カラオケ店を後にすると、人の声と笑いが夜の空気を押し上げていた。
信号が変わっても渡ろうとする人に鳴らされるトラックのクラクション、「二次会に行く人ー?」と居酒屋の前にいる学生。
その全てが、現実の中にいることを思い出す。
彼らは灯りに集まる虫のようだった。
一方で、裕樹は楓に手を引かれ、灯りに群がる人波をするりと抜けて、ビルの影の中へと進んで行く。
すれ違う人の数は徐々に少なくなり、楓と裕樹は並んで歩幅を合わせて歩けるようになった。
手を引くように繋いでいた指先は、絡まり合うように一つの形になり、繁華街へ引き返すという選択を閉ざされたように感じて、裕樹の心は震えていた。
夜にぼやけて浮かぶネオンの色や、石版に刻まれたようなSTAY、RESTという文字が多く目に入るようになる。
ネオンの色がじわりと夜気に滲み、通りを行き交う声が遠のきはじめたころ──
楓の手がふっと緩み、裕樹はその場で足を止めた。
「……ここ、入ろっか」
視線の先にあったのは、繁華街の喧騒からわずかに離れた場所に立つ、白い石細工のような壁を持つホテルだった。
他の店のけばけばしい看板とは違って、壁は滑らかで艶があり、壁面には西洋の彫刻を思わせる浅い装飾が流れるように刻まれていた。
丸窓の縁には繊細なレリーフ。
まるで教会と館がまざったような、不自然なほど静かな品の良さ。
自分よりも一回り上の女性と、これからどこで何をするのか、裕樹は全て分かっているはずなのに、それを認めるのは少しの怖ささえあった。
アルコールを含んだわけではないのに、胸の内側からそわそわと押し上げられるような鼓動が続いていた。
楓の指先の熱で血流が良くなっていくようで、体のところどころがむず痒くなる。
裕樹の喉がきゅっと締まるような感覚があった。
ホテルの入り口には薄いオレンジ色のライトが灯されていて、彫刻の陰影がゆっくり呼吸しているように見えた。
「ここが良さそう。見た目も綺麗だし。」
そう言って楓は微笑みながら裕樹の手を引いた。
裕樹は一歩踏み出すたびに、雑多な人の声や車の音が遠くなっていくのを感じる。
振り返ることはせずに、開いた自動ドアの中に吸い込まれるように二人はホテルの中へと入っていく。
背後の自動ドアが閉まると、外の音は全て遮断された。
照明は薄く暖かく、どこか美術館に似た静けさがあった。
壁際には、空室のパネルが並んでいて、長方形の小さな窓の中の写真が光っていた。
大きなベッド、白いシーツ、ピンクのライト、ガラス張りの浴室。
どれも同じようで、どれも知らない場所だった。
「どれがいい?」
楓が振り返りながら、指先で一つひとつの写真をなぞる。
「え、あ……、こういうホテルに来たことがなくて…。」
言葉が喉に詰まる。
裕樹には、これから部屋を選ぶことも、どんな部屋を選ぶのが正解なのかも分からなかった。
楓は目を丸くした後、愛玩動物を愛でるような目で裕樹を見つめる。
「えっ…、そうなの?初めてなんだ…。」
楓は驚きつつも、どこか嬉しそうな表情でパネルの全体を見ていた。
うーん、と数秒考えた後に一つのボタンを押す。
「ここにしようかな。」
指先が触れた瞬間、パネルの奥で電子音が短く鳴った。
すぐ横の小さな取り出し口のランプが点灯し、薄いカードキーが一枚、静かに押し出されてくる。
白いプラスチックにホテルのロゴだけが印刷された、ルームキー。
「ほら、こうやって鍵が出てくるの。」
楓がそれを摘み上げ、軽く指で弾く。
まるで「今度はあなたが選べるようになるのよ」と指導をされているみたいだな、と裕樹は心の中で思う。
