生温かい微睡みに浸りながら、杳は懐かしい景色を垣間見ていた。
古い病院の小児科病棟の、閉鎖された屋上に続く階段の踊り場。少年は、いつも一人でそこにいた。
――また来たの? 勝手に病室抜け出して、いい加減看護師に怒られるよ。
赤みがかった茶色の髪。路地裏の野良猫のように澄ました眼差し。
段差に座って、彼はつまらなそうに真っ黒なルービックキューブを弄っていた。
――斗南くんだって。
――おれはナースステーションで気味悪がられてるから注意もされないよ。
何でもない顔をして悲しい事を言う彼を見たくなかった。
初めて目にする玩具にそれは何かと尋ねると、ちょっと黙り込んでから「影で作った」と答えた。
――形や質感は再現できるけど、色はどうやってみても黒になっちゃうんだ。
溜め息混じりに呟く彼の隣に腰を下ろし、ルービックキューブを手に取る。
ブロックを動かすと、カチカチと音がして面がスライドする。黒一色である事を除けば本物そっくりだ。
――凄いね。何でも作れるの?
感心していると、斗南はむず痒そうに眉を顰めてそっぽを向いた。
――何でもじゃない、おれが想像出来るものだけ。生き物はまだ難しい。今は生きてない物で、小さいヤツなら。
――じゃあ、ぬいぐるみって作れる?
杳の発言に面食らったのか、斗南が明るい色の瞳を真ん丸にした。
――ぬいぐるみ?
――そう。お気に入りのテディベアがあるんだけど、おうちに置いてきちゃったから。これくらいの大きさで、ふわふわで、首にリボンが結んであるの。
両手でサイズ感を示しながら説明すると、斗南はゆっくりと瞬いた。
上方の窓から射す光が二人の足元に影を伸ばしている。不意に斗南の影がグニャリと歪み、風が吹いて水溜まりが揺れるように波打った。
斗南が右手を伸ばすと、指先が影の中に沈んだ。手首まで浸かり、ずるりと何かを引き上げる。
――……こういうの?
斗南の右手が真っ黒なテディベアを掴んでいた。
杳が片手で抱えるに丁度良いサイズで、柔らかそうな毛に覆われ、首元に幅広のリボンを飾っている。
――かわいい!
杳が歓声を上げると、斗南はぶっきらぼうにテディベアを差し出した。
――貰っていいの?
――違う、貸すだけ。杳が退院するまで貸してやるよ。
――ありがとう! 今日からこの子と一緒に寝るね!
テディベアを両手で抱き締めて頬擦りすると、斗南は何故か頬を赤くしていた。
――斗南君、男の子なのにテディベアよく知ってるね。おうちにあるの?
途端に斗南の表情が強張った。
榛色の視線が力なく俯く。
――……妹が持ってたから。
家族の話題になると、彼はいつも元気がなくなる。
自分の所為で大事なものを全て失ってしまったような、この世で一人ぼっちになってしまったような、そんな悲しげな顔をする。
杳はブンブンと首を横に振り、わざとらしく明るく笑ってみせた。
――わたしとおんなじ! うちは弟がいるから、男の子の好きなもの知ってるよ。今は『
――……そんなの、五年にもなって見るわけねーじゃん。
――えー、そうなの? キメランジャー、結構面白いよ。わたしはねぇ、カラスの力を持ってるキメラブラックがいいな。背中に黒い翼があって、空を飛べるんだよ。
身振り手振りを付けて説明すると、斗南は呆れたように笑った。
――五年の女子なのにヒーローが好きなんて、杳って変なの。
――クラスの友達にも言われたよ。そんなの子供っぽいって。……斗南くんも、そう思う?
