コンテストテーマ『動物』
『淀んだ、重く、暑い旅』
※非常にセンシティブな表現を含みます
事の始まりは都内某所────。
「東南アジア?そこに乗り込めばいいってワケ?」
ヒリヒリと焼き付くような午後の日差しを浴びながら、テレビの前でスナック菓子の空き袋を握りしめた知依はそう言った。
知依は無鉄砲な大学生である。知依は学生という縛られたこの生活に飽き飽きし、日々危険なものに手を出しては失敗し、周囲の大人に怒られるということを繰り返していた。この日は夏休み2週間前の日曜日で、父親と母親は買い物に出かけていた。兄弟たちは暑さにやられて眠っていた。犬も寝ている。
暇を持て余した知依は大学の夏休みという“暇の極地”を恐れている。課題なんかとりあえず手を動かせば終わる。
ただ、時間というものは自分の手では終わらせることが出来ない。
それが何より腹立たしい。
こっそりと一人旅行を計画していた知依は偶然目にした“東南アジア”という文字列に僅かに心をときめかせていた。つい先日、キレた客に逆ギレしてバイトをやめたばかりの知依。とりあえずの資金ならある。
修学旅行のために取得したパスポートもある。
「今から飛行機取れるかな。」
テレビでは繰り返し、『高収入を謳うバイトは大変危険です。若い世代を狙った怪しい広告には絶対に近付かないでください』と伝えている。
好奇心に火がついた知依の耳には、何一つとして届かないのであった。
知依の夢は戦火に飛び込むジャーナリストであった。
英語には自信があった。言葉さえ通じるなら、多少のことは困らないと高を括る。
夏休みでの大冒険をレポートととして認めたら、ゆくゆくはあの鬼の教授も褒めてくれるかもしれない。
卒論のネタにも出来るかもしれない。就活でどこかの企業が拾ってくれるかもしれない。
そんな望みたちが、『何がなんだかよく分からない怪しい詐欺集団をこの手で叩き潰す』という熱い情熱を燃やした。
知依はスマホで怪しい求人を調べ、夏休み入ってすぐ手っ取り早く行けそうなものに目を付ける。
『学生・未経験大歓迎☆パキスタンで簡単PC作業!!在宅ワークOK!海外リゾートで短期バイト』
それは、地獄への片道切符だった。
■ ■ ■
パキスタンとは偽造された経由地に過ぎなかった。
夏休み3日目、早速成田から意気揚々と飛び立った知依。現地に着くなり“仲介業者”の大男に嘲笑された。
「お前は良いカモだよ、日本人の女。」
「良いカモを捕まえたわね。フォアグラにされるなら本望よ。」
知依も流暢に言い返すが、内心既に憔悴している。
──こいつにスマホ取られてる。
大男によるとこれから東南アジアに飛ばされるらしい。知依の他には30人程度の日本人が集まっており、同じくスマホや端末等を取り上げられ、青い顔をして縮こまっている。
こいつ大学生じゃね?こいつ高校生じゃね?……本当にこの求人に何らかの希望を見出して応募しちゃったわけ?