ぺち、と薄いカードならではの音がして、裕樹の胸の奥の緊張がひとつ、形になったように感じた。
受け取ったカードキーを軽く掲げ、行こっか、と楓は歩き出す。
初めて会った人間に、知らない場所で手を引かれて行く謎の緊張感。
ロビーの奥には、鏡面仕上げの壁に溶け込むようにエレベーターがあった。
呼び出しボタンを押すと、静かに光が灯り、すぐに扉が開いた。
狭いエレベーターの中に乗り込むと、その瞬間──
空気が変わった。
楓の柔らかい肌と熱は近くに感じられて、化粧と甘い香りが鼻腔に流れ込んでくる。
さながら袋の鼠になった裕樹の胸に、楓はネイルの表面でなぞるように撫でた。
「アキくん…すごく緊張してるんだね…」
無邪気な大人の声から一変して、低くて湿り気のある声が、裕樹の脳を直接くすぐるように語りかけてくる。
蛇が体の表面を這うように、胸から鳩尾、臍へと指先が動いていくのを裕樹はただ見ていた。
まだ服を脱がされていないのに、体のどこに何があるのかを言い当てて行くような触れ方。
「こういうところに来たら…」
楓は囁くように笑って、その息遣いが耳元をくすぐり、こう続けた。
「エレベーターの中から始まってるんだよ?」
裕樹の心臓がドキンと跳ねると同時に、下半身が布地を押し上げるように隆起した。
確実にそれに気づいている楓は、あえて硬くなっているそれには触れない。
ホテルの中では、考える時間、気持ちの整理、逃げる余地すら与えられない場所なのだと裕樹は理解する。
楓の手は、そこから裕樹の手の甲に触れてからゆっくりと指を絡めた。
その瞬間、エレベーターのドアがゆっくりと開く。
ほんの数十秒、エレベーターに居ただけのはずなのに、裕樹は体の奥に火を灯されたようにじんわりと熱くなった。
廊下は白い壁に淡いランプが揺れていて、かすかに流れる落ち着いたBGMが、廊下の静けさをさらに深くしていた。
二人の足音だけが、床に吸い込まれるように小さく響いた。
楓はカードキーを指先で器用に転がしながら歩き、点滅しているネオンライトの部屋番号の前で立ち止まる。
「ここだね。」
楓はそう言って裕樹の方を見る。
その表情は、拒むという選択肢を優しく取り上げるような笑みを浮かべていた。
裕樹はその笑みに体を揺さぶられ、そのせいで心臓が揺れているのだと錯覚するほど鼓動は大きくなっていた。
楓がカードキーをかざすと、ピッ…と小さな電子音が鳴り、緑のランプが灯る。
ロックが外れ、楓はドアノブを回してゆっくりと中へ裕樹を誘い入れた。
吸い込まれるように、裕樹は部屋へと入る。
ドアが閉まった後に、ロックの電子音がやけに大きく聞こえる。
カラオケの個室とは違い、この扉の向こうには誰も来ない。
一度閉じてしまえば、外の世界から完全に切り離された二人きりの空間になる。
それは、逃げ道が塞がれるようで少し怖い。
なのに──
どれほど乱れても、どんな表情や声を漏らしても、ここで起きたことが外に触れることはない。
そう思うと裕樹は、妙な安心感を覚えた。
この場所ならどんな自分を見せても構わないという、言葉にならない快楽の免罪符か。
一回り年上の女性と関係を持って、その女性とどんなプレイをしようともここなら。
楓も安心感を得たのか、部屋に入るなり「おいで」と両手を広げて一歩前へと近づいた。
言葉を交わすより先に、裕樹は楓の豊かな胸元へ吸い寄せられるように体を預ける。
楓の温もりや柔らかさ、息遣いが密着した肌から頭の中へと伝わってくるようだった。
楓が裕樹の頬に手を触れると、触れた場所が一瞬だけ熱を帯びたように感じて、胸に顔を埋めていた裕樹が面を上げる。