頷かれたら嫌だなと思いながらテディベアをギュッと抱きかかえる。斗南はくすぐったそうに首を竦めた。
――別に、いいんじゃねーの。……おれも、妹の人形遊びに付き合わされたりした。
幼児向けの人形を手におままごとをしている斗南を想像し、杳は思わず声を出して笑ってしまった。
――斗南くんって、優しいね。
――そんなつもりねーけど。
――ううん。優しくて格好良いよ。ここでわたしを助けてくれた時も、そう思った。
影を操る不思議な少年。
家族は誰一人見舞いに訪れず、事情を知っているらしい病棟スタッフは斗南を腫れ物のように扱い、遠巻きにしていた。恐ろしい怪物を窺うような目で。
だが杳にとって、斗南は出会った時から格好良い男の子だった。
近寄り難い雰囲気をしているが、話してみると案外普通で、優しくて勇気のある少年なのだと分かる。そうでなければ、危険を顧みず見ず知らずの他人を助けようとしない筈だ。
――斗南くんって、テレビのスーパーヒーローみたい。
無邪気にはにかむ少女の笑顔に、少年は息を止める。
――キメラブラックみたいに格好良くて、ドキドキしちゃった。こうやって斗南君と友達になれて、嬉しい。
斗南は――泣きそうな顔をして、フイッと視線を逸らした。
――ばっかじゃねーの。
言葉とは裏腹に、照れ臭そうな声がぼやく。
隣り合う二人の影はぴったりとくっついて、暫く離れようとしなかった。
きっと、あれは初恋だった。
十一歳の自分が覚えたばかりの、甘く切ない感情を噛み締め、緩々と目を開く。
冷え切った黄昏時の図書館。セピア色の夕日が立ち並ぶ書架の影を黒く切り取っている。
杳は、通路に置かれた背凭れも肘置きもないベンチソファーに横たわっていた。
何時の間にか黒いセーターとミニ丈のフレアスカート、厚手のタイツにハイカットのスニーカーという格好に戻っていた。……どうやら今回は下着も用意してくれたらしい。
首の後ろから微かな寝息が聞こえる。
胸の下に回された逞しい腕の中でそっと寝返りを打つ。
錆色の短髪をくしゃくしゃに縺れさせた青年が眠っていた。
白い瞼に薄青い血脈が透けている。睫毛の先に光が灯って銅色の針金細工のようだと見惚れていると、榛色の双眸が僅かに開いた。
薄い唇がふわりと笑う。
「……杳」
温かい両腕に抱え込まれ、鼻梁を啄むようにキスされた。
「何、寝込みでも襲おうとしてたのか?」
「し、してません」
「俺は別に構わねぇけど。襲い受け大歓迎」
楽しそうに喉を鳴らしながら、斗南は杳に口づけた。
唇を割って潜り込んできた舌で歯列の裏側をなぞられ、ぬるぬると口蓋を愛撫される。
思わず声を漏らすと、斗南の右手がスカート越しに尻を撫で回した。
「ンっ、ぁ……ふぅ……ッ」
小刻みに腰が跳ね、膣と子宮が引き攣るように収縮する。
パーカーに皺が寄るほど握り込むと、互いの唇に吐息の熱さが伝わる程度の空白が生まれた。
「まあ……流石にあれ以上は無理させられねぇな」
斗南は苦笑を漏らし、労るように杳の腰をさすった。
意識を失う直前までの数々の行為が甦り、杳は耳から首まで真っ赤に染めた。
たっぷりと斗南の剛直に犯し尽くされた胎がずくずくと脈打っている。
注ぎ込まれた精液が愛液と一緒に溶け出しそうで、杳はもじもじと太腿を擦り合わせた。
「別に……無理なんかしてないよ」
伏し目がちに呟くと、斗南はグッと来た様子で目元を赤らめた。
「無自覚の誘い受け、怖ぇな」
「え?」
「いや、何でもない。……散々我が儘に付き合わせておいてなんだけど、引いたりしねぇの」
左手の親指でふにふにと下唇をつつかれる。右手はタイツとショーツに包まれたまろやかなヒップラインを撫で続けていて、杳は首を竦めて斗南に擦り寄った。
喉仏のくっきり浮かんだ首に額を寄せると、抱擁が一層きつくなる。
黒橡色の瞳が蕩け、少女のようで凄艶な笑みが浮かんだ。
「恥ずかしいけど、嫌じゃないもん。斗南君が私を欲しがって気持ち良くなってくれるなら、嬉しい」
斗南は眉根を寄せると、嘆息を吐き出した。
「……際限がなくなるから勘弁してくれ」
「我慢しなくていいのに」
「杳を傷つけたくない」
斗南の左手が頬から首筋、胸元へと伝い落ちる。セーターを押し上げる豊満な果実を掴むと、やんわりと揉みしだいた。
杳は糖度の高い喘ぎ声を震わせ、斗南に縋りついて身をくねらせる。
全幅の信頼を寄せて腕の中で快感に溺れる娘に、青年は苦しげに接吻をした。