……いや、私も大枠で言えば同じ穴の狢だが。
しかしよく考えるとパキスタンは別にリゾート地ではない。なぜここに来るまで気付かなかったのか。私は。
「で、東南アジアに飛ぶって言ったけど。また飛行機?」
「まさか。ちょいと車に乗ってもらうぜ。」
こういった“闇バイト”とは、集合地と実際の就業場所が異なることが多いということは事前に調べて知っていた。別に驚きはしなかったが、だからこそ、今の所ネットで調べていたこの仕事の真の意味が今更になって現実味を帯びてきた。ネットにはこう書かれていた。
“入ったら最後、個人情報の全てを取り上げられ、脅されて二度と無事で出られることはない。”
少しの後悔と、憔悴、大きな好奇心。
大成したいという底無しの願望。
数人に囲まれボロい車に押し込まれた知依は、窓から移りゆく景色を見つめた。ミャンマーへと近付くその粘りつくようなぬるい風が頬を何度も掠めた。
遠くに揺らめく川べりの銀の揺らめきが、今は恐ろしいほど美しく眩しく感じていた。
■ ■ ■
ミャンマーは想像以上に大都会だ。幾つものビルが木々のようにそびえ立つ。どれもこれも無機質でつまらない。こんなつまらない場所で過ごさねばならないと思うと、ため息が出る。
今の知依はコンクリートジャングルに迷い込んだ外来種だ。騙されたのではなく、自ら戦火に飛び込む異端。まだ自分には勝ち目があると思い込んでそのちっぽけなプライドを奮いたたせる。
連れて来られた施設は淀んで、重い空気が張り詰めている。ただでさえ高く厚い塀がこの建物を覆い隠しているのに中身までこれでは薄気味悪い。
しかも異臭が濃い。汚い。知依は不衛生な環境に、既に心底ムカついていた。
「おう兄貴、連れてきてやったぜ。男32人と、今回はオンナのガキが1人。」
施設の奥から来たのは、ブローカーの男。
「ほーう、馬鹿なお嬢ちゃん、名前は?」
誰が馬鹿なお嬢ちゃんよ。
「……知依(ちい)だけど?」
「chi?チャイニーズか?おいお前、今回集めたの日本人だけじゃ無かったのかよ。」
「だ・れ・がチャイニーズよ!ジャパニーズよ!」
「チッうるせーガキ、もうさっさと仕事部屋押し込んどけ。」
知依と男たちは真っ暗な──否、PCやスマホの光だけが存在する部屋に押し込まれる。“仕事用”だというその端末を顔に投げつけられ、睨んだ瞬間殴られる。
「なにすんのよ……」
「出たければ、従うことだな。とりあえず裏垢作りまくってアホでも釣っとけ。」
「ふざけんじゃないわよ!どういうつもり!?私はあんたたちを潰しに───!」
「あ?なんだって?……馬鹿だ、本当に馬鹿だよチャイニーズ。お前の頭の中は天国より高いところにあるみたいだな!脱げよ、お前の価値なんて体か臓器しかないんだぜ!?」
銃口が、触れた額に冷たい。
「やめてください、まだ大学生の女の子に……ぐああっ!!?」
知依を庇った男がボッコボコにされた。
あの人は今日、一緒の車に乗った人。自分のせいで、また誰かが傷ついた。自分の信じる正義が揺らぐ。
髪を掴まれ、引きずられた知依は今後その部屋に入ることはなかった。
女しか居ない別室に投げ飛ばされる。
女しかいない別室に。
その意味を、知依はこの時点では知らない。
■ ■ ■
2年後の冬。
テレビでは、『“闇バイト”に関わった日本人がミャンマーから緊急帰国』と繰り返し伝えられている。
「末広知依さん!なにか一言を!」
「………」
知依は日本政府の助けを借りて帰国した。もうその瞳に、光が宿ることは無い。罪に問われることもない。ただ、残りの人生に無の時間だけが待っている。
カメラのフラッシュを浴びながら、飛行機のステップから降りていく。足取りは、重い。
記者たちは無神経に質問をぶつけ続ける。
「自業自得で済むのなら、ジャーナリストはいらない。」
知依は一言だけ呟いて、フードを目深に被り直した。
それから、先の見えない長い入院生活が始まることとなった。
なにも無い真っ白な病室、真っ白な包帯だらけの身体で青褪めた空をただ見上げる。
点滴の滴り落ちる音だけが、この沈黙を終わらせている。
無理に脳に焼いたあの日の記憶が、今後も知依に深く暗いトラウマを刻み続けることとなる。
知依、23歳。孤独の果てに永遠という長さを知る。
■ ■ ■
4年後のことである。知依を庇ったあの男は、シーツに横たわるその小さな彼女を抉れた片目で見つけた。飛び掛かって、永遠の重さを拳で刻み続けた。幾度も、幾度も……。