二人の視線が重なって、見つめ返す必要も、言葉もいらなかった。
楓の笑みに、次に何が起きるのかすでに告げられているようで、ゆっくりと柔らかな唇が迫ってくる。
裕樹もそれを受け入れるように目を瞑り、二人の唇はほんの少しだけ重なった。
小鳥がついばむような軽いキスは一度では終わらず、二度、三度と、湿った音を立てて繰り返される。
触れるたび、互いの唇の柔らかさと温度が確かめ合うように深まり、次第に貪るように激しさを増していく。
やがて二人は、まるで示し合わせたように同時に舌を伸ばし、柔らかな舌先が絡み合った。
舌のざらりとした表面、混ざり合う湿った音が口腔から頭の奥へと響き、裕樹の体を内側から震わせた。
喉、胸、そして下腹部へと、電流のように熱が走り抜ける。
ひとりでに身体が震えて、裕樹の舌は意志より先に楓の舌へ応えるように動いていた。
恋人のキスのような、愛情を確かめ合うものではない。
これは体を昂らせるための手順なのだと、裕樹はそこで確信する。
その理解に引っかかるように、葵との記憶がふっと浮かぶ。
プレーパークでの夜、一度だけ唇さえ奪ってみたい衝動が湧いたことがあった。
好きだとか、愛おしいとか、そういう感情ではない──
欲していたのは葵そのものではなく、この電流のような熱を引き起こすやり方なのだと、今なら言える気がした。
舌が絡むたびに、熱が身体のどこかを焼くように広がり、貪るような深いキスはすでに肉体関係の始まりを告げる。
その事実を思うほど、興奮は抑えようがなかった。
次第にキスがほどけていく。
唇が離れた時の細く伸びた唾液の糸と、余韻を吸い込むような呼吸だけが、たった今交わされた熱を引きずっていた。
唇が離れても、身体はまだ別れ方を忘れたまま寄り添ったまま。
しばらくして、楓がそっと身を引き、裕樹の手を包む。
「……キス、すごい気持ちよかった。上手だね。」
楓はそう呟いた後の表情が、ふっと和らいだ。
笑顔というよりは、満足気な表情をしていて──
思っていたより良いものを手に入れたという人間の顔だった。
いつもなら礼を言うか、照れ隠しの言葉を返すはずなのに、裕樹は胸の奥に残る痺れを持て余し、声を出すことができなかった。
「ねえ。一緒にお部屋、見よ?」
繋いだ両手のまま、ダンスを始めるかのようにそのままゆっくりと歩き出す。
すぐ横の脱衣所を開くと、ガラス張りのバスルームが視界に広がった。
湯気はないのに、空気に湿った気配が通り抜ける。
大人が三人は入れそうな、大きめの白いバスタブの横にあるスイッチを楓が押す。
柔らかな光を放って、お湯が流れ始めた。
その形状とライトアップを目にし、裕樹はこの場所もまた、絡み合う場所なのだと理解した。
(ライトアップされてるのエロ…この中でエッチなことしたら絶対盛り上がる…)
今、手を繋ぐ楓が裸になって、この中で寄り添う。
そんな映像が脳内に浮かび、裕樹の心臓はドクンと跳ねた。
裕樹の下衆な妄想も、これからそうなることも、楓は全て見通した上で、裕樹の反応を楽しむように眺めていた。
「次、こっち。」
裕樹は妄想の中に置き去りにされつつも、手を引かれ、ベッドルームに繋がるドアが開かれた。
大きなベッド、頭上には照明調節のパネル。
テーブルには灰皿、リモコン、メニュー。
黒い革張りのソファーは、座るより──
沈むための形をしている。
裕樹の視線がソファで止まったことに気付いたのか、楓は
「……そこで触られるの、想像した?」
と、裕樹の逃げ道を断つように囁く。
否定したいのに、首が動かない。