「俺自身が原因で杳を損なう事だけは、絶対に嫌だ」
彼の方が傷ついているような表情に、微睡みの中で垣間見た過去の少年が重なる。
杳は両手を伸ばして斗南の頬に添えると、そっと唇を重ねた。
「ん、ふ……あァ……っ」
乳房を揉み潰す掌に力が加わり、斗南が夢中で唇を食んでくる。何度も下腹部に切ない痛みが走り、軽い連続絶頂に体がビクビクと跳ねた。
両腿の間に斗南が片足を割り込ませた。固いデニム生地で湿った陰部をこするように刺激し、いとも容易く杳を追い詰める。
「ああぁ――ン、ひぅ!」
嬌声ごと唇を貪られ、杳は涙を溜めた瞳を瞠った。
食い入るように見つめてくる榛色の眼差しが胸を焦がす。
黒いタイツに覆われた両足が青年の腰に絡みつく。スカートの裾が捲れ、タイツの股布まで染みるほど溢れ出る女の蜜が甘ったるく香った。
斗南は凛々しい眉を歪めて桃尻の割れ目に指先を這わせた。
勃ち上がった陰核を筋肉質な太腿で押し潰され、眼裏に火花が散る。
「となみ、くん……すきっ……!」
杳の口から零れた台詞に、斗南が動きを止めた。
ぽかんと瞠目して固まる青年に、娘は快楽の波間で息も絶え絶えに伝えた。
「テディベア……昔、作ってくれたよね」
「また思い出したのか?」
「入院先で、斗南君と一緒にいた頃の事……全部じゃないかもしれないけど。でも、格好良くて優しい斗南君が大好きだった事は、ちゃんと憶えてるよ」
杳はふにゃりと笑った。
「私の初恋の人なんだよ、斗南君は」
斗南は薄闇の中でも鮮やかなほど赤面した。
彼の首に腕を回し、杳は引き締まった腰を両足で引き寄せた。
「今も好き。貴方をまた好きになれて嬉しい。私の全部あげても足りないくらい、大好き」
斗南の瞳がシャッターを切るように瞬き、唐突にぽろりと涙を零した。
驚く杳を抱き締め、斗南は小さく肩を震わせた。
「俺……お前に好きになってもらえる資格、あるのかな」
「え?」
「両親が俺を捨てた本当の理由……俺が、病葉の力で妹を傷つけたからなんだ」
杳の肩に顔を伏せ、斗南はきつく彼女を掻き抱いた。
「妹さんを……?」
「……俺とは年が離れてて、妹はまだ三歳になる前だった。指しゃぶりの癖が抜けなくて、気になったら何でも口に入れる子供でさ。一緒に遊んでる時、指に引っ掻き傷が出来て……直ぐに手を洗って、絆創膏を貼っておけば良かったのにな」
大して痛くないからと放置していた、傷口に薄く滲んでいた血を――斗南の妹は無邪気に舐めてしまった。
人ならざるものをも病まし苦しめる、病葉の毒を。
「俺は自分の体質を理解も制御も出来ていなかった。妹が摂取した血液には猛毒の成分が含まれていて……妹は救急搬送されて、生死の境を彷徨った」
杳は言葉を失い、斗南の背中を力の限り抱き返した。
腕の中の彼は今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
「結果的に妹は一命を取り留めて、後遺症も残らずに済んだ。でも俺は……もう妹の側にはいられなくなった」
家族の中で居場所を失った斗南は、体質の完璧なコントロールを覚える為、病葉家と縁深い遠い地方の病院に強制入院させられた。
「病葉の家系は昔から医薬業と関わりが深いんだ。昔から付き合いのある病院でも何人か働いてて……入院って形で色々と叩き込まれた」
「引き取ってくれた伯父さんも……?」
「いや、伯父貴は生粋の退治屋なんだ。昔から日本中飛び回ってて、当時も直接顔を合わせたのは退院してから。まあ……分身の鴉を使ってしょっちゅう様子は見に来てくれてたけど」
養父の話題が出ると、斗南の声がほんの少し穏やかになった。
「伯父貴こそ優しい人だよ。修行はすっげぇ厳しくて容赦なかったけど……事情があって好き合った人と結婚出来なくて、娘さん――俺の
斗南は杳の体を抱え直し、深く息を吸い込んだ。
「伯父貴が差し伸べてくれた手を取れたのも、病葉の家から逃げ出さずにやってこられたのも、杳のお陰だ。杳と過ごした思い出が、俺の事をヒーローみたいだって言ってくれた言葉が……ずっと俺を守ってくれた」
無敵のお守りだったと、斗南は笑って告げた。
杳の目から涙が転がり落ちる。
斗南は顔を上げると、柔く笑んで杳の涙を舐め取った。頬に口づけ、するりと右手をセーターの内側に滑り込ませる。
「ひゃ……あ、斗南君……」
用意周到な事にフロントロックのブラジャーらしく、簡単に締めつけが失われた。
