
「汚れてたら手入れするのも普通」
「そうですね」
「比較するのだって普通」
「はい」
立香は胸元へ手を当てた。
「全部、私もそう思ってる」
マシュが立香を見る。
「今日の比較会だって、おかしいことをしてるとは思ってないんだよ。昨日三人が喧嘩になったから、ちゃんとコンディションを整えて公平に比べた。それだけだって分かってる」
「はい」
「ブーディカに触って確認してもらったのも、机に並べて違いを見たのも、普通のことだと思ってる」
それでも。
立香の声が少し小さくなる。
「なんで私は、こんなに恥ずかしいんだろ」
知識としては、何も間違っていない。
周囲と同じ常識を持っている。
それなのに、感情だけがどうしても一致しない。
マシュは少し考えた。
「先輩が恥ずかしがり屋だから、でしょうか」
「やっぱり、それかな」
「私はそう思います」
「……そっか」
それなら、今はまだ説明がつく。
「じゃあ、私が気にしすぎてるだけなのかな」
「そうかもしれません」
「……うん」
二人は再び歩き始めた。
今日もカルデアはいつも通りだった。
朝になれば、互いの左右の卵巣を確認して挨拶をする。
相手の大きさや形、保護粘液の状態を見る。
汚れていれば手入れをする。
必要なら触って状態を確かめる。
比較するときには並べて違いを見る。
誰も疑問には思わない。
立香も、その常識そのものを疑ってはいなかった。
ただ、見せるたびに、見られるたびに、どうしても顔が熱くなる。
「……やっぱり、私だけなのかな」
「何か言いましたか?」
「ううん」
立香は首を振った。
「何でもない」
いつもと変わらないカルデアの一日が終わっていく。
立香の胸の中にだけ。
どうして自分だけが恥ずかしいのか。
その小さな疑問を残したまま。