楓は裕樹の震えた沈黙を答えとして受け取り、ゆっくり繋いだ手に力を込めた。
「どう?初めてのラブホテルは?」
その問いかけに、裕樹は部屋の照明がわずかに暗くなったように錯覚する。
同じ明るさのはずなのに、室内の空気だけが、息を潜めた獣のような気配に変わる。
「普通のホテルと全然違うって思ってるんじゃない?」
裕樹は、喉の奥で微かに息を飲んだ。
(……そう。ここは寝泊まりや休息する空間じゃない。ここは…。)
──乱れて、本能を解放するために作られた場所。
楓は裕樹の視線の揺らぎを確認すると、ゆっくり、優しく告げた。
「ここではね、日常のルールはいらないの。触りたいなら触る。言いたいことは言う。…ここは…そういうための場所だから。」
裕樹の背筋に、キスとは別の種類の熱が走る。
逃げ道は閉ざされ、堕ちる場所に連れてこられたと、身体の奥がようやく理解した。
楓の指先が、服の上から腹をなぞるように這い、下腹部へと滑り込んでくる。
その感触と、堕落を促すような言葉が重なって、裕樹の理性は一瞬で吹き飛んだ。
頭で考えるよりも先に、今度は裕樹の方から楓の唇を貪るように奪っていた。
「んふ…、急にどうしたの?欲しくなっちゃった?」
楓は驚いたように息を漏らしたが、拒まない。
まるでこの展開を予想して、再び唇を重ねる刻を待っているかのように、ふわりと微笑む。
楓の身体は、裕樹の方に沈むように強く抱き寄せられ、唇が深く重なる。
つがいの蛇のように舌が複雑に絡み合って、短くしまった音が鳴り響く。
「んっ…我慢できなくなった?」
唇が離れた瞬間、楓の声は僅かに上擦り、呼吸が少しだけ乱れる。
裕樹が快楽に沈んでいく様を、楽しみながら観察していた楓が、予想以上の強引さに反応が零れたように見えた。
だが裕樹には、その変化を読み取ろうとする理性は残っていない。
楓は逃げるでも、拒むでもなく。
裕樹を受け入れる形で、首元に手をそっと添える。
唇が触れ合うと、二人の重心がわずかに揺れる。
呼吸がリズムになり、それはまるでダンスのステップのようで──
踵が床を掠めるたび、二人の身体が少しずつ後ろへ滑る。
やがて、ベッドのフレームに踵が触れたところで動きが止まる。
複雑に絡まった舌は、時間をかけて溶けるように離れ、唇がほどけた。
裕樹が一呼吸置いて、目を開けた瞬間、そこでようやく理解する。
ここで腕を伸ばせば、楓はベッドに沈む。
楓の表情は、追い詰められた人間の顔ではなく、裕樹の選択を待つ表情だった。
柔らかい穏やかな瞳で、「どうする?」と問いかけるように、ただ静かに裕樹を見つめている。
裕樹は躊躇うように、両手をゆっくりと伸ばし、楓の肩に触れる。
触れた瞬間、楓の睫毛はふるりと振動する。
それは拒絶や恐怖ではなく
「そう、それでいい」と告げるような合図。
突き飛ばすように力を込めるのではなく、ゆっくりと、楓に「倒れろ」と念じるような弱々しい力。
それが伝わったかのように、楓の身体は素直に動いた。
スローモーションのように腰が沈み、皺のない白いシーツに吸い込まれるようにベッドへ着地する。
片手が後ろへ添えられ、身体の重さを預けた姿勢になると、首筋に沿って髪がふわりと滑れ落ちた。
裕樹は理屈ではなく、肉に引き寄せられるように膝をつき、楓の脚の間へゆっくりと近づいていく。
楓は逃げるのではなく、裕樹に寄り添うように、シーツを押しながら僅かに後ろへ下がる。
誘惑か従属、それすらも曖昧なまま、二人の距離は限界まで詰まって止まった。
重心を支える楓の指先は、ほんの僅かに力がこもっていた。