解放感に弾む乳房を直接愛撫され、杳は斗南の首にしがみついて喘いだ。
はちきれそうな弾力を掌で堪能しながら、斗南は陶然と杳の唇を啄んだ。
「俺、単純な男だからさ。初恋の女の子にヒーローみたいだって言われた事が忘れられなくて、じゃあ本当になってやろうって進路決めたんだ」
「は……へ?」
「俺の本職、スーツアクター。特撮ヒーローの中の人って言えば分かる? たまに顔出しでスタントもやるけど」
出会った時から、斗南は身体能力が抜群だった。何度も肌を重ねた精悍な体つきを思い浮かべ、成程と得心が行った。
まじまじと凝視すると、彼は恥ずかしそうに目を泳がせた。
「……大人になっても特撮が好きだったら、何時かお前に俺が出てる作品見てもらえるかなって。我ながら不純な動機だな」
「本当に……私の事、ずっと好きでいてくれたの?」
斗南はくしゃりと苦笑いを零した。
「中高で他にいいなって思ったり、付き合ったりした奴もいたけどさ。最後に俺の心が向かうのは、絶対杳だった。ずっと忘れられなくて――今でも好きだよ」
溺れるほどの多幸感に息も出来ない。
耳まで紅潮させて震えていると、斗南の右手が甘えるように左乳房を揉んだ。
「ハ……杳の胸、すっげぇドクドク言ってる」
「やぁ、おっばいの先っぽ、カリカリしちゃ駄目……ッ」
「やだ。だって滅茶苦茶気持ち良さそうで可愛い」
指先で乳頭部を弄ばれて母乳が滲み出す。か細く啼いて腰を揺らしていると、唇に噛みつかれた。
「ふ、ぁあ、となみくん」
「ああ――クソ! ごめん、杳。やっぱりお前の事、逃がしてやれない」
恋慕と劣情を滾らせた瞳が一途に杳を見つめる。
骨まで灰すら残さず焼き尽くされそうだった。この人になら殺されてもいいと心底思った。
「結婚して」
直球のプロポーズに唖然とする。
斗南は切々と懇願した。
「全部片付けたら、俺と籍入れて。お前が俺の事好きだって言ってくれてるのに、お前と他人のままなんて耐えらんねぇ。杳は俺の女だって、誰にも邪魔されない証明が欲しい」
「い、いきなり過ぎない?」
「結婚してれば孕んでても文句言われないだろ。ちゃんと親御さんに挨拶するし、伯父貴にも紹介する。お前が学生でも、当面養うだけの稼ぎはある」
斗南の左手がグッと腰を引き寄せる。
「違う」
熱に浮かされたような声が低く囁いた。
「子供が出来ても出来なくても、杳が欲しい。一生側にいて。死ぬまで俺と一緒にいて。そうしてくれないと……俺、生きていられねぇ」
杳、と身も魂も焦がすように斗南が呼んだ。
何時の間にかベンチソファーに押し倒される体勢になり、覆い被さる斗南を見上げていた。
セピア色の光に烟る榛色の瞳が揺れている。途方もない愛しさを覚え、杳は微笑んだ。
「斗南君」
セーターの裾を捲り上げると、白らかな乳房がいやらしく揺れて斗南を誘惑する。
左乳房を捕らえる右手の上から掌を重ねると、斗南が生唾を飲む音がした。
「死なないで。私があげられるものなんて数少ないかもしれないけど……私は、斗南君の側にいたいよ」
はしたないと思いつつ、両足を斗南の腰にギュッと巻きつける。
空いている右手を上から押さえ込まれ、指を絡めて握り締められた。
そっと握り返すと、右乳首に吸いつかれた。
「ひ、ぁ、んあぁぁぁ……っ!」
焦れったいほど優しく母乳を吸われて嬌声が上がる。一頻り乳首をしゃぶった斗南は乳頭部を舐め回し、つと身を起こした。
涙目で打ち震えている杳に双眸を眇め、桜色の口唇を塞ぐ。
「は……ぅ……斗南、く……」
グリグリと腰を揺すられ、杳は喉を仰け反らせてわななかせた。
斗南が唇を舐め、独りごちるように言った。
「伝手を辿ればお前を会いに行く事は出来た。でも、杳は俺と違う、普通の世界で生きていく人間だと思ってたから探そうとは思えなかった。病葉の俺は、不幸の毒にしかなれないから――」
「そ……んな、事……ッ」
腹が立って睨むと、うっとりと笑いかけられる。
「杳が受け入れてくれたから、諦めるのはやめた。誰にも譲らない――杳は俺のものだ」
ずるり、と。
斗南の背中から鴉羽色の翼が這い出た。闇より黒い翼は大きく広がって夕日を遮る。
翼が落とす影の下、杳はふっと目を細めて笑った。
斗南の右手が壊れ物を扱うように頬を撫でる。固い掌に唇を寄せ、杳は囁いた。
「斗南君、大好き」
鴉羽色の翼が歓喜に羽撃き、恋しい娘を覆い尽くした。